13.銀河皇帝の罠
ヴィンヌジャール家の専属法典書師タヌ・カナガ博士は、長い廊下を主人の部屋へと急いでいた。
爬虫人類コモ・ガンの類まれな記憶力と頭部に接続した補助デバイスによって〈法典〉の大部分を参照できるタヌ・カナガは、かつて惑星〈無天函〉で原典管理師を目指したこともあった。だが贅沢を好む妻の歓心を買うため、より実入りのいい高級公家の専属法典書師という仕事に鞍替えしたのだった。
要は、主人であるヴィンヌジャールの求めに従い、彼の政策、計画、そして陰謀が〈法典〉の定めにどう沿うか、沿わぬか、裏をかけるか、を判断する相談役だ。
部屋の入り口では、衛士がカナガの緑色の顔を、見飽きているほど知っているはずなのにわざわざ舐めるように改め、中へと来訪を告げた。
すぐに奥から主人の声が響いた。
「タヌ! 入れ!」
鱗に包まれた細長い顔が部屋にのぞくや、可変クッションに身を沈めてむこうを向いたヴィンヌジャール卿は、部屋の宙空に浮かんだ映像を指さして言った。
「状況はわかっとるな?」
映っていたのは、惑星〈千のナイフ〉の丘の上に停泊しているスター・コルベット──皇帝座乗艦だった。
「銀河皇帝が提示したという永久皇帝令の内容でしたら、はい」
タヌ・カナガの言葉に、ヴィンヌジャールは気忙しく手を振った。
「違う! 違う! その皇帝令がいつまで続くかの話だ。アサト一世は〈無天函〉での審判に間に合わん。そうなれば永久皇帝令は次の皇帝が撤回できる。そうだな?」
「は、はい。審判の放棄は彼女の帝国における全ての権利を……」
「よし! わかった。もういいぞ」
こちらを見もせず、出て行けと手を振る主人に礼をして、タヌ・カナガは外へ出た。
ヴィンヌジャールの真意はわかっている。
彼には、是が非でも紛争の継続が必要だ。そしてアサト一世が帝位を失った後、彼自身が銀河皇帝候補として名乗りをあげるつもりなのだ。彼でなくとも、新しい皇帝は永久皇帝令の撤回を求める勢力から、猛烈な突き上げを喰らうに違いない。
永久皇帝令は風前の灯火だ。
しかし、いったい何故アサト一世は審判を放棄してまで〈千のナイフ〉に向かったのか?ほんの一時でも、派手な行動を起こし自分の名前を伝説として残したかった?
その疑問とともに、タヌ・カナガの心中には何か引っ掛かるものがあった。
あと数時間で、ユーナシアンとザニ・ガン双方の首脳部が回答を銀河皇帝の元へ持ってくる。アサト一世が帝位を失うギリギリのタイミングだ。
自分の言葉でヴィンヌジャールは安心したものの、何か重要な事実を見落としている気がする。
そういうものは気がついた時にはいつも手遅れなのだが。
そして惑星〈千のナイフ〉大陸側半球の夜は明け──
銀河中の注目を集めるカルナク・ヒルの高台では、銀河皇帝が長い眠りから目覚め、食事を摂り、来るべき時に備えた。
もう間も無く、ユーナシアン、ザニ・ガン両勢力の代表がやって来る。
ミマツーは空里の盛装とメイクを細かくチェックし、問題無しのお墨付きを出した。
「ご立派です」
「ありがとう」
昨日にも増して緊張を感じる空里は、傍らに漂うドロメックの頭部カメラを撫でた。
「ドロポン、しっかり中継してね。ここが正念場だよ」
やがて、代表たちを乗せた二機のシャトルが到着し、代表団がスター・コルベットの前へ集まってきた。いよいよだ。
ランプウェイを下ろしてお出ましとなる直前、空里は声を落として背後に立つネープに囁いた。
「だいじょぶかな……まだバレてないかな……」
まるでイタズラを隠している悪童のような妻に、ネープは真面目そのものの態度で応えた。
「高次空間波ネットでも、帝位の行方より永久皇帝令の内容の方が大きく語られています。大丈夫でしょう。とにかく彼らが皇帝令を受け容れさえすれば、こちらの勝ちです」
「そうだよね」
空里は両手でパン!と頬を叩いた。
充血でメイクした顔が崩れないかというミマツーの心配をよそに、銀河皇帝は気合を入れた。
「よし! 行こう!」
高く上った陽光の下。
スター・コルベットから現れた君主の前に、両代表団の面々は恭順の姿勢を取り敬意を表した。
銀河皇帝は言った。
「おはようございます」
この第一声に、ドロメックの中継を観ていた全ての帝国人民は驚いた。
銀河皇帝が、自分から臣下である者たちに挨拶の声をかけるとは思っていなかったのだ。
返答の儀はスムーズに進行できるよう、双方事務方の相談の元、段取りが取り決められていた。だが、この挨拶でペースを乱され、両代表団は少々戸惑った。
その雰囲気を察した空里は、何かまずったか?と思ったが、当初考えていた通りの言葉をかけることにした。
「わざわざお越しいただき、ご苦労様です。皇帝令へのお返事をうかがう前に、皆さんのお名前、教えていただけますか?」
これも、その場の全員にとって想定外の言葉だった。
中央の二名──ユーナス連邦最高会議長とザニ・ガン救星戦線評議会議長──を筆頭に、各五名ずつの代表が順に名乗った。
空里はその一人ひとりに「よろしく」と声をかけながら、全員の名前をできる限り覚えようとした。が、両端の二人は改めて覚える必要はなかった。
そこにいたのは、サリグ・ルーとデ・キュラだったのだ。
銀河皇帝という最高権威との謁見としてはあまりにも和やかな雰囲気に、中継を見ていた帝国の人々はことの重大さを忘れかけた。そして、その雰囲気は後で訪れる想定外の事態を際立たせることになるのだった。
「では、永久皇帝令に対する皆さんの返答をうかがいます」
ようやく発せられたアサト一世の言葉に、あらかじめ協議──くじ引き──によって決まった順番に則ってザニ・ガンの代表が答えた。
「畏れながら、銀河皇帝アサト=ネイペリア・エンドー一世陛下に申し上げます。ザニ・ガン救星戦線評議会はご提示いただいた永久皇帝令を謹んで拝領いたします」
続けて、
「畏れながら、銀河皇帝アサト=ネイペリア・エンドー一世陛下に申し上げます。ユーナス連邦最高会議はご提示いただいた永久皇帝令を謹んで拝領いたします」
ユーナシアンの代表が答えた。
やった──
空里は飛び上がって喜びたい衝動を抑え、大きく深呼吸した。
銀河皇帝は、震える声で宣言した。
「では、ここに永久皇帝令第二〇四ニ号を発布いたします」
惑星〈千のナイフ〉全土は、爆発的な歓喜に沸いた。
五千年続いた紛争の終結。それが自分たちが生きている間に実現しようとは誰も思っていなかったのだ。兵士たちは生きて家族の元へ帰れる喜びに。その家族たちは彼らを迎えられる喜びに泣いた。
喜ぶことなく、黙ったまま現実を受け入れる人々もいた。そのうち半分は、百年ごとの支配権交換をどう実現するかに思いを致し、もう半分はアサト一世が失脚する運命を知っていて、この平和が束の間の夢に終わるだろうことを予感していた。
カルナク・ヒルの高台では、銀河皇帝が両政府の代表たち一人ひとりと握手を交わしながら「ありがとう」と感謝の言葉を繰り返していた。
涙を流しながら心底喜んでいるアサト一世の姿に、代表団の面々はどこか後ろめたい思いを抱えていた。彼らもまた、この平和が永くは続かないだろうと醒めた目で事態を見ていたのだ。
しかし、事情が変わるまでは予定通りにことを進めねばならない。
「では皇帝令の指示に則り、和平条約の調印を……」
代表団の末席を務める政務官たちが、調印式の準備を始めた。
ヴィンヌジャール邸の中庭でも、噴水の上に浮かんだ〈千のナイフ〉からの中継映像を家臣の者たちが見上げていた。その足元では、ヴィンヌジャール卿の幼い甥っ子たちが何も知らずお気に入りのゲームに興じている。
「茶番だよ」
家臣たちの多くは冷笑的に調印式の様子を眺めながら、いよいよ彼らの主人が銀河の中心に立つ日が近いのだと笑いさざめきあっていた。
だが、タヌ・カナガ博士だけは先ほどから続く正体不明の懸念に気が晴れなかった。
「もう! ズルばっかりするなよ、トモー!」
和平が進む映像の下で、子供たちはささいなことから諍いを始めていた。親たちは「静かにしろ」と諌めながら、映像からは目を離さない。
「やだ! もうトモーと遊びたくない! やーめた!」
その声を聞いた瞬間、タヌ・カナガの脳裏に電撃のような閃きが走った。
そうか! そういうことだったか!
なんという迂闊。自分は〈法典〉のことなら何でも知っているつもりだった。だがその個々の定めの使い方については、本当に知謀に長けた者と比べたら幼子にも等しいことを思い知らされた。
彼は踵を返すと、全力で走り出した。
主人の部屋へ辿り着くと、タヌ・カナガは衛士の存在など突き飛ばすように払いのけ、扉に体当たりして中へ飛び込んだ。
「いけません! 調印させてはいけません!」
部屋の中にいたヴィンヌジャールと取り巻きたちは、あっけに取られて法典書士のトカゲのような顔を見た。
タヌ・カナガはかすれた声で叫んだ。
「罠です! これは銀河皇帝の罠です!」




