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名前などない

本当などない

作者: ようこ



 私には恋人がいる。

 仕事を終えてアパートの鍵を開けようとすると、がちゃりと回るドアノブに、既に先客がいることを知った。

 私が合い鍵を渡しているのは母と彼の二人だけ。

 案の定、キッチンには灯りがついていて、男性にしては長い髪の毛を一つにまとめた彼がフライパンを振るっていた。駆け出しではあるものの、美容院でアシスタントとして働いている彼は、一緒にいる私が気後れするほどいつも洒落た格好をしている。

「しいちゃん?おかえり」

 顔をくしゃりとさせる彼の笑い方が私はとても好きだ。

「ただいま」

「……あれ、しいちゃん?」

 肩から鞄を下して、ジャケットを脱ぐ。

「…髪切ったんだ?ずっと伸ばしてたのに」

「…うん」

 彼が短く切りそろえられた私の髪形を見て、目を(みは)る。

 長いこと染めもせずに、伸ばしていた黒髪を私はつい先日切りに行った。

 彼はその黒髪のロングヘアが好きだった。

 彼の幼馴染も同じ髪形だったから。

 私の恋人には、私じゃない、昔からずっとずっと好きな人がいた。そしてまだ彼はそのこのことが好きだ。



* * *




 彼が私に、誰かを重ねているだろうことは付き合いだして2、3か月もすれば気づいた。

 セックスする時、彼はまるで髪の毛まで愛撫するように優しく乱れた髪を持ち上げて、首元に鼻先を埋めていた。

 何度か、彼と私が二人でいる時に、幼馴染の彼女から電話がかかってきたことがあった。もちろん、彼は幼馴染の子から連絡があったとも言わないし、浮気でもなんでもないのだから、私から何かいう事もない。

 しかし、たった数度しか聞いたことが無いが「山崎まさよし」が彼の携帯から流れたら、私は彼の部屋から出て行かなければならない。酔っぱらって終電逃した友達を泊めてやんないといけないから、とか急に同僚に呼ばれていかないといけなくなったから、とかそういう理由で。

 One more time, one more chance.

 えらく意味深な曲を選んだな、と他人事ながら思ったものだ。

 一度だけすれ違う彼女を見たことがある。寒い冬の日だった。手に提げたスーパーの袋から6本入りの缶チューハイが透けていた。

 いつになく冷え込んでいて、マフラーに埋もれた口元から白い吐息が漏れていた。冷気から身を守るように俯き気味で足早に歩いてくる。おかげでじっと凝視してくる知らない女の存在には気づかれなかったらしい。

 すれ違った後、思わず振り向いて彼女の後ろ姿を見た。

 長い黒髪がマフラーに巻き込まれているその後ろ姿は私のそれとそっくりだった。

 その日は雪が降るだろうとニュースで言っていた。私はその寒い中今から電車に揺られて自宅のアパートへ向かわなければならない。つい数時間前まで彼のベッドで何も着ず、温かな布団にくるまれていたのに。

 きっと彼女はこれから暖かい部屋で彼と冷たいチューハイを飲むんだろうな、と思った。

 いいな。

 うらやましい。

 誰か私のこと好きになってくれたらいいのに。

 その誰かが彼だったらいいのに。

 痛いほど冷えた指先に手袋を、彼の部屋に忘れてしまったことに気づいた。今から取りに戻ることなんてできない。

 コートのポケットに冷えた両手を突っ込んで、私も家路を急いだ。鼻の奥が熱く、ツンとするのは冬の冷たい空気のせいに違いない、そう思うことにした。



* * *




「急にどうしたの、しいちゃん」

 彼はほかほかと湯気をたてる炒飯をテーブルの上に置きながら、短くボブになった私の頭を撫でた。

 彼が思いのほか、私の髪形を気にしてくれたのは嬉しい誤算だった。

 留学する幼馴染を送りだしてくる、と彼が空港に行ったのは数か月前のことだ。

 それから今日までの間に彼と会ったのは数回しかなかったが、いつにもまして彼は上の空だった。好きな人が自分の近くからいなくなったのだから、当然のことだろう。

 うらやましい、と思う。

 そんなに彼に大事にされている彼女がうらやましい。

 それからしばらくして『最近全然会えてなかったね、ごめん』というメールが来ていたのが、今日というわけだ。

「遼平君」

「ん?」

「遼平君のこと、好きだよ。私」

 彼はぱちぱちと目を瞬かせる。

 彼が空港に行く、という日、私はこんなことしては駄目だ、と分かっていながらも、自分も空港へ向かった。国際線のチェックインロビーの前に彼とその他数人が一人を取り囲んでいる姿が見えた。

 冬の日に見た彼女はばさりと短く髪を切って、明るいブラウンの毛先を揺らしていた。

 くしゃくしゃっと笑って手を振る彼女を見送る彼の後ろ姿。

私はそのまま足早に電車に乗った。

 私はもう彼女とそっくりの髪形じゃなかった。

 私だったらそんな風に彼を置いて別の国に行ったりなんかしない。

 ずっとずっと一緒にいてあげられる。


 ああ。でも、彼は私なんか好きじゃないんだ。


 これから、彼は私に別れ話をするんだろうな、と思った。

 本当のことなどなんにもなかった恋人関係を解消するために。

 溢れてくるものに急に視界が悪くなって、目の前に置かれた炒飯の湯気までもかすんでいた。



The End

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