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これは夢だ。ルークはすぐに気付いた。
ルークは玉座の間に魔王と共にいた。イブとではない。彼女の父親である先代魔王と、だ。これが夢でなくてなんだというのか。
頬はこけ、深い眼窩は血色の悪い顔にさらに影を落としている。玉座の背もたれに身体を預けるその姿に、往年の雄々しさは皆無。
まさしくこれは、先王の最期の姿そのものだった。
「……ルークよ」
「は」
「わしはもう……長くはない。お前もそう思っているのだろう」
「まさか。お気を強くお持ちください陛下」
先王は晩年、重い病に侵されていた。どんな薬や魔術をもってしても、その病に打ち克つことはできなかった。光明の見えない闘病生活は一年ほど続いただろうか。
体力や魔力は衰え、それに合わせるように気力すら病は先王から奪っていった。
「つまらぬ慰めはよい。わしのことはわし自身が一番よくわかっておる。この病は決して治るものではない」
力なく、意識しなければ聞き逃しそうなほどのか細い声だった。
どうして、とルークは思う。
これが夢なら、せめて病になる前の先王に会わせてくれ。どうしてこんな辛い想いを夢でまで味合わなければならないのか。
わかっている。これは夢であって、夢ではない。過去を基に再現された、ルークの記憶の残滓だ。
より強く印象に残っていることほど、より深く記憶に刻まれるとするならば、この日ほど深く刻まれた記憶なぞありはしない。
この日、先王は死んだのだ。
「……だがな、それは昨日までのわしだ」
先王がぽつりと言った。瞳の中に浮かぶ白濁した光が、ルークを見据える。
「どういうことでしょう」
「ついに編み出したのだ。わしがこの苦しみから逃れるための魔術を……!」
先王の顔が歪む。笑顔にも見えるその歪みに、ルークの胸をなにかが掻き毟った。
ここで夢は明け、ルークの意識は急速に引き上げられた。
「どうかしましたの?」
執務室で書類に目を通していると、紅茶を運んできたソフィアがルークの顔を覗き込んできた。書類を卓上に放り、椅子の背もたれに思い切り体重を預ける。
「機嫌が悪いんだ」
「堂々と言うことではありませんの」
カップをルークに手渡し、代わりに卓上に散らばった書類の束をすくいあげるソフィア。感情の窺えない目線が、書類の上を流れていく。
「いつも通りの陳情書ですの」
「そうとも。いつも通り暇を持て余した領民たちからのお便りだ」
魔界にも領民は存在する。数は五百にも満たない彼らの全員が魔人だ。
わずかばかりの税を徴収する代わりに、領主である魔王は彼らの生活を保護する。可能であれば、より良い生活をさせてやる。
ただ魔界に住む領民たちは、基本的に生活に困窮していない。
魔界の中心には大きな湖があり、河川も豊富だ。肥沃な大地は農耕に適し、真面目な働き手さえいれば食うに困りはしない。
そして魔人には、魔動甲冑という決して仕事をさぼらない働き手がいる。
魔王のように複数体の魔動甲冑を使役することは出来なくとも、一体程度の使役ならば造作もない。炊事や織物といった細かい感覚を求められる仕事を除き、多くの労働から領民たちは解放されている。
一方で、閉ざされた世界がゆえに、娯楽は乏しい。
春は草花を愛で、夏は小川で涼を取り、秋は月夜に酒を飲み、冬は雪の静寂さに詩を詠む。ルークへと届くこの陳情も、いわば領民たちにとっての暇つぶしだ。
「それじゃあどうして。嫌な夢でも見ましたの?」
「……まさか。ガキじゃあるまいし」
完全に図星だったが、それを認められるほどの達観には至っていない。カップを傾け、まだ熱さ残る紅茶をのどに流しこんだ。
「……どうして来なかった」
ぽつりと漏れた本音。
昨日、異界勇者は転移してこなかった。
こんなことは異界勇者が転移してくるようになってから、初めての事態だ。
ひょっとしてこちらの策が人界に悟られた?
そんなことはありえないと、頭ではわかっている。人界にこちらの思惑を知る手段などないのだから。
それでも考えずにはいられなかった。
「もうすぐいつもの時間ですの」
「……ああ」
異界勇者が転移してくる時間はいつも決まっていた。日が傾き、夕闇が訪れる間際。夕食の支度を待つほんのひと時に、それは決まって訪れていた。
「もし今日も来なかったら……」
「それはそうなった時に考えればいいですの」
言い置き、ソフィアは執務室を後にした。転移の間の様子を確かめに行ったのだろう。いつもは彼女に任せている任務だが、今日はその背中を追った。
「たまには付き合ってやるとしよう」
「明日は雪が降りますの」
「楽しみだな」
肩を並べ歩いていく。ソフィアの目尻がほんの少し下がったように見えた。
転移の間には特別な魔術が施され、そこに転移された者は外側から扉を開け放たれない限り、丸一日部屋から出ることができない。夜半に異界勇者から奇襲を掛けられずにすんでいるのはこの魔術によるものだ。
その魔術も、ひとたび扉を開けてしまえば無効となる。そして異界勇者の転移を確認するためには、室内を目視しなくてはならない。
そのため転移の間の扉には引き戸式の小窓が付いており、ここから室内を覗き見るのが常であった。
「……どうだ?」
小窓を覗き込むソフィアに、ルークが声を掛ける。彼女は振り向き、小さく頷いた。
「本当か」
「はい。性別は女、年齢は十代半ば。剣を一振り腰に差してますけど、とくに警戒しているふうには見えませんの」
「わかった。合図をしたら扉を開け放て」
これまでは即座に始末する手前、せめてもの情けとして言葉を交わしてきた。敵とはいえ最期の言葉くらい聞いてやろう、と。
だが今日は違う。
どうせこれから数十年という長き時を、限りなく自由を奪った状態とはいえ生き永らえてもらうのだ。わざわざ言葉を交わす必要もあるまい。
問答は不要。異界勇者に剣を抜く間すら与えず急襲し、昏倒させる。
重心を下げ、両足に全神経を集中させる。大きく息を吸い込み、そして吐いた。
「――開けろ!」
号令一閃。扉が開かれ、室内の光景が視界に飛び込んできた。ソフィアの言った通り、無警戒に佇む一人の少女。
地面を強く蹴り、一瞬にして室内へと駆け込む。
瞬く間もなく異界勇者との距離が詰まる。そのなかで、その目がすっとこちらを向いた……ように見えた。
まさか俺の動きを追えている?
馬鹿なありえない。自らに言い聞かせ、手刀を構える。これを叩きこめば、異界勇者の意識を刈り取れるのだ。
目の前の少女が、ルークを凌駕する億に一つの異界勇者でない限り。
少女の首目掛けて、手刀を振り下ろした。
気絶させた異界勇者を運んだ先は、魔王城の最奥――地下牢だ。剣は奪い、手錠足枷により身体の自由を奪っている。
鉄格子越しに眺める異界勇者は依然気絶したまま、ピクリともしない。
「水でもかければ目を覚ますか?」
「それは鬼畜の所業ですの」
横に立つソフィアから即座に否決されてしまった。
「しかし、いつまでもこうして目覚めるのを待っているわけにもいくまい」
「たしかに年若い乙女の寝姿をいつまでもルーク様に観察させるのは憚りますの」
「人聞きの悪い言い方をするな!」
異界勇者の年齢は十四、五といったところ。肩ほどの長さに伸ばされたその黒髪は、まだあどけなさすら感じさせる。
発育良い身体を包んでいるのは、白を基調とした上下一式の服装。異界における教育機関である『学校』で少女がよく着用する『セーラー服』というものだ。
不意に異界勇者が寝返りを打った。スカート裾が乱れ、真っ白な太ももが露わに――ならない。
「おい」
背後から目隠しをしてきたソフィアに、ルークは視界を覆われたまま声を発した。
「つい」
「つい、じゃない。さっさと外せ」
「もうちょっと待って……あ、はいどうぞ」
ソフィアが目隠しを外した。異界勇者はさらに寝返りを打ったのか、スカート裾の乱れも直っている。
首だけを振り返り、ソフィアをにらみつける。
「なんのつもりだ」
「乙女の尊厳を守ってあげようと」
臆面もなく言い放つソフィアに、ひょっとしておかしいのは俺か? と不安になる。
「寝返りを打ったくらいだ。少し揺さぶれば起きないか」
「そもそも起こす必要がありますの? そろそろ夕食のお時間ですの」
たしかに、急いで異界勇者を起こす必要はない。むしろ魔王との晩餐の間、このまま眠り続けてくれていたほうが助かるだろう。
「わかった。俺は陛下と食事をとってくる。見張りは任せた」
「かしこまりました」
うやうやしくお辞儀をするソフィアに背を向け、地下牢から城内へと戻る扉を開ける。
魔王が立っていた。
「へ、陛下どうしてこのような場所に」
「いつもならもう夕食の時間なのに呼びに来ないから、探そうと思って……。ルークこそどうしてこんなところにいるの?」
ルークの身体を避けるように魔王が室内を覗き込む。彼女の立ち位置からは、地下牢の中までは見えないはず。
ここで魔王を引き返らせることができれば計画に狂いは生じない。
「なんでもありま――」
「……ん~!」
大きな伸び。その声は地下牢においてあまりに大きく響いた。
「――せん。さあ、食事へ参りましょう」
「いまのなに」
「ソフィアでしょう」
「ソフィアはそこに立ってるわ」
「魔動甲冑かもしれません」
「魔動甲冑は欠伸なんてしないでしょ!」
「申し訳ありません。白状します。このルーク、陛下を前にしながら居眠りしておりました。いかなる処罰も受ける所存に――」
「……あれ、ここどこ?」
背後から聞こえた素っ頓狂な声に、ルークの意識が一瞬だが削がれる。
その一瞬を魔王は見逃さなかった。ルークの脇を潜り抜け、地下牢の前へと躍り出た。
「――あなただれ?」
「あなたこそ、どちらさま?」
魔王と異界勇者。その初対面は地下牢の格子越しに行われた。
あってはならなかった二人の対面。それを経て、当然ながら魔王は説明を求めてきた。猛烈に、激烈に、烈火のごとく。
いたしかたなくルークは地下室にソフィアと異界勇者を残し、魔王と二人きりとなり、すべてを打ち明けた。
転移結晶の存在。
異界勇者が刺客として転移してきていたこと。
そのすべてをルークが葬り去ってきたこと。
対策として異界勇者の幽閉を考案し、本日実行したこと。
これらの事実を魔王に隠し続けてきたこと。
説明の間、ルークの胸は恐怖に震えていた。
いまの地位を失うのが怖いのではない。
魔王のそばにいられないこと。彼女を支えられないこと。そのことがひたすら恐ろしかった。もしもそうなれば、ルークが生きる意味は消失する。
「ルーク。顔を上げなさい」
説明を終えたところで、それまでじっと耳を傾けていた魔王が口を開いた。
初めて聞く真剣な声に、ルークは恐る恐ると顔を上げる。
その頬を小さなビンタがぺちんと叩いた。魔王はルークの頬に手を添えたまま、
「もうあたしに秘密にしてることはない?」
「……ありません」
「もうあたしに隠し事はしないと誓う?」
「……誓います」
魔王の手が離れた。彼女は小さく微笑む。
「なら許してあげる」
胸が震えた。
これほどの器量を魔王が見せたこと。彼女がこれほどまでに成長していたこと。自分の選択が間違っていなかったことに、ルークの心は強く揺さぶられた。
「それじゃあ牢に戻りましょう。あの娘に話があるの」
「は。しかし陛下、話とは?」
「そんなの、いろいろよ。いろいろ」
はぐらかされたまま、二人は地下牢へと戻っていった。
地下牢の状況に変わりはなかった。鉄格子の向こう側で拘束される異界勇者と、それを無表情に監視するソフィアの目がこちらを向く。
「様子はどうだ」
「ルーク様のご指示通り、簡単な説明はしましたの」
「それじゃあ前置きは不要ね」
魔王が一歩前に出た。鉄格子のすぐ近く、もしも異界勇者が両手の拘束を破り手を伸ばしてきたら、触れられる距離だ。
「陛下。あまり接近されるべきでは」
「いいの」
ルークは口を噤んだ。代わりに、異界勇者の動きに注視する。不審な動きを見せれば、強引にでも魔王を引き離さなくてはならない。
「あたしの名前はイヴ。イヴ・ド・バーンシュタイン。この魔王城の主で、魔界の王よ」
「それはさっき、そこのメイドさんから聞いたわ」
「そう。それじゃあ、あなたのお名前は?」
「あたしの名前?」
異界勇者が首を傾げる。ルークも心の中で傾げた。異界勇者の名前など、知ってどうするというのか。
「魔王に名前があるんだから、異界勇者にだって当然あるはずでしょ? だから教えて。あなたの名前を」
「……御堂、陽葵。御堂が姓で、陽葵が名前」
「ミドウヒナタ……綺麗な名前。それでねヒナタ、あなたにお願いがあるの」
異界勇者に警戒の目を光らせるルークを尻目に、魔王が動いた。鉄格子の隙間を抜け、異界勇者の眼前へと手を差し伸ばす。
ルークに引き離されるより早く、魔王は言った。
「――あたしとお友達になってほしいの」