そして2人は1人になった
大幅改稿しましたm( _ _ ✳︎)m
煌びやかなシャンデリアが輝き、豪奢な舞踏会場には美しい音楽が響いていた。侯爵令嬢クラリス・ラヴェルは、婚約者ギルバート・モルガンと踊りの輪の中心にいた。
「そこ、もう少しこちらにゆだねてくれ。やりにくいだろう。どうしてこんな簡単なステップの曲すら満足に踊れないんだ。君は本当に不器用だな」
ギルバートの声は小さいながらも刺々しい。微笑みを浮かべて周囲に取り繕いながらも、その言葉は明らかに彼女を見下す響きを持っていた。
見るものが見れば、女性側のステップをまるっきり無視して踊りたいように踊る男性側のリードは見るに堪えないものであったが、それを指摘する人はここにはいない。
ギルバートは見た目は艶のある黒髪の柔和そうな紳士だが、内弁慶というのとは少し違うが、親しい人には当たりがきついことがある。
「まあ、君には僕が必要だということだ。ダンスでさえこうなんだから、僕がいなければ、君は何もできないだろうね」
クラリスは困ったように微笑むと、わずかに俯いた。彼女のエメラルド色の瞳には、どこか疲れた色が浮かんでいる。
ダンスが終わると、クラリスとギルバートは招待客たちへの挨拶回りを始めた。堂々と話すギルバートの隣で、クラリスは控えめながらも笑顔を絶やさない。その姿を、少し離れた場所からじっと見つめている一人の男性と目が合う。
柔らかそうな栗色の髪とエメラルド色の瞳はクラリスと同じで、どこか血縁を感じる容姿だ。
クラリスはその男性、エイデンに笑いかけ、許可を求めるようにギルバートを見上げた。
ギルバートは不機嫌そうに頷くと、すぐに表情を貴族らしい笑顔に戻し、そちらに足を向けた。
ギルバートの腕に手を添えたクラリスもそれに続く。
エイデンがエスコートしているのは、クラリスの親友のマルセラ・スウィフト公爵令嬢だ。
美しい赤髪と熟れた赤いりんごのような赤い瞳が、たっぷりとドレープのある紺色のドレスとよく合っているが、それはエイデンの色ではなかった。
親友と目配せすると、クラリスはエイデンに向かって微笑みかけた。
「伯爵位継承おめでとうございます。エイデン様」
クラリスが挨拶すると、エイデン・クロフォードは優しく微笑み、深い声で答えた。
「ありがとう、クラリス」
彼はつい先日、侯爵家から独立し、伯爵位を継承したばかりだった。エイデンは幼いころに両親を馬車の事故で亡くし、伯爵位を叔父であるクラリスの父に任せて、侯爵邸で伯爵家の後継者としての教育を受けていた。
先日成人したので、それと同時に爵位を継承し、侯爵家から独立して出ていった。
マルセラの父がエイデンを気に入っていて、婚約を申し込んでいるらしいが、肝心のエイデンはまだ伯爵位を継承したばかりだとのらりくらりとかわし続けているらしい。
「なにか困ったことがあったらいつでも頼ってくださいね。わたしたち従兄妹だけど、兄妹みたいなものなのですから」
そう語る彼女の視線は、どこか遠い記憶をたどるようだった。
「ありがとう。クラリス。侯爵家にはずいぶんとお世話になった。もし何か困っていることがあれば、いつでも僕を頼ってくれ」
エイデンはちらりとギルバートを見たが、それが気のせいだったのではと思わせるほど自然に目線をクラリスに戻し、そっとクラリスの左手を取り、キスをした。
「僕の従兄妹殿のためなら、なんだってしよう」
その親しげな様子に、ギルバートの表情は次第に険しいものになっていく。
「いくら従兄妹といえども、婚約者のいる女性に近づきすぎるのは感心しないな。マルセラ嬢にも失礼だろう」
ギルバートは苛立ちを隠さず、そう吐き捨てたが、エイデンは軽く笑うだけだった。その様子は、ギルバートの感情をさらに掻き立てた。
「君もだよ。婚約者がいることをもう少し自覚して慎みを持って欲しい」
「配慮が足りませんでした。申し訳ございません」
「まあまあ、せっかくの夜会なのだし、少し踊りましょうよ」
マルセラが場の雰囲気を変えるように楽しそうに笑うと、クラリスも少しだけほっとしたように笑顔を返した。
「残念ながら、私たちは先ほど踊ったばかりなのよ。二曲踊ったから、さすがに疲れちゃったわ」
「あら。そうなの?ラブラブね」
「2人は踊っていないのでない?せっかくだし、中央で」
「それもそうね」とマルセラは楽しそうにエイデンの腕に美しい手を重ねる。
エイデンは恭しく胸に手を当てた。
「美しい方。今宵、あなたと踊る栄誉を私にいただけますか?」
「よろしくってよ」
マルセラはわざとらしく高飛車に言うと、くいっとホールの真ん中に躍り出た。
「少し疲れたから、休憩室で休んでくるわ」
クラリスはそう告げると、その場を離れた。
ギルバートはその背を見送ると、ソファ席に固まった友人達のほうへ足を向けた。
しかし、その後、クラリスは舞踏会場に戻ってくることはなかった。侯爵令嬢クラリス・ラヴェルは、忽然と姿を消したのだ。
ギルバートは、一時間ほど経ってからさすがに遅いと休憩室に向かったが、管理の者には、彼女は休憩室には来ていないと言われてしまった。
慌てて戻った会場にもその姿が見当たらないことに気づいた瞬間、冷や汗が背中を流れるのを感じた。
「まさか、誘拐かもしれない」
その考えが脳裏をよぎると、彼はすぐに行動を起こした。
舞踏会に出席している貴族仲間たちを呼び寄せ、捜索の手を広げるべく指示を出した。
「彼女の無事を確認するまで、誰も気を抜かないでくれ!」
緊迫した声で指示を飛ばすギルバートに、貴族たちも次第に表情を引き締めていく。
一方、侯爵家の長男でありクラリスの兄ランドにも、クラリスの不在の情報が届いた。
事業の相談をしていた子爵に礼をとると、あわてて控室にいるエイデンの元へ向かう。
事情を聞くと、彼はすぐに騎士団に捜索願を提出した。
それに、ギルバートが慌てて抗議した。
「待ってください。ランド様。事を大きくしすぎては、クラリスの評判に傷がつくかもしれません」
「だが、事は一刻を争う。君は黙っていてくれ」
「でも…」
「妹をエスコートしていながら何もできなかったのだろう。頼むから口を出さないでくれ」
ランドの言葉に、ギルバートは俯いた。
「妹の命がかかっている。全力で頼む」
ランドの冷静だが力強い言葉に、捜索のために集まった騎士たちは一斉に動き出した。
そのころ、控室のソファに座って成り行きを見守っていたエイデンは、ある結論に達していた。
「クラリスは婚約から逃げ出したに違いない」
彼女がギルバートとの関係に追い詰められていたことを思い返しながら、エイデンの胸には怒りが込み上げていた。
隣で青い顔で事態を見守っていたマルセラが息をのんで口に手を当てる。
「え?そんなことって……確かに辛そうな時はあったけれど、クラリスはこんな風にみんなに心配をかけるやり方をする子じゃないわ」
「いいや。絶対にそうに決まっている。だから俺は、彼にクラリスは任せられないと思っていたんだ」
大き目の声に、窓側にいたギルバートが振り返る。
「ギルバート。君が彼女を追い詰めたんだろう!」
エイデンの声は怒りと憤りが混じりあっていた。
ギルバートもまた苛立ちを隠さずに応じる。
「何を言っているんだ!部外者が口を挟まないでくれ。僕は彼女の婚約者だ」
「その婚約者がいなくなったのは君のせいだろう」
「でたらめはやめてくれ。俺だって心配しているんだ。こうしてわざわざ探しているんじゃないか」
二人の間に緊張が走り、控室の空気がさらに張り詰めたものになる。
侯爵令嬢クラリスの失踪から数時間が経過した。舞踏会場はすでに緊張感で満たされており、捜索は続いていたが、手がかりは一向に見つからない。
ランドとエイデンは、待っていられないとばかりに騎士たちと共に捜索に乗り出していた。
控室の空気は重い。
椅子に座って腕を組みうなだれていたギルバートは、ふと顔を上げるとマルセラのほうを見た。
彼女は胸に両手を当てて、今にも泣きだしそうな顔で窓の外を眺めていた。
時計の針の音だけが微かに響いている。ギルバートは苛立ちを隠せず、声を荒げた。
「全く、あいつはいつもこうだ。人に心配させて、迷惑ばかりかける」
マルセラは少し驚いた表情を浮かべたが、黙って彼の次の言葉を待った。
「どうして俺がいつも支えなきゃならない?婚約者としての責任だとか、そんなこと言われるけど、あいつ自身はどうなんだ?俺を支えようとする姿勢すら見せたことがないじゃないか」
ギルバートは立ち上がり、マルセラの隣に立った。
窓の外では、捜索隊たちがクラリスの名前を呼びながら走り回っている様子が見える。
舞踏会の華やかな音楽はまだ微かに聞こえているが、その音は彼の苛立ちを沈めるどころか、むしろかき立てるようだった。
「ギルバート様、少し落ち着いて」
マルセラは静かな声で言い、そっと彼の腕に触れた。その温かさに、ギルバートは一瞬驚いたように振り返る。
「落ち着けるわけがないだろう。この状況で、どうして冷静でいられるんだ」
「あなたが怒っても、事態は変わらないわ。それに、私はあなたが一人で苦しむ姿を見たくないの」
マルセラの言葉に、ギルバートは一瞬言葉を失った。その目には、彼女の真剣な思いが浮かんでいた。
ギルバートは大きく息を吐き、少しだけ声を和らげた。
「……すまない。俺だってわかっているんだ。けど、どうしようもない感情が溢れてくる」
彼は視線を下ろし、かすかに震える手を見つめた。
「俺は、彼女と心を通わせたことがないんだ」
「どういうこと?」
「そもそも、俺が婚約したかったのはシャーロットだったんだ」
突然の告白に、マルセラは目を見開いた。
「シャーロット……クラリスの双子の妹?」
ギルバートは頷き、苦しげに続けた。
「そうだ。だが、10歳のころ、俺との婚約が決まった直後に事故で亡くなった」
「クラリスから話を聞いたことはあるわ。ただ、私は学園に通いだしてからの親友だから、シャーロットさんとは面識がないのよ。でも、本当にそっくりな双子だったって聞いたわ」
「ああ。彼女こそ俺の初恋の相手だった。家の都合もあって、シャーロットの死後、すぐに婚約者はクラリスに変更された。俺の初恋はシャーロットに捧げたものなのに」
ギルバートはぐしゃりと手で頭をかき乱した。
「俺は、シャーロットの面影をクラリスの中に見ようとしていたんだ。シャーロットの代わりの婚約者に。シャーロットなら、もっと勉強ができるはず。シャーロットなら、もっとダンスが上手なはず。シャーロットなら、俺を好きでいてくれるはず……」
その言葉に、マルセラは息を呑んだ。
「ギルバート……」
彼女はそっと彼の手に触れた。
言うべきことはあったが、彼女は彼からもう言葉を聞きたくはなかった。
突然のぬくもりにギルバートは少し驚いたが、彼女の視線が真剣であることに気づき、目を逸らさなかった。
「そんなに苦しんでいたのね」
マルセラの言葉には静かな強さがあり、ギルバートは小さく頷いた。
しばらくの沈黙が流れた後、マルセラは優しく微笑み、ギルバートに寄り添うように言った。
「どんな理由があっても、私はあなたが一人で苦しむのを見過ごせないわ。だから、もし辛いことがあるなら、もっと私を頼って。私だってあなたの力になりたいの」
その言葉にギルバートは驚き、彼女を見つめた。その瞳に浮かぶ優しさは、彼の心の中の棘を少しだけ和らげた。
「ありがとう、マルセラ。君がいてくれてよかった」
ギルバートの口から出た感謝の言葉に、マルセラは微笑みながら静かに頷いた。
「クラリスがいなくなったのは、エイデンが関係しているかもしれない」
ギルバートの言葉は怒りと不安が入り混じり、どこか掠れていた。
「エイデンが?」
マルセラは驚いたように眉を上げたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「昔からエイデンはクラリスに執着していた。従兄妹としての範囲を超えていたんだ。俺はずっと気づいていた。あいつは自分のものだと言わんばかりに彼女を見ていた」
ギルバートの目には疑念の色が宿り、彼の拳は力が入るあまり白くなっていた。
「俺のいる場所で彼女を攫うなんて……」
彼の言葉には決意が込められていたが、その裏に隠された感情に気づくのは難しくなかった。
「でも……本当にエイデンが?証拠はあるの?」
冷静に問いかけるマルセラに、ギルバートは一瞬言葉に詰まる。証拠がないことは彼自身もわかっていた。
ただ、エイデンに対する感情的な不信が、そうした考えを植え付けているだけだった。
「証拠なんてなくてもわかるんだ。エイデンがずっと彼女に目をつけていたのは明らかだ」
ギルバートは感情的に言い放つが、その声には揺らぎが含まれていた。
「ギルバート、少し落ち着いて」
マルセラはそっと彼の手に触れた。その小さな手のぬくもりが、彼の激しい感情を少しだけ和らげた。
「いまあなたはとても焦っているわ。気持ちはわかるけど、今は冷静に考えるべきよ」
彼女の声は静かで、優しさが滲んでいた。その瞬間、ギルバートの内心には違和感がよぎる。
クラリスに対する感情は本当に純粋な愛なのだろうか?
それとも、彼女を婚約者という役割に縛り付けることで、自分のプライドを満たそうとしているだけなのか?
ギルバートの心の奥底には、いまもなお、幼い頃に出会った少女――シャーロット――への未練がくすぶっていた。
彼女との記憶が鮮明によみがえるたび、クラリスを見るたびに重ね合わせてしまう自分がいる。
「マルセラ……俺は、どうしてこうなったのか、わからなくなるときがあるんだ」
珍しく弱音を吐いたギルバートに、マルセラは少し驚きながらも、その手を強く握り返した。
「大丈夫よ。あなたはきっと正しい答えを見つけられるはず。今はクラリスを見つけることに集中しましょう」
マルセラの言葉に励まされたギルバートは、少しだけ表情を和らげる。彼女の存在が、一時的にでも彼の不安を和らげたのは確かだった。
だが、彼の胸の中に燻る疑念と後悔が消えることはなかった。
舞踏会の翌日、侯爵邸からの返答を受け取ったランドは、その内容に驚きを隠せなかった。
「舞踏会を乱して申し訳ないと主催者側への謝罪の手紙を同封する」
それだけではなく、父親である侯爵はこう付け加えていた。
「クラリスももう子供ではないのだから、放っておきなさい」
その文面には冷淡な響きがあり、娘の失踪を心配するどころか、他人事のように受け流す姿勢が明確だった。
ランドは書簡を握りしめながら、深いため息をついた。
「父上は人に興味のない方だから……」
自嘲気味に呟くランドの表情には疲労が色濃く滲んでいる。
もうすでに舞踏会でクラリスがいなくなったことは貴族たちに知れ渡っており、これはクラリスの瑕疵になるだろう。
もし見つかったとしても、娘としての利用価値はかなり下がってしまう。
父親としてではなく、侯爵として、彼は娘をすでに無価値と決めたのだ。
父の無関心が、クラリスの失踪に対する状況をさらに厳しいものにしていた。
一方、エイデンは自らの推測に基づいて行動を起こしていた。
一度屋敷に帰ると言って出ていったランドの背中を見送って、エイデンは懐から懐中時計を取り出した。
「クラリスは、ギルバートに追い詰められていた。それがついに我慢できなくなって自ら出て行ったんだ…」
彼はそう信じて疑わなかった。
ギルバートの言葉や態度がクラリスを追い詰め、彼女をここまで追いやったのだという正義感が、彼の行動を突き動かしていた。
控室に戻ると、驚くギルバートを襟元を掴み上げた。
マルセラの悲鳴が響く。
「なにをする!」
「クラリスは俺が見つける。そうなれば、クラリスはもうお前のものではない」
それだけ言うと、エイデンは颯爽と部屋を出ていった。
クラリス・ラヴェルは、静まり返った別荘の一室で深いため息をついた。
重々しいカーテンの隙間からは、月明かりが差し込み、薄暗い部屋に淡い光を落としている。
「どういうつもりか、ご説明いただけますでしょうか。お兄様」
冷たい声で問いかけたが、彼女の視線の先に立つ兄ランドは微動だにせず、ただ彼女を見下ろしていた。
先ほどまで捜索に加わっていた彼のマントの裾は汚れていた。
それを見て、クラリスは眉をひそめる。
「来いといって付いてきたのはお前だろう」
「会場から出るとは聞いておりませんでしたわ。何もわからないまま馬車に乗せられて……どうしてこんな時間に別荘に?お兄様はいままで何をなさっていたの?舞踏会はどうなりましたの?」
「……お前は名誉か、真実か。どちらを選びたい?」
「質問の意図がわかりませんわ」
ランドは目を伏せた。
「クラリスの偽者は、この侯爵家にふさわしくない」
その言葉にクラリスの胸が締め付けられる。
「偽者、ですか……」
かろうじて声を絞り出したクラリスの瞳には、涙が浮かんでいたが、それを見せまいと必死に堪えた。
「俺は、正しいものに戻したいんだ。もう少し待っていろ」
ランドはそれ以上言葉を発することなく、その場を立ち去った。
彼が扉を閉める音が響き渡ると、クラリスはその場に崩れるようにベッドに横たわった。
「もう、戻れないわね……」
疲労感に包まれたまま、クラリスの意識は徐々に過去の記憶へと引き込まれていく。
それはまだクラリスと双子の妹シャーロットが幼かった頃のことだった。
ラヴェル侯爵家の庭園で開かれたお茶会には、多くの貴族の子弟が招かれていた。華やかな会場で、シャーロットはギルバートと初めて出会った。
「はじめまして。シャーロット・ラヴェルです」
黄色のドレスを身に纏ったシャーロットが可憐な笑顔で挨拶を交わす。ギルバートはぽっと頬を染めてあいさつを返す。
その様子を、クラリスは自室の窓から見ていた。
「……いいなあ」
熱のためにお茶会に出席できなかったクラリスは、窓の外で繰り広げられる賑やかな光景を切ない思いで見つめる。
シャーロットは楽しそうに色々な令嬢、令息と話しているが、たまにクラリスのいる窓を見て、扇子で左手をぽんぽんと二回叩いた。
姉妹だけに分かるサインだ。
妹が皆の注目を集める様子を、クラリスはただただじっと見つめていた。
「懐かしい夢を見たわ」
翌朝、クラリスは微かに笑みを浮かべながら目を覚ました。
しかし、その顔にはまだ疲労の影が残っている。別荘の静けさが、彼女の孤独をより一層際立たせていた。
そんな静寂の中、重い扉が開かれる音がした。
クラリスは兄だと思い椅子に腰掛けたまま振り返って、扉の向こうに立つ人物に驚きの表情を浮かべた。
「エイデン……どうしてここに?」
そこにいたのは従兄であるエイデン・クロフォードだった。
普段は穏やかな微笑みを浮かべる彼だが、その目にはいつもの優しさとは異なる、不安定な輝きが宿っていた。
「どうしてって、君がここにいることを知っていたからさ。君のいるところは必ずわかるんだ」
エイデンの声は低く、どこか奇妙な安堵感が滲んでいた。クラリスはその異様な雰囲気に気づき、身構える。
「知っていた?どうやって?」
彼女が問いかけると、エイデンは少し顔を歪めて笑った。
「位置情報の魔法を使ったんだ。君がどこにいるか、ずっとわかるようにしていたよ」
「位置情報って……あれは家族でないかぎり、かけられないはずよ。緊急事態以外は」
もともと犯人追跡のために開発された位置情報の魔法。
だが、あらかじめ対象者にかけておく必要があり、その情報は逐一術者に伝わる。
便利ではあるが、他人の人権を脅かす可能性のある魔法なので、騎士団以外の人間は、基本的には使用することを禁止されている。
家族が小さな子供に使用する場合などは認められているが、それでも然るべき機関での許可が必要だ。
クラリスは息を呑んだ。
「そんなこと……あなたが、私に?どうして……?」
「君を守るためさ、クラリス。君は僕にとって特別だからね」
彼の声には妙な熱が込められており、クラリスはその場に釘付けにされるような感覚に陥った。
エイデンは静かに椅子を引き寄せ、クラリスの正面に腰掛けた。その動作は優雅で、まだ表面的には冷静さを保っているように見えた。
「覚えているかい?僕が初めて侯爵邸に来た時のことを」
突然の問いに、クラリスは一瞬戸惑いながらも頷いた。
「覚えているわ。あの時、あなたは両親を亡くしたばかりだったのよね」
エイデンは深く頷き、その目に恍惚とした光を浮かべながら語り始めた。
エイデンは痩せた男の子だった。伯爵家は騎士の家系で、厳しい訓練をしていたらしく、そこかしこに切り傷や痣があった。
使用人に連れてこられた侯爵邸は伯爵邸の二倍ほど大きく、落ち着かない様子の彼に、手を繋いだクラリスとシャーロットは顔を見合わせた。
ピンク色と黄色のエプロンドレスは、二人が動くたびにひらひらと揺れる。
同じ可愛い顔におそろいの服をきた二人は、どこか人形めいていた。
「はじめまして」
「はじめまして」
2人は同時に少年に声をかける。
エイデンはぺこりと頭を下げた。
「ここが今日からあなたのおうちなんだって。仲良くしてね。わたし、遊び相手がクラリスだけだから、ずっとここで一緒に遊んでくれたらうれしいな」
エイデンは、青ざめているシャーロットの昔と変わらない緑の瞳を見つめながら、にやりと笑った。
「ずっと絶望の中にいた僕に、君が優しく微笑んでくれた。侯爵邸で落ち着かない気持ちだった僕に、『ここにいていいんだよ』って言ってくれたんだ。それがどれだけ救いだったか、君にはわからないだろうね」
その声は懐かしさと感謝に満ちているように聞こえたが、徐々に何かがずれていく感覚をクラリスは覚えた。
「君は僕を受け入れてくれた。侯爵家に来た僕の唯一の居場所を作ってくれたんだ。それ以来、僕はずっと君を守りたいと思っていた」
彼の声に隠しきれない執着が滲み出してくる。
「僕はずっと、君だけを見てきた。君の悲しみも孤独も、全部わかっているつもりだよ。だから、君も僕を必要としているはずだ」
クラリスはその言葉にぞっとした。彼の語る「守りたい」という思いが、どこかねじれていることを感じ取ったからだ。
「エイデン……私には、あなたの助けは必要ないわ」
彼女の言葉に、エイデンの表情が一瞬で変わった。冷静さを装っていた顔が歪み、彼の目には狂気の色が浮かび上がった。
「そんなことを言わないでくれ。クラリス。君は僕のクラリスなんだ。他の誰にも渡さない」
そう言って手を伸ばしたエイデンに、クラリスは一歩後ずさる。
「私はエイデンのものではないわ」
震える声で告げたクラリスの瞳には、恐怖が浮かんでいた。しかし、その言葉はエイデンの執着に火をつけるだけだった。
「なんだ。じゃあ、あの男の…ギルバートのものだとでもいうつもりか?」
「違うわ、エイデン、私は……」
「君は僕のすべてだ。誰も、君に触れることは許さない!」
勢いよく椅子から立ち上がったエイデンに、クラリスは小さく悲鳴を上げた。
「エイデン、やめて……お願い」
「怖がることはないよ、クラリス。僕は君を守るためにここにいるんだ」
そのとき、ふいに扉の外からクラリスを呼ぶ声が聞こえた。
直後、その人影は体当たりでエイデンを吹き飛ばした。
エイデンは絨毯の上に転がる。
「クラリス!」
駆け込んできた人影はギルバートだった。
扉の前で立ち止まっていたマルセラがクラリスに飛びつく。
クラリスは唖然として立ち尽くした。
「エイデン、お前、何をしている!」
ギルバートはエイデンに向かって怒鳴りつける。
「大丈夫?」
マルセラがクラリスを支え、彼女を守るように立ち塞がる。
「邪魔をするなよ、ギルバート。僕とクラリスは大事な話をしているんだ」
エイデンは冷静を装おうとしていたが、その声には苛立ちが混じっていた。
「お前は狂っている」
ギルバートが強い口調で言い放つと、エイデンは嘲るように笑った。
「僕が狂っている?君こそクラリスを苦しめ続けてきたんじゃないか。僕だけが彼女を守れるんだ!」
「いい加減にしろ!」
ギルバートはマルセラごとクラリスを抱き寄せるようにして守った。
エイデンは倒れ込んだまま、恍惚とした目でクラリスを見つめながら呟いた。
「僕のクラリス……僕だけの……」
その異様な言葉に背筋を寒くなる。
ほんの少し前。
夜の闇が別荘を覆い、月明かりが静寂を際立たせていた。
小鳥のさえずりすら聞こえない、冷え冷えとした空気の中、ギルバートとマルセラは別荘の庭先に潜んでいた。
「エイデンを尾行してきてよかったな。かなり怪しい」
ギルバートは低い声で言いながら、視線を別荘の窓に向けた。
室内の薄明かりが漏れている。
控室での態度が明らかにおかしかったため、本当はエイデンが攫ったのではないかと思ったギルバートが後をつけようとし、マルセラは無理やり付いてきたのだ。
「でも、なぜエイデンがこんな場所に?」
マルセラは眉をひそめながら問いかけるが、ギルバートは答えず、静かに建物へと足を進めた。
彼の表情には怒りと不安が入り混じっている。
二人は慎重に別荘の扉を開け、物音を立てないよう廊下を進んだ。
そして、奥の部屋から声が聞こえてくるのを耳にした。
「君は僕のすべてだ。誰も、君に触れることは許さない!」
エイデンの甘い囁き。
「エイデン、やめて……お願い」
クラリスの声は震えていた。だが、エイデンはその言葉を聞いても微笑みを崩さなかった。
「怖がることはないよ、クラリス。僕は君を守るためにここにいるんだ」
その執着に満ちた声が部屋に響いた瞬間、ほとんど壊すようにして扉を乱暴に開け放った。
「クラリス!」
ギルバートが怒声とともに部屋に飛び込んだ。その後ろには、マルセラが冷静な表情で続いている。
エイデンは驚いたように目を見開いたが、すぐに冷静を装って口を開いた。
「どうしてここに?」
「お前を尾行していたんだ、エイデン。クラリスに何をしている!」
ギルバートの声には怒りが滲み、エイデンはそれを嘲笑うように肩をすくめた。
「何をしている?僕はただ、彼女を守ろうとしているだけさ」
その言葉に、ギルバートの怒りはさらに燃え上がった。
ギルバートはクラリスに歩み寄り、彼女の肩に手を伸ばした。
しかし、クラリスはその手を払い、後ろへ逃げた。
「なぜ俺を避けるんだ、クラリス?」
ギルバートの声には苛立ちと戸惑いが入り混じっていた。
「俺たちは婚約者同士だろう?」
その言葉に、クラリスは目を伏せたまま小さく首を振った。
「あなたはいつも、自分の理想ばかり押し付けていたわ」
その言葉にギルバートは動揺を隠せなかった。
「そんなはずはない……俺はただ、君を大切にしたくて……」
彼はふと視線を落とし、声を絞り出したように続けた。
「シャーロットの分まで、君を幸せにしようと……」
その瞬間、エイデンが鋭く笑い声を上げた。
「シャーロットのことばかり押し付けて!お前が彼女を苦しめたんだ!」
エイデンの非難に、ギルバートは顔を上げて反論する。
「何を言っているんだ!俺が彼女を苦しめただと?そんな訳はない!」
「苦しめている。シャーロットと婚約していたくせに、クラリスとも婚約するなんて」
「それは家の都合で…」
「シャーロットがクラリスになったから、シャーロットは自由になれると思ったのに」
その言葉に、ギルバートとマルセラは驚きの表情を浮かべた。
「どういうことだ?」
その場に重い沈黙が落ちた。クラリスはゆっくりと顔を上げ、全員を見渡した。
「私はシャーロット・ラヴェルよ」
その告白に、ギルバートとマルセラの表情が凍り付いた。
「どういうことなんだ……?」
ギルバートの声は震えていたが、クラリスは深呼吸をし、静かに続けた。
「馬車の事故でクラリスは亡くなった。私は1ヶ月間昏睡状態だったらしいわ。その間に、父は私とクラリスを間違えて葬儀を行ったの」
本当はまだ生きているシャーロットの葬儀を行った。
全員が驚愕に満ちた視線を彼女に向ける中、それぞれの胸に抱えた思惑が徐々に明るみに出ようとしていた――。
静寂が重くのしかかる中、クラリスの告白が部屋の空気を一変させた。
ギルバートとマルセラは、彼女の言葉を飲み込むのに時間がかかった。
「どういうことだ……君が……シャーロットだった?」
ギルバートの問いに、クラリス――いや、シャーロット――は深い溜息をつき、過去を語り始めた。
あの日、姉妹はドレスを入れ替えていた。
「今日はシャーロットが桃色で、私が黄色よ」
クラリスが微笑みながらそう提案すると、シャーロットは少し驚きながらもその提案を受け入れた。
姉妹の中で、こういったイタズラは珍しくなかった。
「じゃあ今日は私がクラリス、クラリスがシャーロットね」
しかし、その日、馬車の事故がすべてを変えた。
馬車が転倒し、クラリスはその場で命を落とした。
一方、シャーロットは大怪我を負い、昏睡状態に陥った。
侯爵は事故直後の混乱の中、色で姉妹を区別していたため、ドレスを着替えていた二人を誤認してしまう。
「シャーロットが亡くなった」と父親は思い込み、死亡届を提出したのだ。
1か月後、昏睡から目覚めたシャーロットは、シャーロットの葬儀が終わったことを知った。
「お父様……どうしてこんなことに?」
しかし、父親はまるで興味を示さず、冷たく言い放った。
「こうなってしまったからには仕方がない。お前はクラリスとして生きるのだ。それ以外の選択肢はない」
シャーロットは抗う術を持たず、クラリスとしての人生を歩み始めるしかなかった。
クラリスとして過ごすのは、いつもの入れ替えイタズラとは比にならない。
これから一生、シャーロットはクラリスなのだ。
クラリスはもういないのに。
次の日、ギルバートがお見舞いに来てくれた。
婚約者の彼なら自分に気づくのではないか。そう思って、どう接するか迷う彼女に、ギルバートは苦々し気に言った。
「君との婚約が決まったそうだよ」
「こ、んやく?」
「シャーロットが亡くなってしまったからね。婚約者をクラリスに変更するらしい。すでに共同事業が進んでいて、婚約を無くすことは難しいそうだ」
彼は目の前にいる少女がシャーロットであることに気づかず、無意識にこう呟いた。
「どうしてシャーロットのほうが……」
その言葉にシャーロットの心は深く傷ついた。
双子の姉であるクラリスを亡くした喪失感は、決してなにかで満たせるようなものではなかった。
生まれた時から、ぴったりと合わさることが当たり前であるパズルのような、そういう関係だった。
シャーロットのみならず、そのクラリスをも、彼は侮辱している。
やがて彼女は、ギルバートの婚約者としての役割を果たすことを強いられた。
ギルバートはシャーロットの代替品としてクラリスを見る。
その代替品こそがシャーロットだと気づきもせずに。
シャーロットならもっと勉強ができるはず。
シャーロットならもっとダンスが上手なはず。
シャーロットならもっと彼に寄り添うはず。
「シャーロット」の名前だけを使った初恋という名の身勝手な期待は、だんだんとシャーロットの気持ちを冷たくしていった。
エイデンはすべてを知っていた。
「シャーロットがクラリスになったとき、僕はすぐに気づいたよ」
その冷たい声に、シャーロットは震えた。
「どうして気づいていたのに、何も言わなかったの?」
エイデンは薄く笑みを浮かべた。
「君がシャーロットではなくクラリスになったなら、ギルバートとの婚約はなくなる。僕の婚約者にできると思ったからさ」
その告白に、シャーロットの胸には怒りと恐怖が渦巻いた。
「あの馬車の事故は……あなたのせい?」
その問いかけに、エイデンは少し間を置いて答えた。
「違うよ。俺はいつも車輪に少し傷をつけるだけだ。上手くいくはずだったんだ。少し君に傷がつけば、嫁入りはなくなるかと。まさかあんな大きな事故になるとは思わなかった。肝心の君はまたギルバートと婚約しちゃうしね」
部屋には重い沈黙が流れ、それぞれの胸に抱えた秘密と後悔が絡み合い、物語の核心がようやく明かされようとしていた。
エイデンは床に膝をつき、ぽつりと呟いた。
「俺だけが知っていたシャーロットの秘密だったのに……」
その声には後悔とも怒りともつかない感情が混じっていた。彼の目は虚ろで、指先が震えている。
その姿に、ギルバートとマルセラは言葉を失ったまま彼を見つめた。
「クラリス……いや、シャーロット。君は俺だけのものだったんだ。他の誰にも渡さない……誰にも……」
その執着の滲む言葉に、シャーロットは一歩後ずさった。
その瞬間、重い足音が廊下から響いてきた。
「エイデン!」
鋭い声と共にランドが部屋に入ってきた。
侯爵家の次期当主としての風格を纏ったランドの登場に、場の空気が一変する。
「お兄様……」
シャーロットの声には驚きが混じっていた。
ランドは部屋を見回し、エイデンに向けて冷たい視線を投げかけた。
「遅くなってすまなかった。シャーロット。だが、話はすべて聞かせてもらっていたよ」
エイデンはランドを睨み返し、薄く笑った。
「俺が何をしたって言うんだ?」
その問いに、ランドは鋭く切り返した。
「すべての状況を見れば明らかだ。お前がクラリスに、位置情報魔法を使ったとき、嫌な予感がした。伯爵位を継いで屋敷を出たタイミングで、だ。明らかにおかしいだろう。俺はお前が暴走するのを見越して彼女をここに隠した」
ランドの言葉にエイデンの顔が険しくなる。
その間にも、ランドは毅然とした態度を崩さなかった。
「お前をあぶり出すために、騎士団に手を回していた。もう一度言う。先ほどの話はすべて聞かせてもらった」
扉の外から騎士たちが現れ、エイデンを取り囲む。
「来てもらおう、エイデン・クロフォード」
騎士の冷たい声が響き、エイデンは抵抗することなく捕らえられた。
その目にはまだ狂気が宿っていたが、ランドの命令で連行されていった。
エイデンがいなくなり、部屋には静寂が戻った。マルセラは震えるクラリスを見て、彼女に駆け寄った。
「無事でよかった……」
彼女はクラリスを抱きしめ、その声は涙に濡れていた。
「ありがとう。それよりもマルセラ……大丈夫?」
婚約者になるかもしれなかった男が連行されたのだ。
クラリスが問いかけると、マルセラは一瞬躊躇したが、意を決したように話し始めた。
「昨日の夜会であなたがいなくなった時、正直だれがどんな思惑で動いているのか分からなくて、とりあえずみんなを見張っていられる立ち位置にいたの。私は私でお父様の命令でエイデンと婚約させられそうになっていて、後が無かった」
「エイデンとの婚約は……」
「あんな頭お花畑野郎、嫌に決まってるでしょう」
クラリスはその言葉に驚いたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「あなたは本当に最高の親友だわ。マルセラ」
その言葉にマルセラはほっとしたように頷いた。
一方、ギルバートは呆然と立ち尽くしていた。
「君が……シャーロットだったんだね」
彼の声は震え、どこか懐かしむような響きがあった。
「これからやり直そう。もう一度、最初から。君が僕の本物の運命の人だ」
クラリス――シャーロットは、その言葉を静かに否定した。
「ごめんなさいね。私の初恋は偽物だったみたいなの。もう本物にはならないわ」
その冷静な一言が、ギルバートの胸に深い傷を残した。
彼は言葉を失い、その場に立ち尽くすしかなかった。
エイデン・クロフォードは、これまでの人生が崩れ去ったことをようやく実感していた。
過去の罪と失敗が重くのしかかる。
「俺は何をしてしまったんだ……」
エイデンは手を見つめ、自嘲気味に笑った。彼は諸々の責任を取り、爵位返上と財産没収の上、王都を追放された。
幼い時の諸々の馬車への細工はもう立証できるものではないので処刑にはならなかったが、禁止魔法の使用も合わせて、伯爵としての能力はないと判断された。
自分のことを知らない国外に渡るにも、越境料がいる。
お金を貯めるために働こうにも、事件を起こした元貴族として名を汚した彼を、受け入れてくれる働き場所はなかった。
どんな仕事を探しても過去が足枷となり、誰も彼を雇おうとはしない。
過去の栄光と執着がもたらしたものは、孤独と絶望だけだった。
かつての伯爵は、今やそのすべてを失っていた。
一方、ギルバート・モルガンは、クラリス――いや、シャーロットに対して何度も謝罪を繰り返していた。
「すまない、クラリス。いや、シャーロット。俺は何もわかっていなかった。君を傷つけてしまったことを本当に後悔している」
彼の声には真剣さが滲んでいたが、シャーロットは静かに首を振るだけだった。
その瞳にはもはや怒りも悲しみもなく、ただ冷静な光が宿っていた。
「謝罪を受けるつもりはないわ。それに、もう何も取り戻すことはできないの」
「せめてやり直すチャンスを……」
「いいえ、ギルバート。私はもうあなたの婚約者ではないわ。あなたの『理想』の中の存在でいるつもりもない。あなたはあなたの理想のシャーロットと結婚してちょうだい」
その言葉はギルバートにとって冷たく突き刺さる刃だった。
彼は一瞬言葉を失ったが、やがて小さく頷いた。
「……わかった。君の決断を尊重するよ」
それが彼らの最後の会話となり、婚約は正式に解消された。
邸内の書斎では、ランドが忙しく当主としての仕事をしていた。
諸々の不祥事があり、侯爵家としてはかなりの痛手を受けた。
その責任を取る形で侯爵は引退し、ランドが正式に侯爵位を継承した。
「シャーロット」
事の顛末を語った兄は、そっと妹を抱きしめた。
似た雰囲気のある兄妹の抱擁は、この世の何よりも優しいものに感じられる。
「長く辛い思いをさせて悪かった。お前の評判もたくさん傷つけた」
「いいのよ。お兄様。私が名誉よりも真実を選択するだろうって分かっていたんでしょう?」
「そうだな」
「でも私がエイデンに襲われて怖がっていた時に待機していたのは、とても悲しいわ」
わざとらしく泣き真似をしてみせると、ランドは耐えきれないというように笑った。
「何を言っているんだ。俺たちが突撃するタイミングを見計らっているのを分かっていて、エイデンが喋るように誘導したんだろう?」
「私、女優になれるかしら」
「ああ。国一番の女優になれるだろう。だが、お前には女伯爵になってもらうつもりなんだがな。エイデンの家の爵位の継承者になれる血縁は、もうお前しかいない」
「お兄様がもうひとつ持っておけばいいじゃない。あって困るものではないわ」
「どういう言い草だよ」
ひとしきり笑いあったあと、ランドはその緑の瞳にひと際真剣な色を宿していった。
「もうクラリスの人生を生きなくていい。偽物の人生は終わりだ。これからは本当のお前として生きるんだ」
ランドのその言葉に、シャーロットは深く頷いた。
「ありがとう、お兄様。でもね。私、クラリスの名前までなくなってしまうのは寂しいの。私はシャーロットだけど、クラリスでいいの。それでいいわ」
夕暮れのバルコニーでシャーロットは沈む夕日を見つめていた。
午後1番に淹れさせたティーセットの紅茶は、もう冷たくなってしまっている。
「クラリス……」
シャーロットは穏やかな風に吹かれながら、そっと紅茶を一口飲む。
ここ最近は、怒涛の日々だった。
いや、あの事故の日から、シャーロットには怒涛の日々だった。
あの日も、こんな穏やかな風が吹いていた。
シャーロットは、エイデンがなにやら馬車にイタズラをしているのを知っていた。
シャーロットとクラリス、2人で厩舎で遊んでいたときに、四つの瞳はそれを見ていた。
死んでひとつに生まれ変わるのもいいかもね、と言い出したのは、どちらだったか。
辛い時、寂しい時、常に一緒にいた双子は、大きくなれば自分たちが貴族の義務として離れ離れに嫁ぐことを理解していた。
それはなにより受け入れがたかった。
それがまさか、クラリスの人生を生きることになるとは。
間違ってふたりに分かれて生まれてきた双子の姉妹は、この人生の中にいるうちに、同一の存在へとなったのだ。
少なくともシャーロットはそう思う。
シャーロットは扇で手のひらを二回叩いた。
一回目は「大丈夫」
二回目は。
「クラリス。これからもずっと一緒よ」
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