彼女が消えた日
いつもと変わらない月曜の朝、彼女が消えた。
いつもの様にホームルームが始まって、担任のイワセンが入って来た。
俺の横に座る麻衣子はまだ来ていない。
珍しい事でもなく、髪型が決まらないとか、靴下が片方見つからないとか何かと理由を付けて遅刻してくる奴だから、俺はいつもの事だと高を括っていた。
イワセンこと、担任の立岩は教卓に両手を突いて身を乗り出した。
また誰かが何かやらかしたのだろうか。
月曜の朝からイワセンの説教を聞くのも気分の良いモノではない。
イワセンは大きく溜息を吐いた。
「えー。突然ですが、国立麻衣子さんが転校されました」
え……。
教室にどよめきが起こる。
そして一斉にみんなが俺の方を見た。
もちろんクラスの連中は俺と麻衣子が付き合っている事は知っている。
もちろんイワセンも。
一番驚いていたのは俺で、麻衣子にも何も聞かされてなかった。
どういうことだ……。
俺は奥歯を噛み締めて俯いた。
その後イワセンが何か言っていたが一切入って来なかった。
後ろに座る、宮脇蓉子が俺の背中を突いてくる。
「どういう事なの……。麻衣子転校って……知ってたの」
小声で俺に訊くが、俺は首を横に振っただけで、何も答えなかった。
ホームルームが終わり選択授業で教室を移動する事になっていたが、俺は自分の席から動けず、ポケットに手を入れたまま呆然と座っていた。
何があったんだろうか……。
俺は携帯を取り出して麻衣子の携帯を鳴らしてみた。
圏外なのか電源を切っているのか、とにかく繋がらなかった。
俺は苛立ちを隠せずに机を蹴った。
突然転校だって……。
冗談じゃない。
普通は彼氏には言うだろう……。
俺は麻衣子の机を見た。
先週までそこに笑いながら座っていた麻衣子の残像が見えた。
その机の中を覗く。
机の中に入っていたモノはそのままで、授業中に二人で回しあったノートの切れ端に書いた落書きまで残っていた。
教室の後ろのドアが開いた。
「あ、いたいた……」
そう言いながら入って来たのは宮脇と、麻衣子と仲の良かった住本香澄だった。
「ちょっとー、本当にどうなってるのよ……」
住本が俺の横に座り捲し立てる様に言った。
「お前らも聞いてないのか」
宮脇も住本も首を横に振った。
「みんなあんたが妊娠させたんじゃないかって噂してるよ」
まあ、そんな噂にもなるだろうな……。
「それなら俺には話すだろう……」
俺は俯いて机の上の落書きを見た。
昼休みに麻衣子が書いた絵が机の隅にあった。
油性マジックで書いたモノだからいくら拭いても消えない。
「よく映画とかである重い病気で入院とかじゃないよね……」
今度は宮脇が俺の前の机に座って訊いた。
まさか……。
絵に描いたような健康優良児だ……。
俺は首を横に振る。
「夜逃げとか……」
それもない。
親父さんは大手の商社マンで、夜逃げするような家ではない。
夜逃げなら俺の家の方が現実味がある。
また首を横に振る。
「じゃあ、お父さんの急な転勤とか……」
宮脇と住本の話も想像の域を越えない。
いくら話してても何もわからない。
俺は立ち上がって鞄を手に取った。
「俺、ちょっと行ってくるわ……麻衣子んち」
そう言って教室を出ようとした時に荒々しくドアが開いた。
そこには学年一、不良を気取っている荒木が立っていた。
その後ろには荒木を取り巻く仲間が二人。
「おい、ちょっと面貸せや……」
荒木は俺を睨んで凄んだ。
今日の俺は普通じゃない。
荒木だろうがイワセンだろうがぶん殴る事が出来そうだった。
「ちょ、ちょっと……」
宮脇と住本が止めようとするが、俺は住本に鞄を渡して教室のドアを閉めた。
荒木と麻衣子は中学も同じで、麻衣子に何度も言い寄っては振られている。
麻衣子の転校の事で、いい加減に湧いた噂を耳にしてやって来たってところだろう。
俺は荒木と並んで体育館の裏までやって来た。
先週あった体育祭の飾り物が沢山積んであった。
「お前、国立孕ませたって本当か」
荒木は俺を突き飛ばすとそう言う。
「それで国立は突然転校したのか……」
俺は荒木に背中を向けたまま首を振った。
「俺にもわからないんだよ……」
そう言って振り返る。
「お前ら、付き合ってるんだろう。何でわからないんだよ」
荒木は俺の肩を突く。
「だから今から麻衣子の家に行くところだったんだよ」
俺は一度俯いた。
そして顔を上げると、
「もう良いか……。急ぐんで……」
そう言って立ち去ろうとした。
その俺の肩を荒木が掴んだ。
そのまま荒木の拳が俺の頬にヒットした。
漫画みたいに一発で倒れる程の威力は無かった。
俺は背けた顔をゆっくりと荒木に向ける。
学年一の不良と言われる荒木も大した事は無い……。
「麻衣子が転校しようがどうだろうが、お前には関係ないだろうが」
俺は荒木の腹に蹴りを入れた。
「お前何かが逆立ちしたって麻衣子と付き合う事なんて無いんだからよ」
俺はもう一発蹴る。
「麻衣子の事で、お前なんかにどうこう言われる筋合いはないよ」
今度は荒木の足を蹴る。
苛立つ俺に恐怖を覚えたのか荒木は少しずつ後ずさる。
そして俺は荒木の襟を掴み引き寄せた。
「いいか。俺を怒らせるな……。ぶっ殺すぞ……」
俺は荒木を突き放すと、その場を立ち去った。
荒木の仲間も俺の気迫に何も出来なかった様だった。
体育館の角を曲がると隠れて見ていたのか宮脇と住本が俺の鞄を持って立っていた。
口の中が切れているのか少し血が出ていた。
住本が俺にハンカチを出した。
俺はそれを押し返し、
「麻衣子に怒られるから……」
と言って微笑んだ。
そこにイワセンと体育教師のミニラがやって来た。
「お前たち何をしてるんだ」
その声に、荒木と愉快な仲間たちは逃げて行った。
イワセンは口から血を流す俺を見て、やられたのは俺だと思ったんだろう。
俺の肩に手を当てて俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か……」
俺は黙って頷いた。
荒木たちを追いかけて行ったミニラが帰って来た。
背が小さいのに怖い顔をしている事からミニラって呼ばれているらしい。
もう俺たちが入学した時には既にミニラって呼ばれていた。
「あれは荒木たちだな……」
ミニラは荒木たちが逃げて行った方を見ながら言う。
「殴られたのか……」
ミニラが俺を見て訊いた。
「大したことないんで……」
俺はイワセンとミニラに頭を下げた。
イワセンは俺の肩を強く叩く。
「ちょっといいか……」
イワセンは俺を連れて、誰もいない学食へやって来た。
昼には少し早く、厨房で料理をするおばさんたち以外は誰もいなかった。
「国立の事でもめたのか」
イワセンは自販機でカップのジュースを買って俺に渡す。
俺は頷いてそのカップを受け取った。
「別に、アイツに麻衣子の事どうこう言われる筋合いはありませんから……」
俺は窓際の席に座った。
イワセンも俺の向かいに座る。
「お前も聞かされてなかったのか……。国立の転校の事……」
「ええ……」
イワセンはコーヒーをすする様に飲んで、
「じゃあ転校の理由も知らないんだな……」
俺はジュースのカップをテーブルに置いた。
「イワセン……先生は知ってるんですか」
イワセンもカップを置くと目を閉じて首を横に振った。
「まあ、心配だろうけど、自棄起こすなよ……」
イワセンは席を立った。
結局、俺はそのまま教室に連れ戻された。
教室に戻ると選択授業を終えたクラスメイトが戻って来ていた。
倉石が俺の肩を叩く。
「荒木とやったんだって……」
倉石は小学校から同じで、麻衣子と付き合うまではいつも一緒にいた奴だった。
「ああ。麻衣子孕ませたのかって絡んで来やがってよ……」
俺は苦笑しながら倉石に言う。
「噂になってたよ……。お前が国立を妊娠させたんじゃないかってね……」
倉石は身を乗り出して言う。
「馬鹿言うなよ……」
倉石は微笑むと自分の席に戻ろうと立ち上がった。
そして振り返る。
「なあ……」
俺は振り返り倉石を見た。
「お前、本当に知らないのか……国立の転校の理由……」
険しい顔で倉石は訊いた。
俺は頷いて、
「ああ……」
とだけ答えた。
色んな奴が俺に麻衣子の転校の事を訊いて来た。
教えて欲しいのはこっちの方だ。
結局午前中の授業が終わった。
その頃には俺の中でもある程度の混乱は収まり、放課後に麻衣子の家を訪ねてみようと思える程になっていた。
もしかすると、転校はしたが、引っ越した訳ではないのかもしれない。
昼休みに、俺は学食へ行き、いつも麻衣子と半分ずつ食べていたコロッケパンを買った。
自販機で缶コーヒーを買うと俺はいつもの癖で屋上へ行き、麻衣子と座る場所に座った。
俺はコロッケパンに噛り付く。
弁当を食った後のコロッケパン。
これを一人で食えって言うのかよ……。
俺は夢中になってコロッケパンを食べた。
何故か鼻の奥が痛くなる。
俺は麻衣子を失ってしまったのか……。
答えなど返って来る事もなく、ただ必死にコロッケパンを口に押し込んだ。
そして甘ったるい缶コーヒーで流し込む。
屋上ってこんなに広かったっけ……。
俺は一人の屋上を見渡す。
一人で居るとやけに周囲が気になって仕方がない事に気付く。
重い鉄の扉が音を立てて開き、さっきやり合った荒木が一人でやって来た。
バツが悪そうに俺から目を逸らして歩いて来る。
そして俺の前まで来ると空を見上げ、
「さっきはすまなかったな……」
そう言って俺の横に座った。
「口、切れてただろう……大丈夫か……」
荒木は俺の横顔を見て訊いてきた。
「コロッケパンは食えるみたいだ」
俺は荒木と視線を合わせずに答えた。
荒木はシシシと変な笑い方をする。
そしてポケットからタバコを出して咥えた。
風を避けて火をつけると、俺の前にもタバコを出して来た。
「吸うか……」
俺はそれを断り、缶コーヒーを飲んだ。
「何か、根も葉もない噂で取り乱してしまって……。悪かったな……」
荒木は煙を空に向かって吐きながら噛み締める様に言った。
荒木も根っこから悪い奴ではない。
それは俺も知っていた。
しかし、暴力的な奴ではあった。
「お前が一番辛いのにな……」
荒木はまた空を見上げた。
「行かないのか。国立の家には……」
俺は荒木を見て微笑んだ。
「何が起こっているのか、俺も理解出来てない。今、麻衣子の家に行ってアイツに会ってしまったら、何を口にしてしまうのか……わからないんだ……」
俺は缶コーヒーを飲み干して、荒木の前に置いた。
荒木は察した様にその空き缶にタバコの吸い殻を入れた。
俺はポケットから携帯を出して画面を見た。
麻衣子どころか誰からも何も連絡は無い。
みんな妙に気を遣っているのだろう。
隣にいる荒木も同じだった。
荒木は立ち上がるとケツの汚れを払い、歩き出した。
「俺で良かったらいつでも言ってくれ。話し相手にくらいなれる」
そう言うと手を挙げて屋上から出て行った。
俺はその荒木の背中を見ながら微笑んだ。
結局、俺はその日の放課後も麻衣子の家には行かなかった。
どんな理由があって、突然転校したのか……。
それを聞くのが怖かった。
だから自分の中で整理が付くまでは麻衣子を訪ねるのはやめておこうと思った。
もしかしたら、ある日突然、
「ごめん、ごめん」
といつもの笑顔で麻衣子が俺の前に現れるのではないかと思いながら……。
ある日、家に帰るとポストから大きな封筒がはみ出しているのを見つけた。
封筒は俺宛てだった。
俺はその封筒の裏を見た。
住所は無かったが、差出人は麻衣子だった。
「麻衣子……」
俺はその封筒を破る様に開けた。
中にはサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が入っていた。
そしてその本に挟まれた手紙を見つけた。
癖のある麻衣子の文字だった。
いろいろ書くと泣いてしまうので……
部屋にあった本、勝手に借りてたので送ります
麻衣子
それだけ書いてあった。
俺はその日、麻衣子が居なくなって初めて泣いた。
自分の中で整理が出来ていないなんて言ってたけど、そうじゃなかった。
麻衣子が居なくなった事を認めたくなっただけだった。
「本なんていいから……。本なんてどうでもいいから……」
部屋のベッドの横に麻衣子の残像が何度も浮かんでは消える。
俺は『ライ麦畑でつかまえて』を握りしめて泣いていた。
それから数年、俺は普通に生きていた。
麻衣子の事を思い出す事はあったが、それは徐々に薄れ、それなりに楽しく暮らしていた。
俺なりに頑張って、それなりの大学も出た。
そして東京の会社に就職する事にした。
もしかしたら麻衣子に会えるかもしれないという淡い期待もあったのは事実だ。
麻衣子が居なくなってから荒木と仲良くなった。
荒木は高校を出て運送会社に就職した。
今日、東京への引越しを迷わず荒木に頼んだ。
家の下からクラクションが聞こえる。
窓から顔を出すと荒木が自分のワンボックスカーで待っていた。
向こうで色々と買い足すつもりで俺の荷物なんて軽四でも乗る程だった。
「すまんな……」
俺は荒木に言う。
「気にするな……」
荒木は家の中を覗いた。
「荷物……それだけか……」
頷くと荒木が手際よく荷物を後部座席に積んでいく。
俺が荷物を持つと、
「お前は忘れモンないかどうか、部屋見てこいよ……」
そう言って微笑んだ。
俺は荒木に言われた通りに部屋に行き、綺麗に片付いた部屋を見渡した。
本棚に、あの日麻衣子が送って来た『ライ麦畑でつかまえて』があった。
俺はそれを手に取って、パラパラと捲った。
その時、俺は気付いた。
本の中の文字が赤いペンで所々、丸で囲んであった。
「何だろう……」
俺は更にページを捲る。
「誰がやったんだ……」
下からお袋の呼ぶ声が聞こえた。
俺はその『ライ麦畑でつかまえて』を脇に挟むと階段を下りた。
「荒木君待たせて何やってるの」
お袋は荒木に申し訳なさそうに礼を言っていた。
親父とお袋には昨日の夜、ちゃんと別れの言葉を伝えてあった。
親父は今日もいつもと同じように仕事に行った。
お袋は自分のへそくりから金を封筒に入れて俺に渡した。
「途中で荒木君とご飯でも食べなさい」
そう言って涙をハンカチで拭っていた。
荒木の車に乗り込むと、何度もお袋は荒木に礼を言っていた。
それを振り切る様に車は走り出した。
東京まで荒木といつもと変わらない話をしながら走った。
俺も高校を出てから吸い始めたタバコでヤニ臭い旅だった。
湿っぽい旅にならず、俺は荒木に感謝した。
「何だこの本……」
荒木は俺が荷物の上に乗せた『ライ麦畑でつかまえて』を手に取った。
「世界一有名な悪書だよ……」
「悪書……悪い本って事か……」
俺はタバコを消して、荒木に説明した。
「ああ、アメリカでは学校の図書室には置いてないらしい……。今は知らないけど……」
荒木はパラパラと捲りながら頷く。
「日本の学校にはあるのか」
「ああ、あったと思う」
荒木はその本を後部座席に放り投げた。
「エロいのか」
荒木はにやつきながら訊いた。
「読んでみろよ」
俺は缶コーヒーを飲みながら荒木に言った。
「機会があれば読んでみるよ」
荒木はいつもの様に微笑んだ。
東京に着くと初めてのワンルームというモノに俺は驚いた。
とにかく狭い部屋だった。
最後の荷物を荒木が部屋まで運んでくれて、二人でその部屋を見渡す。
見渡すという程の広さも無い。
「みんな、この狭い部屋から抜け出したくて必死に働くんだろうな……」
荒木はそう言うと笑っていた。
その日、荒木が泊まる近くのホテルにチェックインした後、二人で知らない東京の居酒屋に入った。
そこで飯を食うと俺は荒木をホテルまで送り、片付いていない部屋に戻った。
俺は備え付けてあるベッドにもぐり、慣れない天井を見ながら眠ろうと努力したが眠れなかった。
明かりをつけて、買ってきた缶ビールを冷蔵庫から出した。
そして近くにあった『ライ麦畑でつかまえて』を手に取って読み始めた。
高校に入った時に姉貴の部屋にあったのを黙って借りて読んだ記憶があった。
あの時は正直意味なんて解らず、ただ読み終えだだけだった。
次のページを捲ると先頭の文字に赤丸が入っている。
姉貴が書いたのかな……。
何だろう……。
俺はその次のページにも丸が入っている事に気付いた。
前に読んだ時にはこんな赤丸は入ってなかった。
そしてその赤丸の入った文字だけを読んでいく。
そして気が付いた。
この赤丸は麻衣子が書いたモノだ……。
俺は近くにあった段ボールを引き寄せて、床に転がったペンを取った。
そして赤丸の入った文字だけを段ボールに書いていく。その文字たちはどんどん繋がって行き、麻衣子の言葉になって行く。
俺は無我夢中でその麻衣子の欠片たちを拾い集めて行った。
「麻衣子……。こんなところにいたのか……」
そして夜が明ける頃、『ライ麦畑でつかまえて』を閉じた。
月日が経ち、徐々に薄らいで行った麻衣子が俺の前に居る。
そんな気がした。
たかフみへ
とつぜンいナくなる事になっテしまい本トうにゴめんなさイ
今ハ言エナいんだけド事情ガあり引ツコす事にナってしまいまシた
私は本とうにたかふミが好キでした
ううん、多分これかラもズっとたかふみガスキ
たかふみガ居てくれたから楽しイ高校生カツを送れまシた
これから先、たかフみにも新しイ彼女が出来タりして、私ノ事なんて忘レてしまうかもしれないケど、私ハズっとタカふみを忘れまセん
勝手ナお願イだけど、私ノ二十ニサいのタん生日に会って下サい
私の生マれた時間、オ昼の十二ジちょウどに、初メてデートの待ち合ワセしたエキ前のローたリーで、待ってマス
まいこ
そして、『ライ麦畑でつかまえて』の本の発行日に丸が付けてあった。
そうか……この日付、麻衣子の誕生日だ……。
そしてその日は……。
既に過ぎていた。
俺は段ボールの上に並んだ文字を見て苦笑した。
もう少し早く気づいていれば。
馬鹿な自分を恨んだ……。
東京に来て三年。
仕事もようやく覚えて一人前に扱ってもらえるようになった。
俺はその日、外回りをしてそのまま帰宅する事になっていた。
予定より少し早く終わり、俺は駅前に出来た大きな本屋に立ち寄った。
町の小さな本屋は大型の書店やデジタル化によりどんどん無くなって行き、見付ける方が難しくなって行った。
本屋で並ぶ本の隣に奇跡の出会いがあったりする。
いつの間にか俺のワンルームの部屋は本で溢れ返っていた。
本屋を出て、俺は古本屋が並ぶ通りを歩いた。
かび臭い本が俺は好きだったりする。
何度か入った事のある古本屋に俺は入る。
難しい本は無く、庶民的な古本屋だった。
俺はその棚を端から見て行き、タイトルだけで面白そうな本を買う。
それが当たりでも外れでも構わない。
先月、研修で東京に来たという荒木と飲んだ。
散々飲んだ後で、俺の部屋で飲み直そうという事になり、結局荒木は朝まで俺の部屋で眠っていた。
荒木は壁に貼った段ボールの切れ端を見て、「結婚する事にした」と言う。
俺はお祝いの言葉を荒木に言ったが、荒木はどこか寂しそうに微笑むだけだった。
奴の中で麻衣子の陰に踏ん切りを着けたのだろう。
荒木はその段ボールの切れ端を見て、何度も何度も俺に「馬鹿」だと言った。
言われなくてもわかっている。
俺は馬鹿だ。
荒木が帰った後、俺の部屋に結婚式の案内状が置いてあった。
奴が本当に研修で東京にきたのかどうかはわからなかった。
俺は古本屋の本の棚に『ライ麦畑でつかまえて』を見つけた。
俺はその本を捲った。
もちろん赤丸は付いていない。
そして最後のページを捲ると、その本は俺が持っているのと同じ日に発行された本だった。
俺はそれを持ってレジに向かった。
もう何度読んだか分からない本だった。
しかし、麻衣子の誕生日に発行されたその本だけは、俺が買わなければいけない気がした。
金を払い、店を出る。
その後ろを誰かが慌てて店に入って行った。
俺は駅へと歩き出した。
すると俺の後ろから声がした。
「すみません。その『ライ麦畑でつかまえて』譲って頂けませんか」
振り返ると下を向いて申し訳なさそうにする女が立っていた。
「どうしてもその本が欲しくて……」
俺はじっと俯いたその顔を見つめた。
「君の誕生日に発行された本だから……」
俺の言葉に麻衣子は顔を上げた。
「え……」
麻衣子は幻でも見るかの様に俺を見ていた。
俺はその麻衣子を抱きしめた。
周囲の視線なんて知った事じゃない。
「貴史……」
「やっとつかまえたよ……。ライ麦畑じゃないけど……」