修行
「剣さん、龍さんから書簡が届いてるよ」
千葉道場長男、重太郎が健一の元に手紙を持って来た。
「ああ、わざわざすみません」
剣一(健一と書くが、この時代の人間はこう表記してしまった事から、このように表記する)は、千葉道場の中庭から縁側に腰掛け、書簡を開いた。
「龍さんが土佐に戻って2年だね。龍さんの父上が亡くなったり、土佐で大きな地震があったと聞くけど、龍さんは何か書いてる?」
「ええ、船には酔わないのに、地に立っているだけで酔いそうになったと…お父上の事に関しては、特に何も記してませんね」
「龍さんの言う事は相変わらずだねぇ」
重太郎は小さく笑った。
「とうとう、龍さんは出会ってしまったか…」
「え? 誰にだい?」
「いえ…」
「剣さんも不思議な人だね…龍さんの同郷、土佐の人だったって聞いて、妙に納得したけど、訛ってないしねぇ」
時を遡った事実は龍馬しか知らない。それすら真偽は謎だが、龍馬の計らいで、同郷の者とする事になった。
「土佐の人が皆、おかしな人ではありませんよ」
軽く笑いながら答えるが、龍馬の手紙には時代が大きく回天して行く切掛けが記されていた。
書簡には、土佐にて河田小龍という画家に出会った事、そして彼が中浜万次郎という男から聞いた海外情勢などの影響を受けた内容が記されていた。
「遂に世界に目を向けてしまった…」
剣一には止める事が許さない波が、静かに、そして確実に押し寄せてくる書簡であった。
剣一は龍馬からの書簡を読み終えると、重太郎に見せる事無く自らの部屋に片付けに行く。
「剣さん、たまには私にも見せてくれないかな?」
「いや、これは私に宛てられた書簡。申し訳ないですが、お見せする事はできません」
剣一はできる限り、この時代との関わりがあった証拠を、後の時代に残さないようにしていた。万が一、剣一の持ち物からこの時代に関する証拠たる物が出ないとも限らない為、書簡等は後で焼却していたのだった。もちろん、あの携帯電話やボールペン等も、粉々にして処分している。
「全く…龍さんと何か企んでるんでしょう」
そう言うと重太郎は立ち上がり、剣一を道場へと誘った。
「さぁ、門下生達に土佐居合と言う物を見せてやってくれないか。藩外不出と言われる居合術を、皆楽しみにしてるよ」
居合術の歴史は古く、しかし時代とともに進化・変化を繰り返す剣術となり、幕末では土佐藩主、山内家に保護された為に、藩外不出とされている。
そして、剣一が土佐出身で居合の使い手となった事から、土佐居合の使い手として剣術を振るう事になっている。
龍馬が江戸を離れ二年が経っており、剣一もその間、千葉道場で実践的な修行を繰り返し、何かの衝撃で元に戻れる事を少しばかり期待をしながら腕を磨いていた。しかし、その事で自分の運命をも変えてしまう事に、今の剣一に気付く事はできなかった。
「しかし…龍さんと立ち会った時の、あの感覚。あれ以降は感じられない…」
剣一が呟くと
「剣士は一流と相対する時、初めて自らも一流となる」
重太郎は小さく呟いた。
「最も、どんな時も一流であるために、剣の修行をするんだけどね」
今度は振り返り、笑みを浮かべながら言った。
『この1年で実践的な修行はしたけど…』
幕末に、剣士として存在してしまった事で、必然と剣を振るう立場になってしまったが、いざという時に本当に人が斬れるのか。そんな疑問と不安も抱えながら、剣一は日々、道場での生活を送っていた。
長い廊下の突き当たりを左に曲がると、江戸の小千葉道場が見える。母屋とは離れになっており、本家千葉道場もある事から、ここは【小千葉道場】と呼ばれている。
道場の木戸を重太郎が開けると、門下生達が全員正座で入り口に向かって頭を下げる。その様は、自分が偉くなったように錯覚させるに足る光景だった。
「木下先生、本日お手合わせ頂く森本です」
「先生はやめて下さい。私はただの剣客。まだまだ修行の身ですから」
「土佐居合の熟練者であり、我々がお手合わせをして頂いてから、誰一人勝てた者はありません」
剣一は強くなっていた。平成の世に残る居合術を元に、更に独自に進化させていた。
「私も、負ける訳にはいきませんからね」
自然と口から出た言葉だが、これが大きな意味を持つ事になるとは、当時の剣一にはもちろん想像すらできていない。
両者が道場の中央に進み、森本という門下生と剣一が、1メートルほど離れて相対する。龍馬と対峙した時とは違い、両者共木刀での立ち会い。
「少し時間を下さい」
そう言うと剣一は、神前・刀にそれぞれの礼を行う。
「お待たせ致しました」
そう言うと、剣一は正座のままで静止した。
「木下先生?」
立ち上がらない剣一は、そのまま森本に礼をした。それに釣られるように、森本も一礼をする。
しかし、正座のまま立ち上がらない剣一に、森本が不思議な顔で帯刀姿勢を保っている。
「森本さん。一礼が終わると試合は始まってます。今のままではあなたは既に私に斬られていますよ」
森本は我に返り、慌てて抜刀姿勢を取る。
「居合とは、いつ如何なる状況下においても対処できる剣術。それは着座姿勢であっても同じ事。私は既に構えを取っています」
抜刀状態からの斬り合い、という概念が固まっている千葉道場門下生は、居合・抜刀術の恐ろしさに息を殺した。
森本は静かに一歩下がり、攻め手を模索している。相手は納刀しており、更に着座姿勢の敵。技が分からない以上、間合いも少し広く取り、刃圏に入らない事が無難と判断した。
しかし、その瞬間、剣一は腰を上げ、爪先を立てた状態で、膝を使い森本との間合いを一気に詰めてくる。その圧力に負け、森本は剣一の左に回り込む。帯刀は左腰。抜刀術では死角になると判断した。
「きええい!」
気合いと共に上段から剣一に斬りかかる。見守る門下生は全員が身を乗り出す。
その瞬間、剣一は左膝を軸に横に向き直りながら右膝を立てつつ、上方に抜刀、同時に上段から打ちつけて来る森本の攻撃を受け流しながら立ちあがる。その全ての動作が同時に、一呼吸で完了してしまう為に、門下生が身を乗り出してしまった。
立ちあがりに攻撃を受け流しつつ、森本の左を取り、即座に首に木刀を当てる。
「勝負アリ…です」
一瞬の出来事に、重太郎始め門下一同、声も出ない。その沈黙を破ったのは、いつの間にか道場に顔を出していた佐那だった。
「後の先を取る、とは言いますが、剣一殿は本当に『後』を取ってるのですか?」
剣一は笑いながら答える。
「後の先を極めたのは、かの宮本武蔵です。私は後の先を取ってる訳じゃ無いですよ」
「剣一殿の仕合を拝見すると、常に相手の攻撃を縫うように勝負を決めていらっしゃいますよね?」
「居合は、鞘に収めながらも攻めています」
納刀しながら沙那の質問に答える。すると、今まで仕合っていた森本が態勢を戻しながら、
「確かに…剣一殿が正座をした瞬間、私は呑まれ申した。その後、剣一殿に斬りかかった切掛けも、圧し負けたという表現が妥当かも知れませぬ」
「全ては気迫、剣気です。斬るという覚悟を持ち、かつ冷静で居なければ剣は通りません」
「そんな理屈、分かる奴ぁそうそうおらん」
佐那の背後から、いや、正確には佐那の遥か頭上から緊張感の無い声が道場に響いた。
「いつ帰って来たんだい?」
「つい、今しがた着いたはエエが、誰もお出迎えが無いき、道場まで来てしもうたがよ」
土佐訛の大男…
「龍さん、お帰り」
「剣さん、お帰りは変じゃろ、ワシは田舎者じゃき、ここじゃ客人ぜよ」
「それを言うなら、僕も客人だけどね」
「あぁ、そうじゃのぉ、此処じゃ客人が一番でかい顔しちゅうが」
「遠慮しろと言っても、しないだろう?」
重太郎が龍馬を茶化すように言うと、受ける龍馬も
「これでも遠慮しちゅうがよ」
と、返しながら腹を押さえながらニヤリと笑った。
「佐那さん、龍さんに何か作って上げてくれませんか?」
剣一が言うとハっとして、沙那は龍馬を見上げ、
「あ…少しお待ちくださいね」
そう言うと、龍馬の体を交わして奥に進もうとする。
「剣さんは、すっかり婿養子じゃのぉ」
いたずらっぽく剣一を流し眼で見る。
「龍さん、ダメですよそんな冗談ばっかり言って、佐那さんをからかったら」
「ワシは剣さんをからかったんじゃが?」
「剣さんは平気なんだよね」
重太郎が意地悪くニヤ付く。
「お、剣さん遂に決めたがか!」
「いい加減にして下さい、兄上、龍さん」
振り向かずに屋敷に戻りながら、佐那が戒める。
「おぉ、怖いちゃ」
悪戯っぽく重太郎と龍馬は笑い合った。そう、歴史が変わっている。千葉佐那、坂本龍馬は互いに想い合ってなければならない関係。だが、千葉沙那の心は、剣一に惹かれつつあった。
小さな歯車が、維新回転の歪みを生み始めていた。




