愛しかたが分からない
屋敷に戻れば両親が私の機嫌伺いにやってくる。
その度に私の中の何かが損なわれていく気がする。
息苦しくて図書室に足を踏み入れると、ジョナサンがいた。私を見るなり不快そうな顔をする。そのような顔をされれば私だって不快なのだが。
部屋を出ようとする弟に話しかける気になったのは、いい加減彼らの言動が鬱陶しかったからだ。
「……私のことと、おまえのことは別問題だ」
立ち止まり、振り返る弟。
怪訝な顔をしている。
「何が言いたい」
「おまえの価値は何ひとつ損なわれていないと言っている」
眉間の皺がいくらかやわらいだのが見て取れる。
「人と人の相性はおまえが思うより単純でもあり、複雑でもある、理屈ではない。私に利用価値を見出したから、彼らは私の機嫌を取ろうとしているだけだ」
「何を言って……」
言いかけてジョナサンは俯いた。
私は図書室の奧に向かった。
言いたいことは言った。
これ以上私につっかかってこないといい。
弟が抱えるものは、弟の中で解決するしかない。私の問題が私にしか解決できないように。
商会を辞めたのもあり、私には時間があった。
暇を持て余した私はこうして図書室に通い、本を読んでいる。
「ルパート、こんなところにいたのか」
笑顔を振りまきながら父親がやって来た。
また事業について話をしにきたのだろう。ご苦労なことだ。
「いくら私に話しても無駄です」
「いや、しかし、愛娘の婿となる人間が言えば心象はだいぶ違うだろう」
「そうですね、心象は悪くなるでしょうね」
予想もしなかったのか、父親の笑顔が固まる。
「まだ婚約して三ヶ月。ただの婚約です。簡単に解消できる。無能な私がいくら説明したところで閣下のお気持ちを動かすことはできません」
意趣返しだ。
散々無能となじってくれた。
その無能に今更なんの用だというのか。
「いや、おまえは無能なんかじゃ……侯爵令嬢を射止めたのだから……」
過去から少し前まで私に発していた己の言葉を必死に言い繕う様は無様で、なんというかがっかりする。こんな男に認めてもらいたかったのかと。
……この人はこんなに小さかっただろうか。
私の記憶の中ではもっと大きかったのに。
やり返したとして、私の何かが取り戻せるわけでも、心の空白が埋まるわけでもないことは、もう分かっている。やり返すだけ己の醜さを思い知らされるだけでいいことがないと思った。
でもレシュマが言った。
ルパートの心の空虚とやられたことをやり返すのはまた別の話だ。それだけのことをされたのだからやり返していいのだと肯定してくれた。それから、やりすぎはよくない、とも。
だから、言いたいことは言うことにした。これまでは我慢していた。言い返さずに無言を貫いた。やりすごすことが最善だと思っていたから。
でも、少しだけ返すことにしたのは、彼女の言葉と、掌返しをした親への嫌悪感が募ったからだ。
本を手に持ち、立ち上がる。
私にかける言葉を探しているようだが、過去の自分が足枷になっているようで、父は何も言えないでいる。
やり返したとしても、すっきりしない。
ずっと頭の中で、両親を後悔させたいと思っていた。想像の中ではすっきりしていたのに、実際にそうなってみても、全然嬉しくなかった。
でも、なんとなく分かっている。
これはこれで、必要なことだと。
私の中の小さな私が、どうしてお父様に酷いことを言うのだと叫ぶ。やっと僕を見てくれたのに。僕を愛してくれたのに、と。
幼い自分に言えるのは、もう、愛を受け取れる時期は終わってしまったのだということ。
私は空虚を抱えたまま生きていくしかないことを。
……レシュマに会いたい。
この気持ちは愛なのか、ただ己の不足したものを埋めるために彼女を求めているだけなんじゃないか。
泥ついた感情が己の中で渦巻いて、自己嫌悪に陥る。
部屋に戻り、引き出しから手紙を取り出す。
少し前にレシュマからもらった手紙だ。
『苦しくなったら、私のことだけ考えて。私に溺れればいいのよ』
手紙の内容が、頭の中で彼女の声で読み上げられる。
十七才の少女とは思えないことを平気で言う。
自分に溺れろだなんて。
大概だ。
それなのに、私の心は安らぐのだ。
レシュマは言う。
私なしには生きていけなくなればいい、と。
彼女の望みどおり私はもう、彼女なしでは生きていけない。
歪だ。
真っ当じゃない。
分かっている。
でも、これしか愛しかたが分からない。
分からないから、私の思いつくことを全て行動に移し、彼女の反応から好きなもの、嫌いなものを見極めていくしかない。
幸いにも彼女は正直に感想を言ってくれる。女性の細かな心の機微に疎い私にはありがたい。でも全てを口にしてくれるわけではないだろう。
大変だと思わないこともないが、彼女の喜ぶ顔が見られた時に、満ち足りた気持ちになるのだ。
次に商会に寄ったときにでも、友人に相談してみよう。多くの女性が好む商品を売り出す商会の跡取りだ、良い知恵をくれるかも知れない。
もっともあちらは商人なのだから、ただでは済まないだろうが。
部屋にいても図書室にいても邪魔が入るから、中庭の木陰に腰を下ろす。
アトリントン家が所有するタウンハウスは他のタウンハウスに比べればマシなほうだろう。共有とは言え中庭がある。ロイル家は集合住宅ではなく、一軒家だ。王都の中心地にあれだけの大きさの一軒家を持ち得ているのは他には公爵家ぐらいのものだ。
王都の外れまでいけばまた違うのだろうが、王都とひと口に言っても広い。移動だけで時間を取ってしまう。
そう考えると狭くとも便利なのだ、タウンハウスは。
近づいてくる足音に顔を上げれば、不機嫌そうな顔をした弟がいた。両親を避けた結果私と同じ結論に達したのだろう。
邪魔する気も、される気もない。
視線を落としてまた、本を読む。
タウンハウスの図書室は狭い。今年買った本も読み終えてしまった。近いうちに王立図書館にでも行って本を借りてこようと考えていると、ジョナサンが私の前に立ち、睨んでいた。
「……恨んでいないのか」
「なにを」
「僕のことを」
両親と一緒に蔑んでいたことを言ってるのだろうか。
「おまえが私より優秀なことをか?」
ぐっと口を引き結ぶ。
「……恨んでいないと言えば嘘になるが……それよりも羨ましかった」
私と違って才能のある弟が。
両親に愛される弟が、羨ましかった。
「でも今は分からない」
「……分からない?」
「なぜあれほどまでに父を畏怖していたのかが分からない」
開いていた本を閉じ、ジョナサンを見る。
怪訝な顔のまま、私を見ている。私が何を考えているのかを捉えようとしているのだろう。
「おまえの成人を待って、私はこの屋敷を出て市井に下りるつもりでいた」
「なぜ?!」
「無能だからだ」
弟は手に持っていた本を強く掴んだ。
「実はもう、働き口も見つけていた」
「……そんな、出て行く必要なんて……」
たぶん、ジョナサンも両親も、その時々の苛立ちを私にぶつけていただけで、自分の手で不幸にしてやろうなどとは思っていなかったのだろう。
だが、繰り返される暴言は私の自尊心を砕くには充分だった。もううんざりだった。
「弟のほうが秀でていて、家督を弟が継ぐのなら、私はただの厄介者だろう」
当たり前のことなのに、そこまで考えていなかったのだ。
……それは分かっていた。
跡取りならばレシュマとのお茶会にジョナサンが行くはずがなかったのだから。
そう思わなければ、やってられなかったのだ。
「どちらにしても私がこの家を出るのは変わらない。行く先がロイル家になっただけだ」
まるで腰が砕けたとでもいうように、ジョナサンはその場に座り込んだ。
「ずっと、あんたが羨ましかった……」
ゆっくりと心情を吐露するジョナサンの表情は、苦しそうですらあった。
「どれだけ褒められても、この家を継ぐのは兄さんだと思っていた。僕のほうが優秀なのに、アトリントン家が持つ爵位は一つしかない。僕は爵位もない。法服貴族として生きていくのが関の山だろうと……」
だから暴言を吐いた、そう続くのだろう、本来なら。
「私の居場所はここではない。レシュマのそばだ」
「……どこがいいんだ、あの女の……」
「分からなくていい」
むっとした顔で睨んでくる。
「それからあの女じゃない、ロイル嬢だ」
どこがいいとか悪いとかではない。
レシュマのそばにいたい、それだけだ。
「おまえの望む姿を、探すといい」
「……僕の望む姿……」