歴史の意思
客間で食事を摂る龍馬。その前には剣一が座っている。重太郎は門下生と共に剣術を磨いている為、二人の空間が出来上がっている。
「剣さん、腕はまた上がっちゅうな」
剣一は腕を大きく上げて
「ほら、こんなに上がるよ」
「それは未来では皆笑うがか?」
「そうしてくれると助かるけどね」
他愛も無い会話で時間が過ぎ、互いに切り出したい話しのタイミングを計っている。
「龍さん、何も聞かないんですね」
「…例えば世界、亜米利加…。刀で勝てるがか?幕府の政で、この先亜米利加と肩を並べる強き国になるがか?」
一気に核心に迫る龍馬に、剣一は戸惑った。
「答えられんがよ、剣さんには」
そう言うと、食後の茶を啜った。
「剣さん、ワシは剣を学んで、何かをしたい思うちゅうがよ。けんど、何をしたらええがは、全く分からん。書簡にも記したが、河田小竜先生にも会うて、世界を知った。けんど、ワシがしたい事、出来る事がなあんも見えんがよ」
「龍さん…剣は、人を斬る道具です。政を正す事はできません。血の降るような革命を起こしても、それは武力による制圧であり、今までと変わりません。そして、この先剣で世が混乱に導かれる事もまた、ある…かも知れません。しかし、アメリカの黒船に、刀一振りでどう戦いますか?」
「そこじゃ、そこが知りたいがよ。今、侍として何を斬ればエエがやろか」
「斬る。それしかありませんか?」
「どういう意味ぜよ」
「その意味は、龍さん自身がこれから様々な人と出会った中で見出して下さい(僕自身、貴方について詳しくは知りませんし)」
「何じゃ、ケチじゃのぉ」
そう笑うと、龍馬は一気に茶を飲み干した。
「近々人に会う約束があるがじゃが、剣さんも一緒にどうぜよ」
「…人? どなたですか?」
「同郷の武市っちゅう頭のエエ男じゃ」
「武市…半平太ですかね?」
「…剣さんが知っちゅうって事は、やっぱり大物になるがや」
剣一は、しまった…と、一瞬顔をしかめたが、龍馬は一向に気にせず、話しを進めた。
「武市は武士っちゅう在り方について、将来を見据えちゅう。剣さんが未来から来た男で、剣術に長けちゅうがは、未来にも剣術が残っちゅうがやろ? 侍は居らんっちゅうたが、侍の心は生きちゅう。武市さんも、武士の魂の在り方を模索しちゅうがよ。あれには感銘を受けたぜよ」
剣一は愕然とした。未来の自分がこの時代に来てしまい、世を動かすハズの人間に多少なりとも影響を与えてしまっている事を。そして、武士道が未来に残るという事は、武市に追随しようとする龍馬を必要以上に掻き立てるのでは無いか、と言う事を。
「龍さん、私は…」
そう口にした所で止めた。
自分が武士では無い、武市瑞山の提唱する世の中は、決して訪れない。その事は決して口にできない。
「武市さんとは、いつお会いに?」
「恐らく2.3日中にここに来ると思うがよ。どうしたんじゃ、そげに怖い顔して」
「私も同席して良いんですか?」
「もちろんぜよ、まあ、一つ問題があるが…」
龍馬は少し困った素振りをして見せる。
「土佐居合を習得しとって、それもかなりの使い手となったら、武市さんの耳にも名前は入ってなかったらおかしいぜよ。藩外不出っちゅう事で、土佐以外の人間は騙せておっても、武市さん程の人を騙すゆうがは難しいちゃ」
「しかし…」
「分かっちゅう。策はあるちゃ」
龍馬は腕を組み、剣一を睨みながら微笑み、
「入れ替わるがよ」
そう口にした。
「入れ替わる…?」
龍馬は左手を顎に当て、ニヤリと笑った表情を崩さずに、小さく語り出した。
「土佐に、剣の腕は一流じゃが、ほとんど知られておらん男が居る。武市さんも、名前程度は知っちゅうが、素性も何も興味は無いがよ」
「興味が無い…とは?」
「そん男は阿呆っちゅう話しじゃ。ワシも人の事は言えんが、剣の腕は確かじゃ。阿呆で何を考えちょるか分からん。おまけに郷士の中でも身分は低いと来たら、武市さんも興味は無いがよ」
「阿呆…ですか」
「もちろん、それは噂だけじゃっちゅう事にして、剣さんに会わせるがよ。発想が余りに現世離れしちゅうせいで、阿呆っち言われちゅう事にすればエエ」
「その人の名前は…?」
「岡田以蔵っちゅう男じゃ」
「岡田!?」
「知っちゅうがか、まぁエエ。一日だけじゃ。その方法以外思いつかんき、その日一日以蔵になって、芝居を打つしか無いぜよ」
「いや、その人はまずい」
「心配いらんちゃ、岡田が偉人なら、おんしが変わって偉業を成せばエエじゃろ。それに、あの岡田が偉人に成るとは思えん。大方剣さんが岡田に成り替わって、時代の偉人になるのが時の流れかも知れんぜよ」
『待ってくれ、岡田以蔵と言えば、幕末では人斬りで恐れられた暗殺者だろ?歴史を変えないとするならば、僕が暗殺をしていく事になるのか…?』
自分が来た時代の流れを変えないように…そう注意しながら、殆ど道場から出ずに暮らして来たが、ここに来て時代の回天に思いがけず巻き込まれて行く自分に、呆れと恐れが一気に襲いかかる。
しかし、ここで武市に会わなければ、龍馬が佐幕派として完成し、後の歴史に大きな傷跡を遺していくかも知れない…。この後に会う、龍馬・武市二人の会話の中で、龍馬が後の佐幕派に籍を置く事を避ける手立てを見つけなければ、事は大きく変わってしまう。いや、果たしてそうなのか? 今、目の前に居る男は、他人の存在で自分の信念を左右してしまう器の男なのか?
剣一は、後悔した。いや、後悔という穏やかな物ではない。ここで自分が以蔵に成らなかった時に、果たして阿呆と言われる以蔵は武市に会い、人斬りとして恐れられる人物に成りうるのか? 自分がこの時代に来た事で、既に歴史が自分を取り込んだ流れになっているのでは?
恐怖が剣一の体を覆って行く。
「剣さん…大丈夫か?」
龍馬が剣一の肩を掴む。剣一の体は、まるで大地震に襲われている程震えている。
「少し、考えさせて下さい」
蒼白の顔を、龍馬は覗き込み少し頷いた。
「剣さん。歴史を知っちゅう事で、こん先何が起こるか分かるじゃろうが、自分の思う通りに動いてみたらどうじゃ?」
「そんな事をしたら、未来が変わってしまいます」
剣一は絞り出すように言い放った。
「未来なんてもんは、変わらんと思うが?」
「今、ここで私が龍さんを斬っても、ですか?変わらないと言い切れますか?」
「未来にワシが必要なら、ワシは死なんじゃろう。時代が必要なら、時代が生かす。もし、剣さんが何か行動を起こしても、それが必要無いなら、剣さんの行動はどっかで帳消しになるっち思うがよ」
龍馬は、部屋の隅を見つめ
「土佐に戻ってから、ずうっと考えちょったぜよ。未来から来た男について。何の為に来たか、目的と使命について…。そうじゃ」
龍馬は、顔を明るく仕切り直し、剣一の両肩を掴み言い放つ。
「賭けにでるか、武市さんには、剣さんの名前も素性も真っ先には話さん。土佐の仲間で、江戸で剣術修行する同士っちゅう事まで説明して、そん後は成り行きに任してみんかえ」
「打合せも無く、あの武市さんを騙すんですか?」
「どの武市さんかは知らんが、歴史の真意を確かめるぜよ」
何でこの人は、こんなに挑戦的に笑うんだろう。他人事だから、では無い。そういう人では無い事は分かる…
「時代の寵児か…」
「ん?」
「いえ…分かりました。龍さんに賭けてみます」
剣一と龍馬は、この時から歴史の大渦に呑まれ、時代を駆け抜ける事となる。