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 ランスは大海を眺めていた。無限に広がる青、彼方に望む地平線、遠目にもわかる波飛沫。

 生まれてはじめて目にした海の壮大さは、感動よりも畏怖の念を覚えさせられる。

 この海の向こうに魔界は存在し、そこに異界勇者がいるのだ。

 不意に視界が揺れ、自らの足場を見下ろす。

 そこは舟だ。大砲を備えた軍船でも大型貨物船でもない。大人一人とわずかばかりの食糧を積めば荷量が一杯になる、文字通りの小舟。

 もちろんランスに航海の心得はない。

 こんな手札で単身魔界へ乗り込もうというのだから、我ながら呆れる。

 唯一の武器は、懐に忍ばせた拳大の石。

 鈍い輝きを放つそれは、絶大な魔力を秘める魔石――転移結晶だ。

 この転移結晶さえあれば、魔術によって舟を操ることも可能となる。

 いっそ魔界に転移してしまえばこのような苦労は不要なのだが、それではなんの対抗手段も持たずして魔王と対峙することになる。一方的に嬲り殺されるだけだろう。

 彼女を救い出すには、転移結晶を有したまま魔界に乗り込むことが最低条件なのだ。

 転移結晶の魔力は無限にも近いが、触媒となるランス自身の魔力は微々たるもの。彼女を救う以前に、魔界にたどり着くことすら容易ではない。

 だが覚悟ならもうできている。

「万物の意思。動かざる空、地、海。止まらざる風、土、水。刹那にして永遠なる流転よ。回れ、周れ、廻れ――我が意のもとに!」

 詠唱に呼応し、転移結晶が光り輝いた。その輝きは舟へ伝播し、ゆっくりと動き出す。

 風を帆に受けたわけでも、櫓で漕いだわけでもない舟が、波を押し退け進んでいく。

 向かい風を受けながら、ランスは舟をより加速させた。

 事態は一刻を争う。異界勇者の危機というのがまず第一だが、それだけではない。

 彼女がこの世界に転移してから、すでにひと月以上がたっている。これほど永きに渡って生存した異界勇者など、ひとりとして存在しなかった。

 すなわち、彼女の身にどんな変化が生まれるか――なにを思い出すかわからないのだ。

 異界勇者を召喚する際、神官はある条件を満たした魂を異界より呼び寄せる。その条件とは、生前自ら命を絶った魂であること。

 召喚された異界勇者は、自我の崩壊を防ぐため、自らの死に関する記憶を封じられている。それでもなおその魂には、自らの命を絶ちたいという意志が深く刻まれているのだ。

 故に彼らは、無意識下に死を望む。明確な動機もないままに、我が身を顧みず魔王への特攻を試みてくれるのは、その特性によるものだ。

 神殿にとってこの上なく都合のいい人材を追求した結果、確立した選定条件。

 しかし、もしも異界勇者が生前の記憶を思い出したら?

 自らの、かつて自害した過去を知ってしまったら?

 彼女の精神はその衝撃に耐えられるのか。

 わからない。だが、だれかの支えがきっと必要になる。

 そのだれかになれるのはランスしかいないのだ。

 天候にも恵まれ、小舟は順調に進んでいった。懸念だったランス自身の魔力についても、多少の疲労はあれど、まだ余力は残っている。

 この調子なら想定より早く魔界にたどり着けるかもしれない。そう思った矢先、一滴の雨粒がランスの頬を叩いた。

 次の瞬間、無数の雨粒が降り注いだ。

「っ……!」

 その雨を呼び水に、海は表情を一変させた。

 晴れ渡った青空は厚い雨雲に覆われ、陽光すら届かない。穏やかだった波は次第に高さを増し、荒々しさを見せている。湿気を帯びた風はもはや暴風の域だ。

 これが間の境界。

 人界と魔界を分かつ魔の要害。

 あるいは転移結晶を有したまま魔界に近付けば、間の境界も発生しないのではという淡い希望も抱いていたのだが、そう甘くはなかったらしい。おそらくは二対の転移結晶の所在地に関わらず、この海域を対象とした魔術効果なのだろう。

 猛烈な風雨は目を開けることすら許さず、高波を受けた小舟は魔術をもってしても直進できない。

 さらに間の境界に入ったところで方位磁針が狂い、進むべき方向すらわからなくなってしまった。

 転移結晶があるとはいえ、天候に干渉するほどの大魔術は行使できない。

 そのためランスは、全身に雨風を浴びながら、魔界に近付いているかも定かでないまま小舟を前進させ続けた。


 そうして一週間がたった。

 水と食糧は三日前、高波にさらわれた。絶えず降り注ぐ雨のおかげで、渇きを覚えたことは一瞬たりともなかったが。

 雨と風に体温が奪われ、毛布に包まれてなお震えが止まらない。

 視覚や聴覚も半ば失われ、あれほど騒がしかった雨音すら遠く聴こえた。

 頭に落ちた雨粒がそのまま目に入る。手を頭に当てて、気付く。そこにあるはずのものーー頭髪がないのだ。ただの一本たりとも。

 いつ抜け落ちたのか。この状況による心的負荷のせいか。それとも魔力の枯渇が近いためか。

 わからない。考える気力すら湧かなかった。

 転移結晶の魔力は些かも減っていない。しかしその触媒となるランスの魔力は、もう底が近い。

 この一週間ランスは、不眠不休で魔力を消費し続けていた。

 出発地である港から魔界までの距離を考えれば、とっくに到着してもおかしくはない。それがいまだ間の境界を彷徨っているということは、ひょっとして同じ海域をぐるぐる回っているのでは?

 その考えにはすぐに至ったが、気付かないふりをした。もしそれが真実であったら、ランスの心は耐えられない。

 どちらにせよランスの魔力はあと数日もせぬうちに尽きるだろう。

 魔力とは生命力そのものだ。

 それが尽きるとき、ランスは死ぬ。

 小舟が大きく揺れた。霞む目を凝らし、前方を見据える。

 かつてないほどに巨大な高波が、まるで獲物を捕らえる獣のように大口を開け、こちらに迫ってきていた。

 ――あぁ主よ! 我をお救いください!

 まだ見ぬ神への祈りを捧げながら、ランスの体は小舟ごと高波に呑み込まれた。


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