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仕上げの一筆

 そして、幾年の時間が経過して携帯電話がガラケーと呼ばれる時代になった。時代の流れに合わせて私も携帯電話を変えてスマホというものにした。

 昔は意味が分からなかったインターネットが今では少し使いこなせるようになった。そういうのが全くダメな師匠に代わって自分が手続きする事もある。


 私はこのアトリエの従業員として、そして師匠の弟子としてずっと働いていた。辛くはなかった。むしろ毎日が楽しかった。


 そんなある日、師匠が倒れたという連絡が花子さんから届いた。

 慌てて師匠のアトリエに向かい、心配する気持ちで作業場の扉を開くと、師匠はなんともない様子で絵を描いていた。


「……倒れたんじゃないんですか?」


「あれは、アイツの勝手な勘違いだ。ワシはちょっと寝ただけで大袈裟に騒ぎよって」


「寝ただけって……」


「岸辺 誠。こっちにこい」


「はい」


「お前、なんのために絵を描いている?」


「え、理由ですか?そんなことは決まっていますよ。師匠に少しでも近づきたくて」

 

「……そうか。お前はそういう理由で絵を描くのか」


「はい、そうです」


「……チョコレートを食べたことがあるか?」


「え?チョコレート?」

 全く予想外の質問に声が裏返る。


「チョコレートはな。美味しいだろう」


「ええ、そうですね」


「ワシが絵を描き始めた理由もそうだった。岸辺、聞いてくれんか?」


「ええもちろんですとも」


「そうか。わしはお前のような弟子がいて幸せもんだな……」


「……」


「……ワシが生まれた頃は戦争のせいで大変だった。食べるものが何もない。

 母親が直接農家の人に会って着物をどうにかして米をもらっていたがそれも次第に限界がきた。

 特にうちは兄弟が多かった。そしてみんな育ち盛りの子供だった。そんなんだからいくら飯があっても足りたりはせん。

 そんな状態だ、上の兄達は食べるためならなんでもやった。窃盗なんて当たり前、人には言えない犯罪に手を出したこともあるらしい。母はそれをずっと見てみぬふりをしていた。ワシはその頃体が小さく何もできんなんだ。ただ守られるだけの存在だったんだ

 ある日、母親が殺された。犯人は分からん。ただ兄達が自分の所為だと嘆いていたのを覚えている。おそらく何かの報復だったのだろう」


 そう語る師匠はずっとどこか遠いところを眺めていた。まるで私のことを認識していないような。


「…………」

「師匠?大丈夫ですか?」


「ああ……すまん……それでな、母が死んでからはもっと大変だった。

 兄達は飯を盗むことでしか手に入れれん。毎日傷だらけで帰ってきていた。帰って来れずに死んだ兄もいる。親のいない子供には厳しい時代だった。

 自分も手伝うと言ったが、兄達にきつく止められた。これは俺の仕事だというのだ。

 だからワシはずっと家で怯えるしかなかったのだ。

 家にいる間ワシは絵を描くようになっていた。最初は兄たちを励ますためだった。

 何度も書いていると綺麗な絵を描けるようになった。

 兄達がそんなものがなんの役に経つと笑ったこともある。ワシ自身もそう思っていた。

 だがある日、米兵さんがワシの絵に興味を持ったのだ。

 そして、絵とチョコレートを交換してくれた。

 あのチョコレートの味はもう絶対に忘れられん。

 とにかく甘くて……とにかく幸せな味だったな……

 だからワシはもっと絵を描くようになった……

 チョコレートが欲しくて欲しくてたまらんかったのだ……

 そう、あまぁいチョコレートがな…………」


「師匠?」


「…………」


 師匠が再び虚空を見つめ出す。


「師匠!しっかりしてください!師匠!」

 大きな声で師匠を呼ぶ。そんなまさか。師匠が。


「お兄ちゃん……僕の絵がチョコレートになったんだよ……僕の絵は無駄なんかじゃなかったんだよ……お兄ちゃん……だからもう、無理しなくてもいいんだよ………お兄ちゃん……」


 そう言うと師匠は倒れた。


 私は直ぐにポケットからスマホを取り出して救急車を呼んだ。

 

 病院につくと医者から師匠はそのまま入院することになると告げられた。

 そして、余命は殆どないだろうということも。




 次の日、見舞いに行くと花子さんが先に来ていた。


「あら岸辺さん、こんにちわ」

 こんな時だというのに花子さんはいつもと変わらぬ様子で挨拶をした。


「花子さん、こんにちは。師匠の様子はどうですか?」

 そう尋ねると花子さんは黙って首を左右に振った。


「そうですか……」


「今までずっと働いていましたもの。ようやく休んで私は安心していますわ」


「え……?」


「見てください、この安らかな顔。こんな顔見たのはいつ以来でしょう」


「花子さん……」


「あなた……覚えているかしらこの絵……」


 そう言って花子さんは懐から古びた紙切れを取り出し、眠っている師匠の近くに置いた。


「それは……?」


「結婚するときにプレゼントされた絵よ。もう殆ど色褪せてどんな絵なのか分からないけども」

 確かに自分の目からはただの古びた紙切れのように見えた。うっすらと線は見えるが、それが何を成していたのかもう分からない。


「ずっと綺麗なままで残っていればよかったのにね……」


「花子さん……」


「……岸辺さん、申し訳ないのだけど、しばらく二人きりにしてくれるかしら?」


「ええ、もちろんです」


「そう、ありがとう」

 そして私はその病室から抜け出した。





 後日、師匠と花子さんは死んだ。

 花子さんは師匠を傍で見守るように死んでいたらしい。

 不謹慎かもしれないが、とても美しいと思ってしまった。きっと天国でも二人は変わらず仲睦まじく暮らしているのだろう。


 師匠達の葬儀は師匠の息子夫婦が取りまとめることになった。

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