英雄の帰還
「ほいたら、ワシの思い付きのせいで伝説の男になってしもうたがかよ」
そう言いながら大笑いした。
「笑い事じゃ無いよ、龍さん。あれ以来、土佐勤王党にも疎んじられるし、ここに来る途中だって、名前が出る度に変な連中に狙われるし…」
「しっかし、大坂でおんし達に会うちょわ思わんかったぜよ。まっこと運命を感じるがよ、なぁ佐那さん」
龍馬は以蔵の肩を抱き寄せ、佐那にも同意を求めるが、茶を啜る佐那は
「私達夫婦を危険な道に放り込んだ張本人が、何を呑気な事を言っているのですか」
と戒めた。
「ワシもこげん事になるとは、思うておらなんだき、そこは勘弁じゃ」
「良いんですよ、もう。それに慎太郎殿にも良くして頂きましたし」
「おぉ、中岡が役に立ったがか」
「龍さんが面倒を見る様に、と頼んでくれたんでしょ?」
「あいつも、組織のやり方っちゅうのに多少の疑問を持っちょったからの。以蔵殿の事を良う見て、これからの自分の動き方を考えればエエっちゅうただけじゃき」
以蔵と発した龍馬の言葉に、周囲が凍りつく。
「龍さん…」
頭を抱えて、周囲を見渡す。
大坂城下町にある店で茶を飲む以蔵一向は、殺気の中で暫く居た。
「何か、ワシ余計な事言うてしもうたがかのお…」
「取り敢えず、出ましょう。迷惑がかかると悪いので」
以蔵はそう言って、支払いをして店を出る。
龍馬と佐那も続いて出るが、その後も二人の浪人らしき男が出て来る。
「ちょっと兄さん方、以蔵って言ってたが、知り合いか?」
「以蔵はこの男じゃが?」
無神経にも龍馬が以蔵を指差す。
「龍さん!」
以蔵が龍馬の腕を掴むが、既に遅い。
「お前を斬ったら、一躍有名人だ。どこの藩でも召し抱えてくれるわ!」
そう言って柄に手を当てると、龍馬が踏込み言い放つ。
「ほお、お主等が斬るっちゅうがか。あの伝説の岡田以蔵を。殺される事は無いじゃろうが、もう歩き回れん体になってしまう覚悟はあるじゃろうな?」
龍馬がそう言うと、以蔵の隣に居た佐那が続けて口を開く。
「活人剣、神速の居合術は命こそ奪いませぬが、我が夫も侍…五体満足では帰しませぬぞ」
「佐那まで…」
「さあ、それでもエエっちゅう男が抜くは止めんき、白昼の往来で斬り合ってみたらどうぜよ」
龍馬はそう言うと、体を開いて男達を以蔵の前に押しやった。
「活人剣とは言われていますが、御存じの通り襲撃して来た方々は斬らなければなりませんよ?」
男達は気後れしている。
「覚悟が無いなら、出直すちゃ」
龍馬がそう言いながら、襟元を掴んで後ろに投げる。よろけた男は、もう一人を連れて逃げて行く。
「龍さん、頼みますから往来で名前は…」
「いや、思案足らずじゃったわ」
「でも、ちょっと気持ちが良かったですね」
「佐那、何を言ってるんだ…」
以蔵はまた頭を掻きながら宿屋に向かい歩き出す。
「いや、江戸まで心強い護衛ができて良かったちゃ」
「諸国を流れてる男が、良く言いますよ」
こうして三人は、大坂から江戸までの行動を共にする。しかし、大坂に以蔵が現れた事が関西諸藩の警戒心を強め、志士達の活動も活発化する事になる。
三人が江戸に到着したのは八月二十二日だった。以蔵達は千葉道場に着き、婚儀の届を土佐藩に提出、正式に夫婦となったと報告はしたが、無論嘘である。土佐では龍馬が陰で動き、体裁を取り繕っただけである。以蔵も悩んだが、有無を言わせぬ状態と、まだ残る若さからの縁組となっている。
「どうだった、土佐は。何やら物騒な話しも聞こえて来て、どうやら噂の岡田以蔵が絡んでるとか言われているが…あの修羅を見たか? 一時とは言え、名を語って無事だったか?」
噂好きである重太郎は、真っ先に以蔵と龍馬に聞き寄る。
「兄上、帰着早々何ですか。以…龍さん達も疲れていると言うのに」
「佐那は相変わらずか、で、どうだった剣さん、修羅の英雄は見たのかい?」
「英雄? 岡田以蔵が?」
「神速無敵。活人剣で狼藉者を成敗し、開国論者の幕府要人を失脚に追い込む、孤高の英雄だ」
まるで子供のように身振りを大きく、刀を振り回す素振りをする重太郎に、半ば呆れ顔の三人。
「ん? どうした、見たんじゃないのか?」
「英雄…ホンマにそう思うちょるのか?」
「当たり前だ、江戸では大人気の英雄だ。最も、開国論者にとっては悪人だがな」
「秘密は守れるがか?」
「何だ? 口は堅いぞ」
「ちょっと、龍さん」
佐那も、仕方ないな、という表情をしている。
「他言は無用ぜよ、エエな?」
「分かってる。何だ」
「岡田以蔵はおまんの義弟ぜよ」
重太郎の周りだけ時間が止まる。言葉を噛み砕き、脳味噌に送るのに時間が掛かっている様子だ。以蔵と佐那は、そんな重太郎を無視して、懐かしい部屋へと移動している。
「口は堅いけど、これから疲れるだろうな」
「全くです」
「まぁ、面白いきエエがやろ」
龍馬はただ楽しんでいるだけだった。
三人が部屋に入り、それぞれが腰を下ろすと、不思議そうに龍馬を見つめて佐那が言う。
「龍さん、ここは夫婦の部屋ですが…」
「おお、そうじゃった。ワシからしたら、佐那さんがココに居る方が違和感があるがやけど…、まぁ、ちっくと休ませてくれちゃ」
以蔵はゴロっと横になる。それを見て龍馬も横になる。佐那は溜息を吐いて荷を解きだす。と、ようやく重太郎の時間が戻ったらしく、ドカドカと廊下を走り部屋に入る。
「今、何と言ったか、剣さんが…剣さんが…まさか!」
酷く興奮しても以蔵の名を出さない辺りは、流石に口が堅いと思われるが、その先の言葉が出て来ない様子である。しかし、佐那を見るなり近付き、両肩を掴んで
「でかした…佐那は英雄を仕留めた…」
我が義弟が、巷で話題になっている英雄である事が、余程嬉しかったのだろう。涙まで浮かべている。
流石に暑苦しい光景と見えたか、龍馬は寝転がったままで、重太郎の尻を蹴飛ばした。
「もうエエき、ちょっと静かにしてくれんがか」
悪戯っぽくニヤつきながらの仕業に、重太郎も「ウム」としか言わず、部屋を後にした。
「以蔵さん、これからどうするぜよ」
「私は…流れに身を任せます」
「流れ…かや…」
その会話を最後に、二人は旅の疲れから寝入ってしまう。
「全く…男というのは…」
佐那は仕方なく部屋を後にし、かつて自分の部屋であった場所へと向かう。
翌日。早朝から龍馬はどこかに出掛けて行ったきり、昼前まで戻って来ない。
以蔵は千葉家中庭で一人稽古をしている。
「剣さん…」
縁側から重太郎が声を掛ける。
「はい、何でしょうか?」
「道場で門下生に稽古を付けては貰えないかな…」
えらく遠慮がちに頼む重太郎。どうやら以蔵の名が頭にあるらしく、ワクワクしている様子が窺える。
「ええ、良いですよ。私もその方が稽古になりますから」
「門下生も皆、楽しみにしてたんだよ、剣さんが帰って来るのを。では、道場で待ってるから」
そう言うと、走って道場に向かい、程無く歓声が起きる。
以蔵は溜息交じりに道場に向かい、足を拭き一礼して入って行った。
「お久しぶりです、剣一殿。宜しくお願いします!」
やけに元気の良い青年が、剣一に一礼をする。剣一も一礼し、
「お手柔らかにお願いします」
そう言うと、竹刀を手に取る。…が、勝負は一瞬で終わり、剣一は竹刀を左腰に宛がい、正座をする。
「できれば数人でお願いできますか?」
そう言うと、壁を背に座って見学をしていた数人が、我先にと立ち上がる。人数は五人。
剣一は、着座姿勢のまま一礼し、
「宜しくお願い致します」
と、挨拶をする。その背後では重太郎が「神速」を見逃すまいぞ、とばかりに睨んでいるが、一人目、方膝を立てての脛一本。返す刀で立ち上がりつつ、二人目逆袈裟一本。左からの上段を受け流し、三人目袈裟斬り一本。背後からの突きを交わし、四人目胴一本…。一呼吸で四人を倒した。五人目は戦意を喪失している為、方手で面一本。
伊井直弼、吉田東洋、以蔵本物、そして江戸までの道中での闘いで、剣術の腕は異常なまでに上達していた。しかし、龍馬と対峙した時の感覚は、腕を磨けば磨く程感じにくくなっていた。歴史は自分を生かそうとしている、と感じていた以蔵は、自分の身を守りつつも、斬り合いの螺旋から逃れる術を模索しようとしていた。
歴史が自分を生かし続け、渦に巻き込む以上、それに応じて斬り合って行けば、いずれ屍を築き上げ、必要以上の混乱を導きかねない。抗う事で呑み込まれるなら、そこから脱する事を考えなければ…そう思いつつも、いつしか呑み込まれている自分が歯痒くもあった。
以蔵は道場の真ん中に戻り着座し、一礼をした。
そして以蔵の剣筋を見た門下生は、それぞれが以蔵の真似をし、切磋琢磨しつつその領域を目指している。
この日は昼食を挟み、夕刻まで門下生たちとの修行に時間を費やしていた。
修行を終え、重太郎と交代で風呂に入った後、夕食の善に向かう頃には龍馬も戻って来ていた。