躊躇いも無く、慈悲も無く
次第に囃子が賑やかになる京の夜。男は近江屋の表の木戸を叩く。
その音に気付いた藤吉は、峯吉が何か忘れたのかと返事もせずに開ける。当然そこに立っていたのは峯吉では無かった。
「あ…岡田殿…」
予想外の人影が立っていた為、驚きで声が出なかった。しかし、その表情はすぐに明るい本来の藤吉の物に戻り、笑みがこぼれる。
「良かった…。岡田殿にお願いがあったんです、さ・さ、入って下さい」
藤吉はそう言いながら男の袖を引き、中へと入れ、さっさと階段を上がって行く。
『この機会に、坂本殿の警護をお願いすれば…』
先日、伊東甲子太郎よりもたらされた情報は、藤吉の心に大きな不安を残していた。そう、龍馬が命を狙われている、という事だ。
逸る気持ちを抑えながら、階段を三段ほど上った時…頭の後ろに大きな衝撃が走った。
藤吉は訳が分からず、消え行く視界を背後へと向けた。
岡田…殿?
最早声など出ない。そのまま階段へと大きな体躯は崩れ落ちる。
その音を聞き、二階の龍馬達はまだ峯吉と藤吉が暴れていると思ったのか、「吠たえなや!」と、二度目の戒めを行う。
その数秒後、閉ざされていた襖が静かに開き、礼儀正しく正座で一礼する男が現れる。
「以蔵殿! どうしたがか?」
龍馬はその男にすぐに気付き、顔を緩める…が、雰囲気がおかしい。中岡もその事に勘付き、何があったのかと男に近付く。そして、更に龍馬は近眼であった為、表情を読み取ろうと男の顔を覗き込んだ。
一瞬だった。
男の太刀は帯には無く、左手で持っていただけ。それを龍馬の顔が近付いた瞬間に、抜刀と共に横に薙いだ。太刀は龍馬の額を横一文字に斬り裂き、鮮血は男の右側の壁に走る。
予想だにしない事に、一瞬の迷いが出た中岡は、背を向け自らの太刀を取ろうとするが男はそれを許さず、鞘を中岡の後頭部に投げつける。と、同時に、額を割られながらも反撃の為に床の間に置いてある太刀を取りに向かう龍馬の背中を袈裟掛けに斬る。恐らく背骨もろとも斬ったのだろう。その場に崩れる龍馬の巨体。
男はそのまま立ち上がり、右手を突きだし『待て』と言う中岡の腕ごと体を斬る。
「ぐぅっ」
という声と共に、中岡はうつ伏せに倒れ、男はその背中に三度、切っ先を突き刺す。
「石川、太刀は無いか? 太刀は無いか?」
龍馬は額を割られながらも、中岡を変名で呼び、気遣う。
殺気など微塵も纏わず、躊躇いなど一寸も持たない、慈悲なども感じない人形のような男は、ゆっくりと龍馬の背後に歩く…。龍馬は、背骨を斬られながらも、床の間の太刀を握り、振り返る。
男は八双の構えから、一気に脳天への斬撃を放つが、龍馬もそれに備え、抜刀すらせずに自らの太刀で受けようとする…が、その攻めに対して守る場所が悪かった。
龍馬の座る窓際の天井が低くなっていたのだ。
打ち払うつもりの龍馬の太刀は、天井を破り喰い込み、そこに打ち下ろされた斬撃は、龍馬の愛刀の鞘を割り、刀身を削ぎ、火花を散らしながら脳天へと滑り込んだ。
男の太刀は、龍馬の脳天を割っていた…。
「おまん…まっこと以蔵…かえ…? いや、違うのぉ…おまん、誰ぜ…」
その言葉を聞いた男は、何の感情も出さず、龍馬の脳天から太刀を引き抜き、階段を下りて去って行く。
残された龍馬は、愛刀を鞘から抜き、刀身に自らの顔を映す。
中岡も、何とか意識を取り戻し、龍馬を見る。
「大丈夫か…龍馬…」
「いかん…いかんちゃ、ワシは脳をやられちょる」
額と脳天から吹き出す鮮血と共に、脳漿も流れているのが分かった。
「何故、岡田殿が…」
絞り出しながら、窓から助けを呼ぼうと左手のみで畳を這う中岡に、龍馬は言った。
「あれは以蔵殿じゃないき…。刻の番人じゃ。ワシの命は…天に…返す…」
龍馬はその言葉を発しながら、ゆっくりと、前のめりに倒れ、絶命した。
「エエジャナイカ・エエジャナイカ」と、窓の外には町民が騒ぎたてている。
中岡は、「龍馬…龍馬…」と言いながら、必死で窓から屋根へと身を乗り出し、意識を失う。
エエジャナイカ・エエジャナイカ
その囃子に乗り、悲痛な叫びは掻き消されていた…。
慶応三年 十一月十五日。
坂本龍馬 暗殺。
幕末の英雄、坂本龍馬 死亡。
暗殺犯だという確たる証拠が無い現在、定説となっている以外にも諸説あります。
できるなら、この物語の中だけでも生かしておきたい人物ではありますが…
物語の中で唯一、この場面だけは作者として後書きを入れさせて頂きます。
期待を裏切ってしまった方々、申し訳ございません。
主人公として柱に立った男が、親友龍馬を斬る…。こんな話です。感想とか貰えれば嬉しいですが、批判もお受けいたします。
幻滅していなければ、お話しはもう少し続きますので、お付き合いください。