氷の女王と呼ばれるカリスマ美少女モデルが殺し屋の目で婚姻届の用紙を出してくるんだけどまだ16歳なので結婚とか無理です
傾きはじめた陽の光を浴びる古めかしい喫茶店。
その店の中にある木製の椅子。
そこに、冴え冴えとした美しさの少女が、コーヒーカップを前に座っている。
さらさらのストレートヘアが動くたびに、肩から流れ落ちる。
長い影をつくるまつげの下から覗くのは、真剣な瞳。
それは今にも僕を殺さんと言わんばかりの殺気に満ち溢れている。
その瞳で見つめられたら、誰しもが命が終わることを感じるほどの美しさ。
さながら雪女に最後通告を受けているかのよう。
そして、真っ白な手を彩るきれいなマニキュアが塗られた指先から、繰り返し差し出される一枚の紙。
婚姻届。
「………はい」
赤い唇からこぼれるセリフは、いつも短い。
でも、僕にはその意味が分かっている。
だから、速攻で断る。
「いえ、結構です」
「…………書いて」
「書きませんし、凛さんは18歳でも、僕は16歳。結婚できない年齢ですし、そもそも結婚しませんから」
「…………マンデリン、おかわり」
「はい!喜んで〜」
にっこりと笑顔で答える。
凛さんはぷるぷると肩を震わせて、手に持っている婚姻届の用紙をぐしゃっとした。
「………めんこい」
そして、顔を覆う。
いつものやり取りに、喫茶店のマスターが微笑ましく笑う。
「零くん、君がマンデリンいれてあげて」
「え?いいんですか?コーヒーいれていいんですか?やった〜」
バイト先はシックな雰囲気の昔ながらの喫茶店。
マスターのいれるコーヒーに心を奪われて、バイトを始めたのが去年の春。
高校入学のその日のことだった。
入学式に少しだけ嫌なことがあって、沈んだ心のまま、学校から駅までの間を歩いていると、鼻先をかすめた芳しい香り。
それに釣られるようにして、店に入ったのがきっかけだった。
一杯のコーヒーが持つ魔法の力。
その香りに癒されて、僕は毎日学校に通えている。
居所が他にあると分かれば、学校で会う嫌な奴もだんだんとどうでもよくなっていった。
その喫茶店の常連客が、この美少女モデルとして有名な凛さんだ。
僕が初めてこの店のコーヒーに感動している時も、マスターにバイト志願をした時も、冷たい視線だけを向けていた。
それはバイトになってからも変わらず。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
「………モカ」
「はい、かしこまりました」
絶対零度の冷たい視線。
美しさが暴力になるって、本当だ。
僕は表面上はにっこりと。
内心はガタガタと震えながら、いつもオーダーをとっていた。
マスターに聞いた話によれば、凛さんはカリスマモデルらしい。
確かに凛さんは、かわいいではなく、美しいタイプの美少女だ。
その冷たい美しさから、定着した異名が「氷の女王」。
インスタグラムで画像を投稿しても、コメントはいつも一言だけ。
「いつも見てくれてありがとう」
カメラを直視する凍りつきそうな眼差しが、画面ごしにたくさんの人たちのハートを射抜き続けている。
けれど、決して「氷の女王」は、動画は投稿しなかった。
たとえ、ガールズコレクションでランウェイを華麗に歩いても、決して一言も話そうとしなかった。
女王は口がきけないのか、という憶測も出たが、関係者によれば会話は常にしているという情報が流れ、すぐに消えていった。
一度だけ、ストーカー寸前の男が撮影中の凛さんに花束を持って、
「好きです!結婚してください!」
と、押しかけたことがあったが、氷の女王は、
「きしょ」
と、一言で一蹴した。
男は花束と共に散っていったそうだ。
そんな冷たい印象を与える凛さん。
その凛さんがこの喫茶店の常連になっているのが、僕にはずっと謎だった。
マスターは、
「ふふふ、さあ、どうしてかな?」
と、笑うだけで、教えてくれない。
てっきり二人は恋人同士かと思えば、そんな雰囲気もない。
ただ凛さんが来て、黙ってコーヒーを飲んで、時々僕のことを邪魔者よ消えろと言わんばかりの表情で見てくるだけだった。
そんな懐かないセレブ猫のような凛さんにコーヒーのオーダーをとりつづけて、半年経った頃。
「ご注文はお決まりですか?」
「………キリマンジャロ」
「はい、かしこまりました」
いつも通りの最低限の会話で終わる。
「マスター、キリマンジャロお願いします」
「はい。……あ、ごめん、零くん。店の時計止まってたんだ。もうバイトの時間が過ぎてたね」
「あ、本当だ」
カウンターの陰にある置き時計を見ると、確かに時間が過ぎていた。
「それじゃあお疲れ様でした」
「はい、お疲れ様でした」
穏やかに笑うマスターに、ぺこりと頭を下げて荷物を持って裏口から出る。
閉店まで残り1時間。
夏の蒸し暑さが残る路地裏を小走りで通り抜ける。
大通りの交差点で、横断歩道の信号を待っていると、なんとなく違和感を感じた。
見ればエプロンをつけたままだった。
明日はバイトは休みだし、明後日の午前中にクリーニングにまとめて出すと言っていた。
「……うー、しまったぁ」
あと、単純にエプロン姿のまま歩いていたのが恥ずかしい。
ショルダーバッグに脱いだエプロンを突っ込むと、僕は慌てて喫茶店へと戻った。
裏口から静かに店の中に入る。
聞こえるのは、マスターと女の子の話し声。
ん?お客さんがあの後来たのかな?
凛さんは、店の中でも全く話さない。
マスターと談笑していることなんて、一度も見たことがない。
でも、マスターがキリマンジャロをいれて、次のお客さんのコーヒーもいれずに話していることも滅多にない。
それじゃあ、この話し声は。
「いつまで待ってもきねーがら、こわくなってきてよー」
「それはいじやけるなぁ」
ん?
んん?
「みんな、しゃーんめって言うんだけど」
んんん?
コーヒーの種類だけの単語しか聞いたことがなかったけど、この声は。
「あるってかえっぺーって」
氷の女王、凛さんの声だ!
動揺のあまり普段なら華麗に避ける空のウォータータンクを蹴ってしまった。
「………!」
凛さんとマスターが、僕を見つめる。
膠着した状態が続くこと、数十秒。
「なしておめがここに…!」
氷の美貌のまま、凛さんが叫んだ。
そのギャップに思わず。
「え、凛さん、かわいー……」
言ってしまった。
一瞬で真っ赤になる凛さん。
え、だって、あの氷の美少女が、方言だよ?
かわいくない?
呆けた顔で凛さんをかわいいと連呼する僕と、真っ赤な顔で口をはくはくさせる凛さんを見比べていたマスターが、ぶはっと吹き出した。
「ふふふっ、凛、大丈夫だって言ったろ?零くんは凛の方言をばかにしたりしないって」
凛さんは、その氷のような美しさからスカウトされてモデルになった。
けれど、撮影現場に来る他のモデルさんたちは、凛さん曰く、洗練された都会の女の子たちばかりだった。
「……じいちゃんばあちゃんに、めんげなぁって言わっちぇも、おらがしゃべっとみんなくすくす笑うんだぁ」
もじもじとコーヒーカップを弄びながら、凛さんが話してくれた。
顔と話し言葉が一致していないと、笑われて、凛さんは話すことをやめた。
一応、意思の疎通が必要な単語、「はい」「いいえ」「使う」「要らない」などは、口に出すが、会話になると黙る。
同じ茨城県出身のマネージャーが仲立ちになってくれて、なんとか仕事ができているそうだ。
「それで、マスターも茨城県出身だったんですか?」
「うん。凛のお父さんとは、ちょっとしたバイク仲間でね」
「そうだったんですね」
僕はもじもじと照れくさそうに笑う凛さんに言った。
「僕は凛さんが方言を使っていても笑ったりしませんし、むしろギャップ萌えっていうんですか?かわいいと思います。
だから、今度から僕がいてもマスターとおしゃべりしてくださいね」
「……零、くん」
「あ、でも僕は茨城弁分からないので、今まで通りで。
マスターとは存分におしゃべりしてください」
「なして?!」
「んー、なんかイントネーション?とか、凛さんの言い方がかわいいから聞いていて楽しいので」
「………か、かわっ」
「それじゃあ、お疲れ様でしたー」
「はーい、お疲れ様〜」
僕はマスターにエプロンを渡して、そのまま帰った。
それから、凛さんのよくわからない行動が始まった。
花束を持ってきたり。
黙って婚姻届を出してきたり。
「……凛さん、結婚しませんし、できませんから」
「………書いて」
今にも僕の首筋にナイフをあてそうなアサシンの目で見つめてくる。
それを見守っているマスターは、いつもにこにこと笑っているだけだった。
喫茶店でバイトを始めて迎えた最初の冬休み。
それはクリスマスの日にやってきた。
「いらっしゃいませ」
「ふん、零のくせに、こんなところでバイトしてたの?」
雪の舞う中、クラスメイトの果南が、喫茶店にやってきた。
「……何しに来たんですか」
「暇だったからきてあげたのよ。かわいそうな零が、働いているのを眺めにね」
ツインテールの髪を軽くかきあげる。
そして、ばかにしたような目で僕を見た。
「……お好きな席へどうぞ」
僕は表情が消えたまま、果南を席に案内した。
「……零くん、あのお客さん、知り合い?」
「はい……中学から一緒なんですが、親が離婚してからばかにしてくるようになって」
「面倒なら、追い返そうか?」
優しい眼差しのマスターの視線を振り払うように、僕は首を振った。
「いえ、いつものことですから。大丈夫です」
そう、いつものことだ。
入学式の日に、出会い頭で、
「ねぇ、誰もいない家にひとりきりなんでしょ?
かわいそうだから私が遊んであげるわ」
と、真新しい制服に新品のカバンをこれみよがしに見せつけてきて、果南は高飛車に言ったのだ。
春休みに両親が離婚して、それをまだ受け入れられないままに迎えた高校生活の初日。
僕は家事に忙殺されて、新しいカバンも何も買いにいく余裕が残っていなかった。
入学式の帰りに、買おう。
そう思って、少しだけ浮上させていた気持ちがくしゃっと潰されてしまった。
どうして、父さんと母さんは離婚したのだろうか。
理由を聞かされたはずなのに、頭が理解を拒否していた。
そんな凝り固まった僕の体と心をほぐしてくれたのが、マスターのコーヒーだった。
どうせ家に帰ってもひとりだ。
それなら、二、三時間でも、居心地のいいところにいたい。
そう思ってバイトを始めて。
それなのに、果南は、学校以外でもぼくの場所を荒らしに来たのか。
「ねぇ、おすすめのコーヒーはどれ?別にあんたの好みを聞いてるんじゃないからね」
「……こちらのおすすめブレンドがいいかと」
「じゃあ、それにするわ」
両腕を組んで、椅子に深く座る。
「あんたがちゃんと働けているか、見ていてやるわ」
僕は何も言わずに、その場を離れた。
果南が二杯目のコーヒーを飲み終える頃、喫茶店に凛さんがやってきた。
果南が息を飲むのが見えた。
凛さんはニットキャップをかぶったまま、流し目で果南を冷たく見ると、珍しくカウンターの真ん中に座った。
「……零くん、ホンジュラス」
「はい、かしこまりました」
最近は、凛さんのコーヒー係は僕に固定されている。
他のお客さんに出すにはまだダメだからと、マスターに言われていて、今は練習も含めて凛さんのコーヒーをいれさせてもらっている。
練習に付き合わせてしまっているので、凛さんはいつも二杯で一杯の代金を支払って帰る。
そういえば、いつも二杯飲んで帰るな?
前は一杯だけの日もあったのに。
僕は果南を頭から追い出して、凛さんのためにコーヒーを用意する。
カップをあたため、その間に豆を挽く。
ふんわりと香りがのぼる。
お湯が沸いたら、注ぎ口の細いケトルに移す。
少しだけ、お湯の温度を下げるため。
凛さんへのコーヒーをいれながら、僕も少しだけ、冷静さを取り戻す。
果南が何を言ってきても、気にしない。
それだけで、いい。
出来上がったコーヒーをカウンターに座る凛さんへ。
凛さんは、香りを楽しんでから、ひとくち飲む。
ほう、と、ため息を吐いた。
そして。
「……んまい」
そう言って、春の花のように、小さく可憐に微笑んだ。
「よかったです」
最初の一杯目でもらったのは、「うんまぐねぇ」の一言と、ブリザード級の無表情だった。
最近ようやくこの「んまい」が聞けるようになった。
僕は嬉しくなって、少しだけ口元がゆるんだ。
すると。
がたん!
勢いよく果南が椅子から立ち上がった。
鬼のような形相で、こっちを見ている。
「……な、なんで氷の女王が、れ、零のコーヒー飲んで、笑ってるのよ」
なんでって、美味しいものを口にすれば笑うだろう。
そう思ったけれど、僕は果南に反応しなかった。
反応した分だけ、いつもひどいことを言ってくるから。
「零、私にもコーヒーをいれてもいいわよ!」
「えっと、マスターの許可が出ないから」
「じゃあ、どうして氷の女王にだけコーヒーいれてるのよ!」
ああ、まただ。
いつもこうだ。
何を言っても果南は僕に怒りをぶつけてくる。
離婚が決まる前の、母さんみたいに。
僕を怒鳴りつけてくる。
三ヶ月に一度だけ会うようになってからは、穏やかに話しているけれど。
すうっと、体の中の血が、床に吸い込まれてしまったような感覚になる。
指先が、冷える。
「……うっさい」
凛さんが、ニットキャップを脱いで、髪を背中にはらう。
足を組み直す。
それだけで、そこにいるのは絶対零度の凍るほどの視線を剥き出しにした、氷のように冷たい美貌の少女。
氷の女王。
まるで本当の女王のように、威厳あふれる姿。
「……零くんに手を出すな」
見惚れたような顔で固まっていた果南が、我にかえって言い返した。
「な、なんであなたにそんなこと言われなきゃいけないのよ!
私は零がかわいそうだから、仕方なくかまってあげてるのよ?」
「……零くん、わたしのもの」
そう言うと、凛さんは椅子から立ち上がって、カウンターから僕の方に身を乗り出すと、
「……凛さ……!」
僕のシャツの襟元を掴んで、引き寄せて。
「………ん」
僕にキスをした。
ゆっくりとスローモーションのように、凛さんが瞬きをするのが見えた。
ふっ、と、首元の苦しさが消える。
凛さんが、手を離したのだ。
「……そーいうこと」
そう言って、凛さんは婚姻届の紙をひらひらと果南に向けて振ってみせた。
「……お、お釣りはいらないわ!」
顔を真っ赤にして、果南はそう叫ぶと、千円札をテーブルに叩きつけて店を出て行った。
「……なんだったんだ」
僕は混乱した頭のまま、カウンターに突っ伏した。
「……責任とっから」
「……いえ、結構です」
カウンターに乗せたままの僕の頭を、凛さんが楽しそうに撫でているのが分かった。
なんだか別に嫌な気分でもなかったから、そのままにしていた。
もう指先は、冷たくなかった。
「……ブラジル」
「はい、かしこまりました」
それからも凛さんはコーヒーを飲みにやってくる。
マスターは、凛さんが以前より標準語に近い言葉をがんばって話そうとするようになったと嬉しそうだ。
「やっぱり、愛の力はすごいね」
「……凛さん18歳ですし、僕もまだ16歳ですよ?」
「いいんじゃない?俺の嫁さんが子ども産んだの17歳だし」
「ええ?!」
「あれ?言ってなかったかな?俺、おじいちゃんだよ。38歳で初孫出来てたから」
「ええええ?!」
「凛もなー、零くんとられないように必死だから。あ、凛のお父さん、今年40だけど、そろそろ孫欲しいな〜って、俺のこと見ていつも言ってるから」
「………えぇええ」
「零くん、あんまり喋らないけど、凛は諦めない子だから。モデルで成功するって、本気で大変だからね?」
「……う、確かに」
「よろしく頼むね」
「………マスター」
もう何も言葉が出てこなかった。
そして、凛さんは今日も僕のバイト時間に合わせて、喫茶店にやってくる。
「……書いて」
「結構です」
いつもの通りに、婚姻届を用意して。
いつの日か、この紙に書いてしまいそうだと思い始めているけれど、しばらくはこの殺し屋みたいな目の凛さんにコーヒーをいれる平穏な日々を送りたいと思っている。
冬来りなば、春遠からじ。
氷の女王が、春の女王になるまで、あと少し。
果南「私の何がダメだったの?!」
マスター「大丈夫。零くん以外のところで需要はあるよ」
果南「需要って何?!」
……………………………………………………
(*´ー`*)思いついたので、おまけ。
マスター「あ、零くん。犬派?猫派?」
零「犬ですかね」
凛「………(そっと、もふもふの垂れた耳付きカチューシャを着ける)」
零「凛さん、何してるんですか?」
凛「……くぅん」
零「……ぐぅっ、両手を丸めて顔の下に持ってくるなんて……!」
凛「………きゅうん、きゅうん」
零「………う、上目遣い、やめてください!」
凛「……くぅん?(そっと婚姻届とペンを差し出す)」
零「だめです」
凛「くぅん……(´・ω・`)」
マスター「零くん、手強いなぁ」
零「………また着けてくれないかなぁ」
凛「わんっ!わんわんっ!U^ェ^U」
零「わっ!ちょっと!顔にキスしないでください!」