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 目覚めると彼は海岸線にいた。

 ここはどこなのか。そう考えようとして、自分がなにも憶えていないことに気付く。

 名前も、年齢も、出身地もわからない。この場所にどうしているのか、どれほど記憶の沼を探ってみても、なにも掴めない。

 全身が濡れ、服もボロボロだ。ふと頭頂部を触ると、毛髪がまるでなかった。この禿げが生来のものかすらわからない。

 持ち物と呼べるのは、懐に忍ばせた拳大の石だけ。鈍い輝きを放つそれは、とても宝石には見えないが、自らの正体を知る唯一の手掛かりなのだ。失うわけにはいかない。

「か……っ」

 渇いた喉を痛みが走った。

 水。水だ。水が飲みたい。飲まなくてはならない。

 周囲を見渡す。陸地には鬱蒼とした森が広がっている。あの奥のどこかには泉や川があるはずだ。

 よろめき、何度も転びそうになりながら歩き出す。

 空は晴れ、海も波ひとつない穏やかさだというのに、難破でもしたのだろうかと、歩きながら思う。そんなことがあり得るのか。

 整備された林道を見つけ、それに沿って進むと一つの集落へと出た。

 大きな村だ。家屋は立派な石造りで、多くが二階建て以上の高さを備えている。地面には煉瓦が敷かれ、その景観は都市と呼んで差し支えがなかった。

 彼は掠れた声を懸命に張り上げ、助けを求めた。

 住民たちは警戒を露わにしたが、幸いにも言葉は通じ、一人の男が水を恵んでくれた。

 礼を述べると同時にそれを飲み干すと、ぞろぞろと人が集まってきた。

 お前は何者か。その格好はどうした。どこから来たか。なんのために来たか。

 矢継ぎ早に飛んでくる問いは、彼自身が最も知りたいことだった。唯一、状況的におそらく船が難破し、海岸線に漂着したと思われることだけ伝える。

 住民たちの反応は顕著だった。

 人界からの使者か、と誰かが言った。その言葉の意味も彼にはわからない。

「間の境界を抜けたのか」

「使者など、なにをいまさら」

「しかし無下に扱うわけにもいくまい」

「うむ。なんにせよ魔王様にご判断いただこう」

 口をはさむ間もなく住民たちの意見は固まり、そして彼はこの国を統べる王――魔王のもとへ連行された。


 魔王城で彼を待っていたのは二人の男だ。ともに若く、年齢も三十に届いていないだろう。

 玉座につく魔王と、傍らに控える宰相。この国における最高権力者である二人に、彼はこれまで通りの説明を繰り返した。

「……記憶喪失、か。どうだギル、こやつの言葉は真実と思うか」

 説明を聞き終えた魔王が座したまま宰相に訊ねる。

「記憶については判断しかねます。が、人界から来たことは確かかと」

「根拠は?」

「先ほど調べた男の持ち物に、このような物が」

 宰相が拳大の石を取り出した。それは紛れもなく、彼の懐に納められていたはずのものだった。

 いつの間に没収されたのか、まったくわからない。調べたというが、身体検査を受けた憶えすらなかった。

「転移結晶か!」

「おそらくこの転移結晶の力を使い、人界から渡ってきたと思われます。記憶喪失は、枯渇寸前まで魔力を行使したためでしょう」

「転移結晶があろうと、ただの人間には扱えまい。であれば、さしずめこやつは人界の神官といったところか」

 宰相に向けられていた魔王の目線が彼へ移る。まるで魂ごと鷲掴みされるような感覚。

 直後、魔王の姿が消えた。

「――弱いな貴様」

 背後からの声に振り返ると、仁王立ちでこちらを見下ろす魔王と目が合った。

 魔王の口端が笑みに歪む。

「だがその弱さ、気に入った。喜べ、貴様を召し抱えてやろう」

「兄上?」

 それまで微動だにしなかった宰相の表情が、驚きに染まった。

「なにがどうして、その結論に至ったのですか」

「べつにいいだろう。ちょうど使用人がいなくて困っていたところなんだ」

「使用人がいないのは兄上が暇を出したからですが」

「俺が信頼できるのは家族だけだ。母も父も逝ったいま残るはギル、お前だけだな」

「だから即位したそばから、長年の配下たちにまで暇を出した、と?」

「うむ。やつらはそこそこ強いからな。特にあのアルフレッドなどは、下手を打てば俺もお前も危うい。それに比べてこやつはどうだ」

 魔王に指差され、反射的にびくっと身が震えた。

「こやつの弱さは素晴らしいぞ。たとえ俺が寝込んでいようと、病に伏していようと、こやつごときの魔力では傷一つ付けられまい」

「それで?」

「俺の脅威たりえない、これほど使用人に相応しい人材がほかにいるか?」

「……本気で仰っていることだけは理解いたしました」

 宰相は嘆息するように首を振った。説得は諦めたらしい。

「喜べ名無し。貴様に仕事と住処、ついでに名をくれてやろう」

 こうして彼は、自らの希望を一切介さぬまま、使用人として魔王城に住み込むことになった。

 肉体労働を伴う雑務は、魔王の動かす魔動甲冑が担ってくれる。彼に任されたのは魔動甲冑の管理と日々の食事の世話などだ。

 魔動甲冑たちは従順な働き手であり、その劣化状況だけを見ればいい。食事を作ることも苦ではなく、あるいは記憶を失う以前から習慣としていたのかもしれない。

 職場の人間関係も悪くはなかった。

 魔王と宰相、そしてその妃たち。彼女たちもまた若く、特に王妃は十代半ばであったが、彼を快く迎え入れてくれた。

 四人の主人と数多の魔動甲冑に囲まれた生活。あまりに穏やかで、ゆっくりと過ぎていくそのなかにも、いくつかの出逢いと別れはあった。

 彼が魔界に流れ着いた数年後、宰相夫妻の間に男児が産まれた。聡明で、魔力にも恵まれたその子に、夫妻は最大限の愛情を注いだ。

 しかしその子が八歳になる頃、夫妻は水難事故で他界した。

 同じ頃、今度は魔王夫妻に女の子が産まれた。母親の可憐さと、父親の魔力を受け継いだ子だった。

 そしてその数年後、王妃が病に倒れた。

 魔界中の薬草を集め、ありとあらゆる回復魔術を試みても王妃の容体は一向によくならなかった。

 いよいよ死期が近づいたある日、看病をする彼に王妃が言った。

「ねえ。この城に来て、もう何年になるかしら」

「私が、でしょうか。十五年ほどになります」

「十五年……長かったわね」

「満ち足りた日々でした」

 魔王夫妻と宰相夫妻、そしてその子らに仕える毎日は、記憶を持たない彼にとってかけがえのない拠り所だった。

「そう……なら、よかった。長い間、本当にありがとう」

 王妃の顔にうっすらと笑みが浮かぶ。まだ齢三十ほどにもかかわらず、その顔は病によりすっかりやつれている。

「心から感謝します――神官様」

 眠りにつく間際、王妃が言い残した言葉を、彼は気に掛けなかった。意識が混濁しているのだろうと、悲しみだけを抱く。

 三日後、魔王と彼の二人に看取られながら、王妃は息を引き取った。

 彼が目を瞠ったのはその直後のことだ。

 目の前に横たわる王妃の遺体が光の粒となり、散り去っていく。

 美しくも、儚さを想起せずにはいられない光景だった。

「……貴様だから見せた。他言はするな」

 魔王の言葉を聞きながら、彼は胸を押さえた。

 ただの悲しみや、辛さとは明確に異なる痛み。

 その意味を彼の本能は知っていた。

 ――異界勇者の魔力の消失。

 数多の記憶が激流となって脳裏を駆け巡る。

 自分が何者なのか。

 どうして単身、魔界へと流れ着いたのか。

 だれを救いたかったのか。

「……あ、ああああああああぁ!」

 彼――ランス・フローレンゲンはすべてを思い出した。


 一通りの手筈を済ませ、ランスは玉座の間の床に腰を下ろした。目の前には真紅の炎に包まれた、主なき玉座。

 振り撒かれた油をつたい、炎は玉座の間から魔王城全域へと走っていく。さしたる時間もかからず、この城ごと焼き尽くすことだろう。

「……長かった」

 いまにも消え去りそうな意識下において、辛うじて絞り出された声。

 あの日、記憶を取り戻したあの日からランスの闘いは始まった。

 王妃の死により胸を走った痛み。あれは異界勇者の死を召喚主に伝えるもの――いや、記憶を取り戻したいまとなっては、もはやそれは関係ない。

 王妃の顔立ち、声や仕草振る舞い、それらは加齢による変化を踏まえてなお、あの異界勇者のそれと完全に同じだった。

 理解する。

 十五年前、異界勇者は魔王に囚われ、手籠めにされた。娶られ、子を産まされ、最期は病に殺された。生前自殺した異界勇者にとって二度目の人生は、そうして終わった。

 どうして彼女だけがこんな目に遭わなくてはならない?

 この世に存在するありとあらゆる負の情念を、ランスは魔王へと向けた。

 あの男を殺す。

 そう決意すると同時に、一つの疑問がよぎった。

 大きく人相が変わったとはいえ、異界勇者はランスの正体に気付いたはずだ。にもかかわらず彼女は、そのことを明かさなかった。

 なぜ?

 わからない。わかる日も、もう来ない。彼女はもうこの世界にいないのだから。

 魔王の殺害に話を戻そう。

 直接手を下すことは不可能だ。ゆえにランスは自らの職務を利用し、毒を盛った。

 手に入る限りの毒を盛り続ける日々。しかし強大な魔力を有する魔王にはなんの効果も与えられない。

 そんな繰り返しの日々が七年ほどたった頃、魔王が病を患った。異界勇者を殺したものと同じ不治の病だ。

 毒によるものではない。病魔が魔王を襲ったのはまったくの偶然……否、運命だった。

 病の進行に伴い、魔王からかつての魔力は失われ、毒への耐性も弱まっていった。

 このままゆっくりと、もがき苦しみ、そして惨めに死ねばいい。

 ランスの心からの願い。しかしそれに反し、魔王はある日、急死した。

 あっけなく。ランスが立ち会う間すらなく。唐突に。

 途方に暮れた。

 彼女の復讐をする。そのためだけの命だった。その相手――魔王が死んだ。

 なんのために生きればいい?

 立ちすくみ、前が見えない。足場が崩れ、永遠に落下し続けていく感覚に襲われる。

 転移結晶を見つけたのはそのときだ。

 魔王の遺品整理中、書斎机に隠し引き出しがあることに気付き、その中を探ったところ、発見したのだ。

 主の思し召しにほかならなかった。

 新たに魔王の座についた少女や、宰相として彼女を支える青年に恨みはない。彼女たちにはなんの罪もないのだから。

 それでも、彼女たちごと、この世界を壊す。

 もはやそれ以外にランスの存在意義はなかった。


 翌日、夕食の支度中に抜け出し、私室にて召喚魔術に臨んだ。

「久遠の円環。光差す彼方、零れ墜つ煌き。青なる朱、赤なる蒼。干渉せよ、混合せよ、爆ぜ出でよ。救いの御手を差し出されん!」

 二十余年の時を経て唱えられた祝詞は、思った以上にしわがれていた。

 召喚された二十代と思しき青年。ランスは彼を、異界勇者へと仕立て上げた。

 魔界に住まう魔王を討滅せよ。それが貴殿の使命なのだ、と。

 異界勇者に死への恐怖はなく、むしろ本能的に死を求めている。思った通り、彼は悩む素振りすら見せず、ランスの指示に従ってくれた。

 彼を転移の間へ転移させ、急いで厨房に戻る。

 夕食の支度を終える頃には、彼の魔力の消失を感知した。

 予想通りの結果に驚きはない。驚いたのは、そこに痛みを伴わなかったことだ。異界勇者の死という情報を得て、なんの感情も生まれない。

 なるほど。かつての先輩神官はこんな心境だったのか。

 翌日、心身の疲労を覚えつつ、再び異界勇者を召喚する。

 全く同じ手順に、全く同じ結果。残ったのはかつてないほどの疲労感。

 それでもさらに翌日、ランスは異界勇者を召喚した。翌日も、そのまた翌日も。延々と同じ作業を繰り返していく。

 ひと月を超えた辺りで、日常から意識が朦朧とするようになった。

 五十、百と召喚を重ねていく。限界はとうに超え、執念だけがランスの心身を支えていた。

 そして三百と何十人目かの失敗を迎えた夜、宰相のルークから、異界勇者の幽閉案を相談された。

 頭を抱える一方で、合点がいった。先代魔王もまた同様の考えに至り、異界勇者を捕らえたのだろう。

 どうすべきか。一日を費やし思案したが、妙案が出るはずもなかった。あるいは異界勇者になら毒が効くかもしれない。最悪、幽閉中に殺してしまえば、また新たな異界勇者を召喚できる。

 そうしてランスは一日の間を空け、異界勇者を召喚させた。

 が、事態は思わぬ方向へと推移した。

 召喚された異界勇者――ヒナタは、新たな魔王であるイヴと友人関係を結んだという。ヒナタに顔を見られるわけにもいかず、隠れて眺めるだけだったが、彼女たちはまるで本当の友人のように見えた。

 使えるかもしれない。

 仮にイヴとルークが敵対することになれば、きっとヒナタは前者に味方するだろう。両者の力関係を考えれば、そうなることが一番、共倒れの可能性が高まる。

 二人を敵対させるための手札なら、幸いにも持っている。

 あとはいつ実行すべきか、そう考えていたところに事件は起きた。

 その場面に立ち会えたのはまったくの偶然だった。

 魔王城裏の森。その奥にある巨樹へ向け、ランスは歩を進めていた。そこは生前、彼女が好んで訪れていた場所だった。

 ランス自身に自然への慈しみはない。しかし山菜採りのためなど森を訪れることがあれば、ついつい足を運んでしまう。そんなところに彼女がいるはずもないのに。

 その道すがら、イヴとヒナタの話し声が聞こえてきた。慌てて身を隠し、二人の声に耳をそばだてる。

 耳を疑った。

 ヒナタが、生前の記憶を取り戻したというのだ。

 これまで生前の記憶――自ら命を絶ったことを知った異界勇者はいない。

 それを知った彼女がどんな行動に出るかわかる者も、当然ながらいない。あるいは再度、自殺を試みる可能性もあった。

 そうなれば計画は水の泡だ。仕方なくランスはその晩、部屋の外からではあるが、ヒナタを監視することにした。

 ヒナタが部屋からひとり出てきたのは、イヴを部屋に招き入れて、少したった頃だ。慎重に後を追うと、彼女はルークの執務室に消えていく。

 直後、窓を突き破る轟音と共に二人は中庭に降り立ち、戦闘を始めた。

 ヒナタの意図がわからない。

 だが、いまが千載一遇の好機であることは確かだった。

 ヒナタの部屋から深い眠りについているイヴを回収し、運んだ先は地下牢だ。

 イヴを起こし、都合の良いでっち上げを告げ、動揺を誘う。意識の判然としない様子の彼女にある魔石を残し、城内に油を撒きながら、ここ玉座の間へとたどり着いた。

 これで終わる。ようやく終わる。すべて終えられる。

 まぶたが重い。目の前で燃え上がる炎すら遠くに感じられた。全身が鉛のように沈み、もう二度と立ち上がることはできないだろう。

「――モーゼフ」

 遠のいていく意識のなか、その声だけは鮮烈に響いた。

 先王の甥であり、現在魔界を実質的に統治する宰相――ルークが背後に立っていた。

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