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いつかの夢の続きをルークは見ていた。
場所は玉座の間。ルークは先代魔王と二人きりでいた。
玉座に深く腰掛けた先王の頬はこけ、顔色はすこぶる悪い。長年の闘病生活により、往年の体力、気力はとうに失われていた。
残された時間が長くないことを語る先王に、ルークは反応に窮している。
「……だがな、それは昨日までのわしだ」
先王がぽつりと言った。薄弱ながら瞳の中に浮かぶ光が、ルークを見据える。
「どういうことでしょう」
「ついに編み出したのだ。わしがこの苦しみから逃れるための魔術を……!」
以前の夢ではここで会話は途切れた。
が、今回は違った。
「まことですか陛下」
今日に至るまで、ありとあらゆる回復魔術を施してきた。無数の薬草を組み合わせた万能薬も試した。しかし先王の病には無力だった。
それがいまになって、そのような魔術を突如として編み出した? そんなことがあり得るのだろうか。
「その魔術というのは……?」
「我が娘――イヴを使う」
「イヴ様を? 使うとは、どういう意味でしょうか」
「そのままの意味だ。我が子たるイヴならば、魂の器に足るはず。そうなればわしはこの肉体から解放され、生き永らえることができる」
「魂の器……?」
そんな魔術、聞いたこともない。いやそれよりも、仮にそんな魔術を先王が編み出したのだとして、その結果イヴはどうなる?
「その魔術が成功すれば陛下の御命は助かるのですか」
「そう言っておろう」
「ではイヴ様は? 肉体を陛下の魂の器とされたイヴ様の魂はどこに行くのでしょう」
縋りつくようにルークは訊ねる。先王は即答した。
「一つの肉体に二つの魂が宿るはずなかろう。わしの魂が器に宿れば、イヴの魂は弾き出されるのが道理。弾き出された魂がどうなるかは知らぬ。まあ十中八九、死ぬのだろう」
絶句した。先王がなにを言っているのか、理解できない。
イヴが死ぬ? 先王を生かすために殺す?
正気の沙汰ではない。
目の前にいるのは、もはやかつての王はいない。
老いさらばえ、それでもなお生に執着する醜い男がいるだけだ。
「話は終わりだ。ルークよ、イヴを呼べ」
「イヴ様をお呼びし、どうされるおつもりですか」
「あ? 話を聞いておらんだか。魔術をもってその肉体をわしの器とする」
「……お待ちください陛下」
ルークは先王の前に跪き、深く頭を垂れた。
「なんのつもりだ」
「器でしたらこの私が務めさせていただきます。ですから、イヴ様を犠牲にするのだけは何卒……!」
肩になにかを置かれた感触。先王の手かと思ったが、違う。
足だ。
「ルークよ、貴様を器にせよと申すか」
「っ……さ、左様にございます」
魔力を込めれば押し返すことは容易いが、主君に対してそれはできない。肩を踏みにじられながら、ルークはじっと耐えた。
先王はさらに力強くルークの肩を蹴った。魔力による一切の防御をしていないルークは無様にもひっくり返り、床に尻もちをつく。
「貴様ごときがわしの器に足ると、本気で思うか!」
仰向けになったルークの上体を、先王はさらに踏みつけた。。
無防備な鳩尾を踏み抜かれ、呼吸が一瞬止まる。
「慢心だなルーク。貴様、慢心しとるぞ。甥とはいえ、貴様ごときにイヴの代わりが務まるだと? 分をわきまえよ」
「そ、そのようなつもりは」
「ええい黙れ! わしに口答えする気――ごふっ」
激昂する先王が咳き込み、口元を手で覆った。湿り気を帯びた咳はしばらく続き、やがて先王は覚束ない足取りでルークから離れた。
「……もうよい。貴様ごときに刻を割いている場合ではない」
先王が口元を拭う。その口の端には、喀血の跡がはっきりと残っていた。
「貴様が呼ばぬのなら、わし自ら連れてくるのみ」
先王はルークに背を向け、玉座の間の扉へ向かっていった。
いまの先王は正気を失っている。魂を他者に移し替えるなどという魔術を本当に編み出したかも、もはや疑わしい。
あるいはそんな魔術は存在せず、イヴも無事にすむかもしれない。
だが問題はそこではない。
父親が、娘である自分を殺してでも生き永らえようとしている事実。それをイヴに知られることが、そもそもあってはならないのだ。
たとえどんな手を使ってでも。
いまの先王にはいかなる忠言も届きはしない。説得は不可能だ。
残る選択肢は限られ、迷っている時間もない。
魔力を全身に漲らせる。
身体を起こし、足音を立てず先王の後を追う。
接近に気付く気配すらない先王の背後にルークは立ち、そして――、
「――っ」
がくん、という落下の感覚と共にルークの意識は夢から覚めた。
慌てて周囲を見回す。ここは執務室だ。執務中、机に突っ伏し居眠りしていたらしい。窓の向こうには日の沈んだ夜の闇だけが広がっている。
夕食後、魔王とヒナタの世話をソフィアに任せ、ルークは書類仕事を片付けるため執務室に戻った。
月明かりとランプの光を頼りにした作業は、思いのほかルークのまぶたを重くしたのだろう。いったいどれほど眠っていたのか、夜はすっかり更けている。
額を拭う。掌が汗でびっしょりと濡れた。雨にでも打たれたのかと、自嘲が漏れる。
この大量の発汗。原因は言わずもがな、あの夢のせいだ。
一年前の記憶の残滓。あの日から今日まで、忘れたことなど片時もない。
おそらくこの呪縛は未来永劫、死の瞬間までルークを縛りつけるのだろう。
「ん……?」
肩から毛布が掛けられていることに、ようやく気付いた。もともと執務室に毛布などなく、居眠りの間際に自ら掛けたのではない。
「……ソフィアか」
ルークが寝落ちした後、執務室を訪ねたのか。わざわざ毛布を運び、掛ける気遣いを見せるくらいなら、起こしてくれればよかったのに。
頬が緩む。先ほどの自嘲とは違う、穏やかな笑みだ。
仕事も大半はもう終えている。このまま眠い目を擦って続けたところで効率が悪いだけだろう。
私室に戻って休むため椅子から立ち上がると、コンコンと執務室の扉が叩かれた。
「ソフィアか? 入れ」
扉がゆっくりと開く。室内に入ってきた者の正体に、ルークの動きが止まった。
「こんばんはルークさん」
そこに立つのはヒナタだった。見るのも懐かしいセーラー服を着ている。
「お前どうして……陛下もご一緒なのか」
ヒナタの後ろに隠れているのかと覗き込むが、そこに魔王の小さな姿はない。
つまりヒナタは、一人で魔王城内を闊歩し、執務室までやって来たことになる。
ルークはヒナタに対して、信用にも近い感情を寄せていた。少なくとも、彼女の魔王に対する親愛は本物だ。
「イヴちゃんならあたしのベッドでぐっすり眠ってます」
「ああ……わざわざそれを伝えに来たのか。すまない、引き取りに参ろう」
だからヒナタを責めはしなかった。単独行動も不問にしよう、と。
が、彼女の反応は予想したものと違った。
「いえ、ここに来たのはルークさんにご報告があって」
「陛下にベッドを占領されている以上の?」
「それよりは、ほんの少し重要かもしれません」
ヒナタがくすりと笑う。こんな冗談を言い合えるような関係、ひと月前には考えられなかった。
はたしてヒナタは言う。
「明日、イヴちゃんと魔界を出ていきます」
「は?」
ルークは驚き、そして呆れた。ヒナタにではない。
「……陛下からそう言うように頼まれたのか?」
ヒナタが来て以降は落ち着いていた、魔王の人界への憧れ。それがまた再発したのだろう、とルークは思った。
「面倒をかけてすまない。陛下は俺から説得しておこう」
「二つ勘違いしてますよ、ルークさん」
ヒナタは小さく笑い、首を振った。
「イヴちゃんに頼まれてなんかいません。あたしが自分の意思で、そうしたいだけです」
「本気で言っているのか」
「冗談なら、もう少し面白いこと言いますよ」
ヒナタの目は揺るがない。ルークはゆっくりと、諭すように言葉を重ねる。
「人界は陛下のことを敵視している。異界勇者という刺客を毎日送ってくるほどにな。そんな敵地で陛下の安全が確保できると思うか」
「あたしが守ります。この命を懸けて」
「貴様ごときが?」
自らが感情的になっていくのを、ルークは自覚した。普段なら口にしないような皮肉が、自然と漏れ出る。
「もう忘れたか? 転移初日、貴様は俺に手も足も出ず卒倒させられた。いつからそんな大口叩けるほど強くなったんだ?」
「……イヴちゃんが強くしてくれました」
ヒナタは両目を閉じ、呟くように言った。
「あたし、どうでもよかったんです。本当になにもかもがどうでもよかった。自分の命だってそう。生きたいという感情なんて少しもなかった」
「なにを言っている……?」
「でもいまは違う。イヴちゃんと出逢えて、彼女と一緒にこれからも生きていきたい。そう強く想える。それだけで力が湧いてくるんです」
ヒナタが目を開けた。その瞳に宿る力強さに、ルークはたじろぐ。
その表情は自信に満ちていた。
「ルークさんのしているもう一つの勘違い。あたしはここに、許可を貰いに来たんじゃない。報告に来ただけです」
「俺の意見などお構いなし、か」
「これまでイヴちゃんの意見を無視してきたのはルークさんでしょう」
ルークとヒナタ、二人の視線が交錯し、宙空でぶつかる。
もはや問答は無意味。可能ならば避けたかったが、力で理解させるしかない。
殺しはしない。以前そうしたように、昏倒させるだけだ。
ルークは右手を手刀に構え、地面を蹴る足に力を込める。
衝撃が胸を襲った。
「ごふっ……!?」
机ごとルークの身体は後方へ蹴り飛ばされ、背後の窓を破り、中庭へと落下していく。
急速に迫る地面。ルークは空中で身を翻し、片膝を立てる体勢で着地した。
「っ!」
先制を許したことに憤りを覚えつつ、打ち破られた執務室の窓――そこから飛び出してくるはずのヒナタをにらみつける。
が、その声は背後から聞こえた。
「遅いですね、思ったより」
振り返る。ルークから離れた先、月光に照らされるヒナタと目が合った。
いつの間に降り立ったのか。ルークが落下する最中、より早く飛び降りたほかに考えられないが、あまりにも迅過ぎる。
「わざわざ背後からお声掛けとは、余裕だな」
「不意打ちなんてずるいじゃないですか」
「さっきの蹴りは不意打ちじゃないわけだ」
立ち上がり、首を回す。蹴られた胸も、骨折には至っておらず、動きに支障はない。
「あのとき――転移初日、俺にやられたときは手を抜いていたのか?」
「だから言ってるじゃないですか。違います。あのときのあたしにとって、あれが正真正銘の実力でした。ルークさんの動きなんて全然見えなかった」
「いまなら見える、とでも?」
ルークは虚空に右手を差し出し、魔力を集中させる。
詠唱は不要。ただその感触を明確に思い浮かべ、強く念じる。
閃光が迸った。
「それなら今度は本気で相手をしてやろう」
右手に握られた一振りの十字槍をルークが構える。
殺意はないが、手加減をして勝てるとも思えなかった。
認めるほかない。
ヒナタは、これまで出会ったどの異界勇者よりも、はるかに強い。
「いいですね、それ」
ヒナタが右手を差し出す。まさかと思った瞬間、彼女の右手から閃光が迸り、一振りの剣が現れた。
武器召喚。遠方より自らの武器を出現させる中級魔術。魔術の難易度としては高くないが、初見で、それも詠唱破棄できるようなものではない。
ヒナタは剣を鞘から抜き、切っ先をルークへと向けた。
「べつにあたしはルークさんのこと、嫌いとも憎いとも思ってないです」
「そいつはどうも」
「だから先に謝っておきます」
ヒナタが片手に持つ鞘を上空に放り投げた。その軌道にルークの目が一瞬奪われる。
「――うっかり殺しちゃったら、ごめんなさい」
ヒナタの姿が消えた。
「っ……!?」
真横から飛んできた斬撃をルークは槍の柄で受け止める。確かな衝撃にわずか遅れ、硬質な金属音が中庭に響き渡る。
剣を押し込んでくるヒナタ。ルークもそれに応え、鍔迫り合いとなった。
二人の境界で魔力が渦巻く。
「硬いですね、その槍」
「先王より受け継いだ魔槍を舐める……なあッ!」
鍔迫り合いを制したのはルークだ。剣ごとヒナタを突き飛ばす。
力ではルークに分がある……ならば一気呵成に攻めるのみ!
体勢を崩したヒナタに槍を突き立てる。ヒナタはそれを剣で受け止めるが、構わず押し込む。
「おおおおおぉっ!」
ヒナタの足が地面から離れ、後方へ吹き飛んだ。そのまま生垣を突き破り、東屋の柱に背中から叩きつけられる。
ルークは地面を強く蹴り、一瞬で距離を詰めた。勢いのままに槍を横薙ぎに振り払う。
石柱が袈裟懸けに両断され、音を立てて崩れ落ちた。
が、そこにヒナタの姿はない。
身を屈め、槍を躱した彼女はその体勢のまま地を這うように距離を詰め、剣を振るった。
狙いは――ルークの両足。
「ちっ!」
両足を刈り取りにきた斬撃を、ルークはその場で跳び、躱す。
腹部を衝撃が襲った。斬撃を躱されたヒナタがその場で回転し、蹴りを放ってきたのだ。
「ぐっ……!?」
悲鳴にもならない息を漏らしながら、ルークは後方に跳んだ。
さらなる追撃のため距離を詰めるヒナタ。
それを迎え撃つルーク。
烈風吹き荒らす二人の闘いがはじまった。




