ゆりけもの 一匹目②
ゆりっぽい話だよ
神は小石を積むように、それに願いを積み重ねた。ただ無造作に、いくつも、いくつも。
神は願いを選ばなかった。良いもの、悪いもの、明るいもの、暗いもの。
神は願いをただ掴み、ただ積みあげる。それが重さに苦しもうとも、重ねた願いがときに災禍を呼び寄せようとも。
神が与えしもの、それすなわち祝福である。過ぎた祝福は呪いとなってそれを殺すだろう。
神の願いは叶わない。
ケケルミルミの黙示録、八章の六――祝呪の獣より。
幼い頃に、教会の地下書庫で目にした本の一頁がターシャの脳裏に浮かんでいた。
願望の現身、理想の具現者、かくあれかしという願い、それを集めて創られた。
――祝呪の獣、偶像種。
「強く、賢く、美しい、不自然なほどに。ゆえに人は、彼らを無視することができない。ときに惹かれ、ときに妬み、ときに欲する。過剰なまでにな」
かつてターシャにそう語ったのは、今壇上で聖句を誦しているあの老人だ。
「因縁は、物語を盛りたてるに必要なものだが、引き寄せすぎるのだよ、あれは」
記憶に残るその声は、現在より少しだけ若く、今と変わらず澄みきっている。
「いかに優れていようとも、所詮は一人の人間にすぎない。のべつ幕なし押し寄せる難業を捌ききれるはずもない」
祭司は言う、積み重なった因果の重さにやがて強者も膝をつく、あとはもう押し潰されてゆくだけだと。
「……だから彼らはすぐに死ぬ。二十才を前に大体死ぬ。才に見合った物語を描くことも出来ないままに」
無念そうに語った彼は、おそらく偶像と深く関わった者なのだろう。
あのときは、他人事だと思っていたけど……
外せぬ視線の先、陽光が舞台照明のように少女を明るく照らしていた。その立ち姿は不自然なまでに美しかった。
貴方の知ってる誰かさんは、何も成せずに死んだのかしら。
ターシャは心のなかで老人に問う。
霞がかった空の下、美しい少女と年老いた祭司が向き合っている。老人の黒い瞳に映るのは、銀色の少女か、それとも違う色の誰かか。
大丈夫、私のあの子は――
「そんな雑魚とはちがうから」
囁くような呟きは春の風に吹かれて消えた。
儀式の終わりが近づいていた。
「狼姫ももう十四か、早いもんだな」
どこからか聞こえた誰かの声に、ターシャも心のなかで頷いた。
先導者なし、保護者なし、「金ならあるぞ」と豪語する血まみれ少女の来訪から今日で六年と五十四日。これまで生きた人生の半分とまではいかないけれど、それなりに長い年月が二人の間を流れていった。
結局あの日、ターシャは彼女を自分の家へと連れ帰った。
郷で彼女の父方の遠い縁者が見つかったため、一緒に住むことこそ叶わなかったが、最初に出会った強みもあってか、同い年の幼馴染み……以上の関係にはなれただろうと思っている。
事実、この六年と少しの間に関して言えば、家族よりも誰よりも共に過ごした時間は長い。外でも家でも学舎でも、日が昇って沈むまで二人はいつでも一緒だったから。
だが、それも今日で終わる。
己が舞台は外の世界に――彼女はそう定めている。
せめて彼女にいくらかの頼りなさでもあったなら、留める言葉も言えたのだろう。
しかし、溢れんばかりの才能と弛まぬ努力、妥協知らずの天才は同じ世代の誰より強く強かに育った。すべては己の物語のために、その一念のもと銀の大輪は花開いたのだ。
あの子にはもう、郷にとどまる理由がない。
旅立ちの準備はすでに万端整っていた。
彼女がこれから歩むのは、光に満ちた栄光への道か、それとも血塗れの修羅道か、いずれにせよあの気性と才覚だ、凡庸な道は歩めまい。
私も一緒に……
幾度となく飲み込んできた言葉が思わず口から零れ落ちそうになる。
「旅のお供に幼馴染みはどうですか」、そんな調子でおどけて言えば、彼女は笑顔で手を取ってくれるだろう。共に行こうとただ一言告げるだけで、あの美しい空色の瞳も、つぐみのような愛らしい声も、何一つ失わずにすむのだ。
離れたくない、私はあれを手離したくない。
胸のうちにはいつからか、友情にしてはいくらか重い、執着にも似た感情が芽生えていた。
家族に向けるものとは違う、少し歪んだ粘着質な想い。これは愛だろうか、と己に問うても答えは結局出なかった。
ただ、ほかの女性に対してこんな想いを抱くことはなかった。そして素敵な男性を見て、心ときめくことはあった。
性別云々ではなく、彼女が特別なのだろう。
かけがえのない、唯一無二の存在、己にとっては彼女がおそらくそうなのだ。たとえ彼女にとって、己がそうではなかったとしても。
別れを思い夜ごと枕を濡らす自分と、平然と故郷を切り捨ててゆく少女。残酷な対比に胸が痛んだ。決して自分が軽んじられてるわけではない。けれど、互いに向けた想いの重さがまるで釣り合っていないのだ。
このまま隣にいても、この関係は変わらない。
ゆえに、だから、とその先を考えたあとで、ターシャは濡れた目もとを指で拭った。
涙で滲んだ視界のなか、しとやかに佇む少女の姿は普段よりずっと大人びて見えた。
髪と揃いの銀の尻尾が神言の抑揚にあわせて揺れている。艶のある、流れるような毛並み。毛量豊かな狼型の尾は、狼姫の二つ名に相応しく見惚れるほどに美しかった。
惹かれ、妬み、欲する……か。
胸に巣食う決して清らかではない感情が、老人の戯言を思い起こさせる。
友として側にいるだけでは足りず、胸の内をさらけ出すことも出来ず、それでももっと、もっとと願うこの感情は、確かに呪いと言えるのだろう。
そしてこの飢えにも似た感情が、馴れ合いでは満たされないことにターシャはすでに気づいている。
幼い頃は、たとえ郷を離れても彼女と別れるつもりはなかった。外の世界で冒険の日々、きっとそれも楽しいだろうとそんなふうに考えていた。
だが、それではもうだめなのだ。
少女の前には広大な外の世界がひろがっている。彼女はそこで生涯の友と出会うかもしれない。人生の伴侶と出会うかもしれない。そんな彼女の隣にあってただ付き合いが長いだけの自分は、いったいどんな役回りを演じるというのか。
やんちゃな彼女を嗜める姉のような役割か。それとも彼女を褒めそやし、憧憬をもって眺めるだけの型通りな幼馴染みか。
冗談じゃない、そんな端役、誰が演じてなるものか。
握った拳に力が入る。噛みしめた奥歯が耳の奥でギリリと鳴った。
リーリア、私は――
覚悟を決めなければならなかった。
刻限は目前にまで迫っている。
明日の朝には発つつもり、彼女はそう言っていた。けれど、その時間さえ残されているとは限らないのだ。
儀式が終わって、話をして、そして気持ちの整理をつける、そんな余裕はおそらくない。
山の向こう、いわゆる外の世界では、小さき神を奉じる村がいくつも地図から消えていた。
古き神を祀った社も数え切れぬほど焼かれていた。
町との間に横たわる山並は峻険なれど、人の行来をすべて阻める程ではない。
さらに言うなら、しばらくつづいた晴天で山間の雪はあらかた解けてしまっている。
幾つかの《《不穏な吉兆》》を思い浮かべて、ターシャは小さく舌打ちをする。
確率的な話をするなら、決して高くはないはずだ。
けれど、確率を超えて事象を引き起こすからこそ、人はそれを呪いだなんだと呼ぶのだろう。
引き寄せすぎるのだ、あの子は……
ならば今日かもしれない。特別な彼女の特別な日にそれは来るかもしれない。
確信めいた予感を裏付けるように、広場には多くの人が集まっていた。成人の儀は通常、家族と近しい者だけで執り行なわれるものなのに。
まるで砂糖に群がる蟻、同胞たちはどうしてこうも――
引き起こされる死も、破壊も、ぜんぶ受け入れたうえで、人々は皆その瞬間を待ちわびている。そしてその狂気に疑問を呈しながらも、ターシャ自身、期待に身を震わせている。
怒り、悲しみ、後悔、絶望、希望、絆、友情、愛、そこにはすべてがあるという。
ヒューマン襲来イベント――それは、多くの伝説を生み出した偉大なる物語の起点。
彼女の物語はそこから始まる、そしてターシャの物語もまた……
主役になるであろう少女は、不安も期待も感じさせない静謐さを以て、演ずる者としての優秀さを皆に示しつづけている。
評する神の寵愛受けし、並ぶ者なき狼姫――愛しい銀色をその目にしかと焼きつけて、ターシャは琥珀色の瞳を静かに閉じた。
そのときが来たならば、南の警鐘が鳴るだろう。
それまではただ、彼女を想い別れを惜しむ一人の友でありたいとターシャは願った。
家族にはなれず、友でもいられず、恋人になんてなれるはずもない。消去法の果てに出した答えは、きっと正しく、そしておそらく間違っている。
それでも他の選択肢をターシャは思いつかなかった。
リーリア、私はあなたの――
磨き上げた戦士の技量は、世代のなかでも屈指のもの。
五十間を直射で射抜く弓の腕は、本職の狩人たちにも引けは取らない。
けれど、足りない。その程度ではあの白金に傷の一つもつけられない。
牙も爪も脚も目も、すべては狼の下位互換。勝っているのは、憶えること、あとは想いの強さくらいか。
知恵を絞らねば……
古来より、狐の売りはその賢しさだ。それだけで狼姫に挑むのは、少々厳しい気もするが。
それでもやるしかなかった。敵以外にターシャは居場所を見つけられなかったから。
でもこれ、幸せな結末はきっと無理ね。
苦笑とともに開いた瞳の先に、彼女の青い瞳があった。穏やかに微笑む少女にターシャも手を振り笑顔を返す。
これが、最後の笑顔かもしれない。
いくつもに分かれた記憶の小部屋、その一番大切な場所に、ターシャは今を切り取って大事に大事に仕舞い込んだ。
ゆりっぽい話だったね