遺影の筆
正面には真っ白なキャンバス。鉛筆を握ってもう何時間が経つのだろうか。
線を書かなければ絵は完成しない。そんなことは分かっている。だが、どうしても手が動かない。
師匠の古山信彦が死んだ。90歳超えの大往生だった。
一人残された私は葬式にも行かず、このアトリエで筆を握っている。
それが供養になると思ったからだ。
今まで私がこのアトリエで絵を描くときは常に師匠と一緒だった。だが、師匠はもういない。
いつものアトリエが何か全く違う場所のように感じられた。
気晴らしにアトリエ内を見渡す。目に入るのは師匠の作品の数々。
そのどれもが荘厳で美しい。
____これから私はこれを超えて行かないと駄目なのか?
そう苦悩していると、どこかに置いたスマホが震える音が聞こえた。
何時もなら無視するのだが、集中を失っている今無視をする理由はどこにもない。
ゆっくりと腰を上げ、スマホの元へ赴く。そこに表示されていたのは、海野 健司からの着信通知だった。
「あの馬鹿野郎か……いまさら何の用だ?」
海野 健司、昔は親友と思っていたこともあった。今更会いたくもない。
私はスマホをそのままにして、キャンバスの前に座りなおす。
だが海野の顔を思い浮かべると不思議と描きたい物が沸々と湧き上がってくる。
私は感覚に身を任せてゆっくりと線を描いてゆく。
今思えば、私の青春はあの馬鹿野郎との青春だった。
確か、出会いは小学生の頃だったか。
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