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「ねえルーク、ショーギというゲームを知っている?」
玉座の間へ参上するやいなや、魔王からそんな問い掛けが飛んできた。ルーク・エル・ベルコーニは直立したまま答える。
「異界勇者が人界に広めたという盤上遊戯だったかと」
「ルールは?」
「駒の動かし方と勝敗の決し方くらいなら」
「そう。あれ、おかしいと思わない?」
声色に険が混じった。なにがご不満なのかと、ルークは玉座を見上げる。
玉座につくは可憐な少女だ。名をイヴ・ド・バーンシュタインという。
小さな顔に浮かぶ真紅の瞳は宝石のように美しく、長い金髪は絹のごとき艶やかさを帯びている。ドレスから伸びる両足が宙をぷらぷらと揺れているのは、先代の玉座をそのまま使用しているためだ。
そんな魔王は小さな手でショーギの駒を弄びながら頬を膨らませていた。
「……ちっ」
「いま舌打ち」
「していません。して陛下、おかしいとは?」
強引に話を促すと、魔王は特に気にした様子もなく「この駒を見てちょうだい」と一つの駒を弾き飛ばしてきた。
無作法さを窘めるべきか一瞬迷った後、掴み取った駒に視線を落とせば『王』の文字。
「これがなにか」
「知ってる? この『王』という駒はね、自分は配下に囲まれた安全な場所にいて、攻めは配下に丸投げの最低君主なの」
「この駒を討ち取られることがゲームの敗北となる以上、致し方ないでしょう」
「……ふーん。あ、そう」
魔王は鼻白んだ様子で玉座にもたれ、
「じゃあそれはいいわ。どうでもいいことだし」
「どうでもいいことをわざわざ仰ったわけですね」
小言のつもりだったが魔王には届かず、彼女は続けて言った。
「そんなことよりも大事なことがあるのよ。聞いてくれるルーク?」
「先ほどから拝聴しているつもりでしたが、どうぞ」
「この『王』って駒はどうしてこんなに弱いのかしら?」
はて?
ルークの記憶する限り、『王』は初期状態から全方向に動くことのできる唯一の駒だ。
「お言葉ですが『王』は決して弱い駒ではないかと」
「でも最強じゃないでしょ!?」
「……まあそうですね」
飛車や角といった大駒と比べれば、たしかにその機動性は劣ると言えよう。しかしショーギとは異界勇者が広めたもの、つまりは人の世にて考案された遊戯だ。人の世における王とは、血統に基づく権力を持つだけの無力な人間に過ぎない。
そうした解釈を滔々と述べたところ、
「でもあたしは強いもん!」
知ったことではない文句を垂れてきた。
どうして魔王がショーギを知っているのか。だれかが教えた以外にないが、当然ルークではなく、モーゼフとも思えない以上、容疑者は一人だ。
「ルーク様」
玉座の間に現れたその容疑者――メイド長のソフィアを、ルークはにらみつけた。
「お前か」
「はい?」
ソフィアが無表情のまま、首を傾げる。
「いや、なんでもない。どうした」
「はい。ルーク様にお客人ですの」
お客人。その言葉の意味をルークは瞬時に理解し、頷いた。
「……いま参ろう。それでは陛下、私は執務のため外させていただきます」
「ちょっとルーク、逃げる気!?」
「お話の続きはそこの魔動甲冑にどうぞ」
「魔動甲冑は返事しないじゃない!」
両手に握った他の駒まで魔王は放り投げた。地面に散らばったそれらを、玉座の傍らに控えていた魔動甲冑がガシャガシャと音を立てながら拾っていく。魔王から供給される魔力をもとに決められた行動をこなしているに過ぎないのだが、その姿には健気さを覚えてしまう。
「ふんっ。もういいわ! この文句は異界勇者に叩きつけてやるもの」
「それが宜しいかと」
「もっとも、この魔王城に異界勇者がやって来る日なんて未来永劫来ないでしょうけど!」
最後に一礼し、ルークはソフィアと共に玉座の間を後にした。石畳の廊下を進みながら、問う。
「陛下にショーギの駒を与えたか」
「はい。なにか問題ありましたの?」
「ああ。俺が面倒臭かった」
「それは知りませんの」
そうか知らないか。一応、俺は魔界の宰相なんだけどな。
一抹の寂しさを覚えつつ、それを口にはしない。魔動甲冑を除けば四人の魔人しかいないこの城で、過度に上下関係を振りかざすのも野暮な話だ。
「それでお客人とは?」
「はい。性別は男。年齢は十代後半といったところですの」
「ふん。いつも通りだな」
二人は一室の前にたどり着いた。その一室――転移の間へ続く扉を、ルークは躊躇なく開け放つ。
室内に佇む一人の少年――異界勇者の双眸がルークに向けられた。
「あんたが魔王かい?」
その外見は明らかに異邦人であるにも関わらず、異界勇者の口から発せられた言語は、ルークたちの母語と同じであった。意思疎通に難はなく、ルークは頷く。
「まあ、そう思ってもらって構わない」
短く刈り込まれた金髪。鋭い眼光。鍛え抜かれたその肉体には一分の隙すらない。それらルークの外見は、まだ二十歳を超えたばかりの若輩でありながら、魔王と呼ぶに差し支えない程度の風格があった。
「名を聞こう」
「俺はナオト。異界勇者、とかいうやつらしい――」
「いや、それはいい」
したり顔で自分語りを始めかけた異界勇者をルークは遮った。
「い、いいってなんだよ。俺が召喚された理由はだな――」
「だからいいって。神官から託された使命云々ならもう知っているんだ。名前さえ知ることができればそれでいい」
「なっ……!」
異界勇者の顔が怒りに染まる。それもそうだろう。彼にとっては人生で一度きりの晴れ舞台なのだから、それをふいにされて面白いはずがない。
しかし彼にとっては一度きりでも、こちらにとっては三百七十四人目だ。面倒な手間は少しでも省きたい。
「さっさと来い。せめてもの情けだ、先手はくれてやる」
「ッ……おおお!」
咆哮を上げ、異界勇者が駆けた。その腰に提げた二振りの剣を抜きながら、一瞬にしてルークとの距離を詰める。
ルークの頭と胴に叩き込まれる異界勇者の斬撃。
鋭く、明確な殺意の込められたそれに、ルークは反応しない。
する必要がなかった。
パキンという鋭い音が響く。ルークの皮膚に触れた異界勇者の剣が折れた音だ。
「…………え?」
回転し、宙を舞う剣先に異界勇者の目が奪われる。
その顔面をルークは掴み、放り投げた。異界勇者の身体は猛烈な勢いで壁へ叩きつけられ、四肢を床に横たわらせる。
少しの間を置き、異界勇者は立ち上がった。全身の骨が折れ、朦朧としているはずの意識下においても、その双眸だけは確かにルークを捉えている。
「……強ぇなぁ。でもな、俺で終わりじゃねえ」
「ほう」
「俺がいた世界には……国だけでも一億人がいるんだ。ここで俺が死んでも、だれかがお前を倒すさ」
「素晴らしい」
これまで見てきた三百七十三人の先達たち同様、この異界勇者もまた死を恐れていない。強さに差はあれど、この精神性だけは全ての異界勇者に共通している。
敵ながら賞賛に値する。
が、
「――さらばだ」
ルークは異界勇者の眼前に一瞬にして迫り、その胸に手刀を突き立てた。筋肉を穿ち、骨すら絶った一撃は心臓までも貫き、異界勇者を死へと至らしめた。
血に塗れた右手を引き抜く。魔力による肉体変容により、その質感は鋼の硬さを帯び、刃のような鋭利さを有していた。
床に倒れ伏す異界勇者の骸。それはやがて光を帯び、まるで風に吹かれる砂塵のように散り去っていく。
あとに残された鉄臭い血の匂いだけが、ルークの鼻をついた。
「お疲れ様ですの」
部屋の片隅に待機していたソフィアが手拭を寄越してきた。異界勇者の血痕もまた霧散しているため汚れているわけではないが、右手を入念に拭う。
「聞いたか?」
「なにを」
「一億とはなんだ。なんの数字だ」
ソフィアはルークの目をじっと見つめ、「はぁ」と口を開いた。
「数字には桁というものがありますの。一、十、百と大きくなっていき、億は万と兆の間の単位ですの。ちなみに一万が一万個集まって一億に」
「だれが算術の講釈を垂れろと言った。俺が言ったのは、異界勇者の言葉についてだ」
一億という単位はもちろん知っている。だが一億人などという人口は、ルークの理解の範疇を超えていた。一万の大兵団のさらに一万倍など、もはや無限にすら思えてしまう。
異界勇者の強さには個体差があり、たとえば先ほどの少年は異界勇者としては下の上程度。一方で上の上――過去最強の異界勇者ですらルークの敵ではなかった。
敗れる恐れなど万に一つもない……が、億に一つならあるかもしれない。億に上る異界勇者候補の中には、ルークを凌駕する者も一人くらいはいるのでは?
「……考える必要があるな」
この小さな世界を守るために。