人の重さ
1月23日、薩摩に着いた龍馬は、早速7名の土佐脱藩浪士を引き連れ、西郷を尋ねた。
この頃の西郷は長州征伐を最低限の犠牲で済むよう、日本を駆け廻っていた。そして、その裏では龍馬と同じく勝海舟との繋がりも持ち、そこでお互いの信頼を深めていた。
薩摩藩の勢力を広げる、という野望を持っていたが、本来は戦を避けたいという考えの持ち主であり、交渉を主体に幕末を納めた一人でもある。
「吉之助さん、お願いできるろうか?」
薩摩にある西郷邸で、龍馬は土佐浪士7名を外で待たせて話しをしていた。
「坂本さぁの頼みでも、難しか話しでごわすよ」
「何じゃ、長州五卿は穏便に済ませても、イチ浪士は腹を斬れ言うがか?」
「そうではおまはん…。今、これ以上何かを抱えると、幕府に…」
「吉之助さんはいつもそうじゃ。幕府の顔色を伺って、後手後手に回ってしまうがぜよ」
「そう言い申すな、坂本さぁ。おいどんは…」
その言葉を聞かず、龍馬は足を崩して仰け反った。
「あぁ、吉之助さんの立場じゃ浪士を救うのは無理っちゅう事じゃな。ほいじゃワシも薩摩を離れないかんちゃ」
西郷はその龍馬を慌てて制した。
「そいつは困り申す。勝どんから重々と言われて居る」
「ワシと、外の7名と何が違うがか? 同じ人間ぜよ。それとも吉之助さんは身分によってその重みが違うっちゅう、古臭いお人になってしもうたがか? 薩摩のお人は皆同じ命でも、他藩の命には上下をお付けなさるお人じゃったがか。ワシぁがっかりぜよ」
龍馬はニコニコしながら西郷を視線から外して捲し立てる。
「吉之助さんの中立を守りたい気持ちは分かるぜよ。今、事を荒立てちょったら、幕府も朝廷も敵に回してしまうっちゅう事も分かっちゅう。けんど、ここで誰かを犠牲にしてしもうたら恨みしか残らんっちゅう事も分かって欲しいぜよ」
「全ての人を救うのは無理でごわす」
西郷は龍馬の言葉を冷たく打ち消す。
「それは吉之助さんの本心か?」
今度ばかりは、龍馬の視線は鋭く西郷を射抜く。無論、西郷の本心では無い事は龍馬も分かっている。薩摩藩が7名を匿う事は、幕府に対する裏切りを意味し、大坂城焼き討ちという大罪を目論んでいたとなると、朝廷すら敵に回しかねない。完全孤立を意味してしまうのだ。
「失言たい…」
西郷は暫く俯いて沈黙を守った。そこに龍馬は身を乗り出して言葉を掛けた。
「吉之助さん、前からお願いしちゅう件はどうなってるが?」
「交易結社の事でごわすか。その件は長崎グラバー商会と坂本さぁに任せる事で、薩摩藩としても交易の利益が魅力でごわすから…なるほど。そういう事でごわすか…」
龍馬は何食わぬ顔で西郷を見つめる。
「はて…何の事じゃろうかの?」
「薩摩藩出資である事で、おいどんの口から言わせたいようでごわすな」
「ワシは脱藩の身。人の采配などできる訳がないがよ」
龍馬は鼻を穿りながら言う。
「その7名、薩摩藩抱えとして亀山社中に配属を命ずる…これで良かろう?」
その言葉に、龍馬は膝を揃え正座をし、深々と頭を下げる。
「確かに承り候。直ちに拝命させて頂き、長崎へと向かいます」
西郷はやれやれ、という表情を出し、さっさと出て行く龍馬の背中に声を掛ける。
「坂本さぁ、他に何かあったのでは…?」
「いや、また時期が来ればお願いするがよ。今お願いしたら、吉之助さんの動きが止まってしまうがよ」
「分かり申した。長州の事でごわしたらいずれその内に」
流石に西郷の頭の中には、龍馬の危惧する内容は既に入っていた。
薩摩で土佐浪士の処遇が決まった頃、京都では新撰組内部の軋轢が生まれようとしていた。
「サンナンさんが!?」
沖田は驚きと戸惑いの声を上げた。場所は近藤の部屋。
「ああ、これが書き置きだ。江戸に行く、とだけ記している」
「それだけで脱走とは限らないでしょ!」
沖田は立ち上がり、近藤に言い寄る。
「落ち付け、総司。山南総長は以前から西本願寺に屯所を移す事に異論を唱えていた。それが現実味を帯びる時期に成り、先日局長と口論になった」
土方が沖田の身体を止めながらそう説明する。
「そ…それだけで脱走とは…」
「いや、その内容から脱走は間違いない」
今度は近藤が沖田に言う。
「分かってくれ、総司。脱走は…死罪だ。局中法度に総長が背く訳にはいかないし、局長の立場としても律せねばならん」
「サンナンさんは私を弟の様に可愛がってくれ、京の人達の人望も厚い! そのような人を斬ってしまわれると、新撰組に対する嫌悪が増します! 脱走では無く、江戸遊説と言う事にはできないんですか!」
「そうした所で、山南が納得して隊に戻るか考えろ!総司!!」
土方は沖田の身体を抱きしめる様に捕まえ、叫ぶ。
「総司…お前が行くんだ。山南を連れ戻せ」
「私は嫌です! サンナンさんを捕まえるなど、できません!」
「ならば他の者に、兄の処遇を任せるというのか!」
今度は近藤が怒鳴り付ける。近藤・土方両名とも、山南に対する愛情は一入であり、それ故今回の事で心を大きく痛めた。思想の違いによる大きな隔たりを、友情が超えていた三人にとって、この時代の忠誠という物を超える事はできなかった。
沖田は涙を流し山南捕縛の命を受けるが、一握の希望として薫を同行させる事を土方に認めさせた。
「サンナンさんを…捕縛? 脱走となれば…連れ戻した後の処罰は決まってるでしょう」
話を聞いた薫は、未だ涙の止まらない沖田に向かい、非情な一言を掛ける。
「薫さんなら、何か知恵があると思い、土方さんに同行をお願いしました」
涙を拭く事無く、沖田は薫に同行を頼む。しかし、薫の表情は晴れない。
「ここで連れ戻す事に成功し、死罪を免れたとして…局中法度は敗れる、となると、新撰組内部の秩序は崩壊します。そして、それを承知の上で江戸にと向かったサンナンさんは、その罪を問われ、死罪になる事も覚悟しての事。我々がそれを阻止した事で、サンナンさんが納得するとは思えない」
薫は変わらず非情な言葉を浴びせ続ける。しかし、眉間にシワを刻み、腕を組んで深く目を閉じている。が…突然目を開き、近藤の部屋へと走って行く。沖田も驚き、その後を追う。
近藤の部屋には、まだ土方が居た。そこに走り込んだ薫は、近藤の前に正座する。
「本日二月四日、浅野薫・沖田総司両名、山南総長捕縛の命に就きます」
突然の乱入ではあるが、それよりも土方と沖田は困惑した。
「二月だと?」「二月ですって?」
まだ1月20日。単なる誤りとしては余りに不自然である日付に困惑する二人だが、近藤はニヤリと笑い、沖田と薫に改めて命じた。
「本日二月四日、山南敬助捕縛を改めて命ずる。直ちに出立せよ」
その言葉に薫は深々と頭を下げ
「有難う御座います。局長」
「良い。お主の腕を信じる。山南を宜しく頼む」
薫は再度頭を下げ、直ちに出立の準備に入る。もちろん沖田も準備をするのだが、何が何だか分からない状況に陥っており、涙も止まっていた。
こうしてその日の内に山南追走・捕縛を命ぜられた二人は、他の隊士に内緒で出立した。そして、その事が全隊士に伝えられたのは『二月四日』であり、その日に出立した事になる。
この14日間の内に、既に二人は山南を捕捉しており、様々な策を繰り広げていたのだった。