前編
本作は『暁の部屋(http://ncode.syosetu.com/n7135fw/)』の続編です。先にそちらを読んでからの方が分かりやすいと思いますが、別に読まなくてもいいと思います。映画の二作目みたいな感じと思って頂ければ。全話の文字総数は81195字です。
!!!警告!!!
同性愛的表現を含みます。お好みでない方はご注意ください。
画家は厳しい顔をしている。ある日突然、見知らぬ男が戸口に現れ、『あなたのせいで自分の兄は死んだのだ』と言えば、誰でも顔をこわばらせるのは間違いないだろう。しかし彼の顔に染みついた険しさは、一朝一夕のものではないようだ。
若い画家は目を細め、来訪者を厳しく見つめた。それに気圧され、男は言葉を失ってしまう。自分が怯んだことに気がついてしまったのは失敗だった。『強い口調で相手に問いかけ、逡巡の余地を与えず、畳みかける』。男はボーイングのなかで、幾度もこの対面を頭に思い描いていた。そのイメージ・トレーニングは、今ここにある実際の対面によって、無効化されようとしている。そもそも自分はどうして怯んでいるのか、男にはその理由がわからなかった。しかしそんなことはどうでもいいことだ。自分には使命が、やるべきことがある。
男はカバンからクリアファイルを取り出し、無言で画家に差し出した。それには新聞の切り抜きが一枚挟んである。大きな記事ではない。地方紙の三段目といったサイズだが、大切にファイリングされているところをみると、彼にとっては重要な記事なのだろう。透明なファイル越しに、画家は記事に目を走らせる。
《……男性が倒れているのを隣人が発見し、911に通報。男性は全身に火傷を負い、地元警察はこれを自殺と断定───》
「ぼくの兄です」男がそう補足する。
画家はクリアファイルに視線を据えたまま、そっと口を開いた。
「……“自殺”と書いてある」その声は低く、かすれている。
「ええ、そうです。兄は自殺した。ガソリンをかぶって火を点けた。“あなたが殺した”とは言っていません。厳密には“あなたの絵が兄を殺した”のです」
「帰ってくれ」画家はファイルを突き返す。扉を閉めようとしたところで、男が素早くドアに身体を滑り込ませた。
「遺族の面会を断るのか?」
「おれには関係ない」
画家は男の身体を無理矢理に押し出し、玄関の鍵をかけた。鉄の扉をドンドンと叩く音。怒鳴り声。それを無視し、部屋へと戻る。ここは彼のアトリエ兼、居住である。壁を取り壊した空間は、広々としたワンベッドルームだ。キッチンはあるものの本来の目的で使われることはなく、バスルームには絵の具のしみがこびりついている。ウォークイン・クローゼットは画材置場で、室内には家具らしい家具は置かれていない。かろうじて生活感を感じさせるのはベッドだが、それがなければここに人が住んでいるようには見えないだろう。
板張りの床を裸足で歩き、スペースを横切る画家。部屋の奥まで歩を進めると、激しくドアを叩く音も届かなくなる。
部屋の奥、いちばん広い壁の前で足をとめる。そこには数メートルにもおよぶ巨大なキャンバスが、壁にネジ止めで固定されていた。ピンと張られた麻布は白で地塗りされ、そこにはまだ何の色も落とされていない。色が挿されているのはキャンバスではなくむしろその周辺だ。壁から床、天井に至るまで、さまざまな色の絵の具が付着し、無機的な部屋に、ある種の華やかさを添えている。
二度と扉が開かないと悟ったか、ドアの外の呼びかけはいつのまにか消えていた。画家はそのことにも気づかずに、キャンバスを凝視している。なにも描かれてはいない。画家はそれを見つめ続ける。
さきほどの男の言い分は、まったく筋が通っていなかった。差し出された切り抜きの記事、そこに断定された死因は焼身自殺。“自殺”であるにも関わらず、男は画家を糾弾した。『あなたの絵が兄を殺した』。それはあきらかに気違いじみた言いがかりだったが、叫ぶ若者の容貌に、狂気の様相は見られなかった。水色のシャツにアイボリーのジャケット、こざっぱりとした印象の二十代の青年。もしバスで隣り合わせたとしても、席を立ちたくなるようなところは少しもない。むしろ“狂気”の名を冠しているのは、キャンバスを見つめるこの男の方だ。
彼の名はクリス。暗い色の髪と、グレーの瞳。疲労によりやつれてはいるものの、その端正な顔立ちに狂気の相は現れていない。そうでありながらも彼を語るときに欠かせないのは“狂気”という単語である。
画家の周囲にその言葉が踊るようになったのは、二年前、このアトリエで起きた、ある事件に端を発している。今では修復され、その痕を残してはいないが、この部屋はかつて火災に見舞われたことがある。消防隊員の迅速な働きにより、大きな被害には至らなかったが、火事のニュースは一時、世間を騒がせる事件となった。
出火の原因を発見した消防隊員らは、現場の異様さから警察へと連絡。原因を調べたニューヨーク市警察は、これを事故から事件へと転じた。出火元と判断されたモノ。それは焼け焦げて原形をとどめない、生き物の死骸である。現場にいたこの屋の主人が、生きた動物(それは大型犬であるとの結論に落ちついている)に火をつけて死亡させたとし、彼は動物虐待と放火の罪に問われたが、後に心身喪失状態と判断され、その身柄は刑務所ではなく、病院へと収容された。それがこの画家、クリスである。
二年あまりを精神病院で過ごした彼は、退院後、再び画壇にカムバックを果たした。精神鑑定を受け、檻から解き放たれた男に、どういった種類の“健康”が戻ったのかは定かではない。というのも、病院から出た後のクリスの画風には、あきらかに“狂気”が見てとれたのである。クリスが芸術を生業としていたのは幸いなことであった。彼の筆に気狂いの徴候が見られたところで、それはあまり大きな問題と見なされない。この事件について発言を求められたある画商は『芸術家にとって狂気はなじみ深い友人のようなもの』と述べている。不謹慎なコメントではあるが、退院後のクリスの絵を見ればその意見に一理あることを認めないわけにはいかないだろう。
彼の作品はその話題性も相まって、以前に増して人々の目に留まるようになっていった。再入院を薦める者は一人としておらず、画商はその商品価値に怪気炎を上げ、画家を擁護する方針を打ち立てる。芸術家のスキャンダラスな側面は、19世紀以前から、商人が密かに好むところである。
“狂気”に加え、“自殺”というのも、最近のクリスを語る上でのキーワードだ。いや、自殺への欲望をたぎらせているのはこの画家ではない。自らを死に近づけたがるのは、彼の絵に触れたうちのほんの数人───。これについてはまた後に現れる、さきほどの若い男が説明してくれるだろう。
マンハッタンに陽が落ち、アトリエはゆっくりと薄青い闇に包まれてゆく。白いキャンバスは、窓からのわずかな光を増幅し、反射させ、ほのかに光を発している。空間を切り取りでもしたかのように見えるそれは、異次元への入り口よろしく、壁にぽっかりと口を開けている。画家はしばらくキャンバスを見つめていたが、やがて何かを諦めたかのように目を伏せ、開け放たれた窓へと移動した。窓枠に手をかけ、外界に視線をやるクリス。待っていたようなタイミングで風が吹き、オーガンジーのカーテンが無音でたなびく。遠く霞むイーストリバー。よどんだ雲に突き立てられた、クライスラービルの先端。冷たい風は、彼のひきしまった筋肉の上にある、うぶ毛を逆立て、ゆるやかな巻き毛を凍りつかせる。
クリスは口のなかで、なにかをつぶやいた。それは無意識のことで、なにを言ったのかと問われれば、彼自身、説明のできない言葉である。つぶやきは空気に溶け、日暮れた街は信者の祈りを聞く司祭の如く、それを受け入れる。受容はこの街が画家に与える愛情に等しい。画家は己のすべてを街に捧げ、街はその呼吸に応える。毎年、幾人もの凍死者を生み出すマンハッタン。風は冷たくクリスをなぶり、彼の身体からゆっくりと体温を奪っていく。奪われるものは生命の暖かさ。与えられるものは死の冷たさ。息を吸い、また吐き出し、その循環を呼吸に乗せる。体温は刻々と低下していき、クリスの瞳は輝きを増して行く。画家は静かに窓を閉めた。もちろんまだ凍え死ぬわけにはいかない。
「警察を呼ばれたいのか」
ドアを開けるなり、クリスはそう言った。アトリエの玄関先に現れたのは昨日と同じ男。昨日と同じキャメル色のジャケット、昨日と同じウィングチップの靴。ただひとつ、違っているのはその態度だ。男は唇を引き結び、それから硬い口調で「昨日は失礼しました」と、非礼を詫びた。
「頭に血がのぼっていて……あんな言い方をしていまって。ほんとうに、失礼を……」
茶色の髪と茶色の目。その姿をキャンバスに写し取れば、『凡庸』という題が相応しい。昨日まで持っていた感情を取り下げた彼は、ゆいいつの活き活きさを失い、平凡かつ安全な若者に身を落としていた。
「わざわざ西海岸から何しに来た? かたき討ちか?」険しい表情で言うクリス。
西海岸─── その言葉に青年はわずかに困惑した。たしかに彼はカリフォルニアからやってきたが、今のところまだ自己紹介はしていないはずだ。
「かたき討ちじゃありません。あなたと話がしたいんです」
昨日クリスに見せた新聞の切り抜き。その記事には“カリフォルニア州、サクラメント”と記してあった。画家はそれを憶えていて西海岸と言ったのだろうと、青年は納得した。
「ぼくの名前はクリーヴ……クリーヴラント・シモンズと言います。亡くなったのは兄のレイモンド・シモンズです。ぼくの兄は……」
「まて」クリスは手を挙げて、クリーヴを制した。「いいか、おれはきみが何者であろうとどうでもいい。きみの兄が死んだことについても同じだ。おれの絵に何を関連づけようとも、おれ自身はそのことに興味がないんだ。申し訳ないが」
「あなたに害を加えようと言うのではありません。ただあなたの絵を見せてもらえたらと……」
「断る」
「お願いです」
「断る」
「入れてもらえるまで帰りません」
クリーヴの鼻先でドアは閉められた。昨日の彼はここでしばらくドア叩き、ひとしきり演説をやってからホテルに戻ったのだが、今日もまた同じことを繰り返す気にはならなかった。入れてもらえるまで帰らないと意気を吐いたものの、それについて具体的な勝算があるわけではない。ドアを見つめ、その内側に付けられているであろう数個の鍵───ここはマンハッタンだ。鍵がひとつなわけはない───を思い描き、クリーヴは深々とため息をついた。頑丈な鉄の扉に不似合いな、アールデコ調のドアノブ。どうせ開くわけがない。そう思いつつもノブに手をかけたのは、クリーヴにとってほとんど無意識のことだ。彼自身、なぜそうしたのかはよくわかっていなかった。しかし、その行為には確かに意味があった。───ドアはあいた。ノブを回しただけで、それは簡単に開いたのだ。昨日ドアノブを回したとき、それは間違いなく閉まっていた。いくら回しても、強く叩いても開かなかった扉が、今日はこんなにもあっさりクリーヴに身柄を明け渡したのだ。
これはどういうことだろう? 部屋に入ってもいいのだろうか? 彼はおそるおそる中を覗き、室内に足を踏み入れる。来訪者に気がついたクリスは、彼を見てぎょっとした表情をして訊いた。
「どうやって入ってきた?」
“入って来るな”でも、“出て行け”でもない。クリスは“ここに入ってきた方法”をクリーヴに質問した。
「あの……ドアが開いていたので」
「開いていた?」
「ええ」
「鍵は?」
「いえ、あの、開いていたんです」
クリスは訝るような眼差しでクリーヴを見た。ドアは開いていた。もちろん本当だ。そうでなければ彼は入れなかった。クリーヴはドアを振り返る。鍵は外れている。最初から鍵はかかっていなかった。そうでなければ説明がつかない。クリスが鍵をかけ忘れたのだ───五つとも。
質問に答え終わったクリーヴは、呆として立ちつくし、クリスはわずかの間、青年を見つめていた。その瞳から訝りが消えたのは、ほんの短い瞬間のことで、そこに何かまったく別の輝きがとって変わったのも、さらに一瞬のことだった。
そのわずかな変化にクリーヴが気付く前に、クリスは台所へ続く廊下へと姿を消す。クリーヴは“出て行け”と怒鳴られることを予測していたため、いくらか拍子抜けし、安堵もしたが、『いいや、まだ安心するわけにはいかないぞ』と自分に言い聞かせた。ここにいる画家は狂気で名高いのだ。現代のヴァン・ゴッホがキッチンからナイフを取り出し、「出て行かないと、こいつで痛いめにあわせる」と怒鳴り始めないとも限らない。
そんな想像をしてみるも、戻ったクリスが手にしていたのはナイフではなく、筆洗いのバケツだけだった。ぺたぺたと裸足の足音をさせ、ゲストを無視して部屋を横切るクリス。壁に取り付けたキャンバスの前に立ち、バケツをスチール製の台車にのせた。それは旅客機内でフライトアテンダントが押しているような、キャスター付きのトロリーだ。ぎっしり画材が乗ったトロリーは、長年使い込まれたもののようで、またそこにある道具類も同様に古びている。トマトソースの空き缶に挿した何本もの絵筆。つぶれてひしゃげた絵の具のチューブ。透明な液体の入ったビンが数種類。色が染みついたぼろ布……。使う道具は普通の絵描きと変わらないようだとクリーヴは思った。クリスが魔術的なアイテムを収集しているとの説も彼は耳にしていたが、少なくともここにあるのは汚れた画材だけのようだ。
画家がまず手にしたのは木製のパレットだ。それに白い紙を重ね、クリップで挟む。掌よりも大きな絵の具のチューブを掴み、それを手の中でくるりと回転させ、口を下にして、たっぷりと絞り出す。一連の動作は小粋なバーテンダーのようにリズミカルで、とても慣れた動きだった。
支度をするクリスの姿を、クリーヴは改めてじっと見つめた。ハッキリした目鼻立ちと、スポーティな肢体。もつれた髪と無精髭のせいで若干うさん臭げに見えるものの、目の前の男はファッション広告に出てくるようなルックスをしている。
『気狂いの所行と、それに伴う画風。その目線は狂気をはらみ、あらぬ方向に向けられて───』ヴァン・ゴッホ以来、“狂気の画家”という称号を与えられたアーティスト。それら噂は話題造りの一環だったのだろうか? 世間の評判はあてにならない。クリーヴはそう思った。しかし彼の作品が“死の衝動”を呼び覚ますことだけは本当だ。兄は死んだ。クリスの絵を見て、兄は自殺したのだ。
ここへ来た当初の目的にクリーヴが思いを馳せていると、クリスは唐突にシャツを脱いだ。続けてジーンズと下着を床に落とし、あっという間に全裸になる。それはクリーヴが見ている目の前でのことだ。
「……は、裸で描くのか?」
疑問を思わず声にしたが、それに答える者は誰もいない。ただ画家のしなやかな背中が『いやなら出ていけ』と言っていた。
なんだってんだ? 絵筆のかわりに一物でも使おうっていうのか? そうクリーヴが思ったのは、クリスのペニスが勃起していたからだ。
真っ白な画布は、筆が挿されることを処女のように待ち受けている。画家はキャンバスに向かい、そして───はじめた。
岩に叩きつけられる荒波のようにもなれば、草むらに逃げ込む蛇のようにうねりもする。法則の見えない動き。あたかも絵の具それ自体が生き物であるかのように、自在にキャンバスを行き来する。油彩の手法は淡い色から順に塗り重ねていくのが基本だが、ここではそうした順は見られない。クリスの筆遣いには何の秩序もルールもないようだ。妙なまだら模様を描いたかと思うと、次の瞬間、池に浮かんだ無数の蓮の葉が現れる。橋に絡み付いているのはツタだろうか。それともひしゃげた人間だろうか。そもそもこれが橋であるという確信はもてない。まるで手品でも見るかのように、クリーヴは夢中になってクリスの筆を目で追った。
バケツに筆を突っ込み、ぐるぐると回して、筆先を勢いよくフチに打ちつける。テレピン油が四方に飛び散り、床と画家自身を汚したが、クリーヴのところまでは届かなかった。全身を動かしてダイナミックに描く様は、ストリートのパフォーミングアートさながらだが、道ばたで全裸になってこれをやる者はいないだろう。
画家の身体から汗が流れ、ぼたぼたと音を立てて床に落ちた。季節は冬だ。室内の気温は決して高くない。水蒸気となって立ち上る湯気は、クリスのオーラを特殊効果したかのようで、クリーヴは何度も目をしばたいた。
服を脱いでからずっと、画家のペニスは固く起立している。クリーヴにとって、あまり長く見つめていたい種類の情景ではなかったが、それでも彼は画家から目を逸らすことはしなかった。ここで逃げるのは“負け”のような気がしたのだ。(何に対して? それはわからない)。
創作を開始してから、もう五時間は経過しただろうか。これだけの集中力と、勃起を維持できるのは大したものだと、クリーヴは心から感心した。自分ではとても──集中力も、勃起も──続けられそうにもない。
黙々と作業する画家。なるほど、これは評判通りの男だ、とクリーヴは思った。“ヴァン・ゴッホ以来の狂気の画家”がここに出現した。ルックスの善し悪しは関係ない。目の前にいるのは間違いなく、自分が求める男に違いない。彼はそう納得するとともに、目を眇め、ものの本質を見極めようとした。さあクリス、おまえは何をやってるんだ? 絵の具に何かを練り込めでもしているのか? だとしたらそれはいったい何なんだ? 悪意? 不安? 自殺の衝動? それを見つけるために自分はここへ来たんだ。ぼくに本当のところを教えてくれ。おまえの行為のすべてを───。クリーヴは無意識のうち、強くこぶしを握りしめていた。
つとクリスは筆をとめて振り返り、若者にぴたりと視点をあわせた。それから小鼻を指先でちょいちょいと叩く仕草。つられ、クリーヴが自分の鼻をさわると、ぬるりとした感触が指にさわった。手には真っ赤な液体がついている。いつのまにか鼻の血管が切れていたのだ。見ると、シャツや床にまで血がたれているではないか。クリスはトロリーから古タオルを取り、それをひょいとクリーヴに投げてよこすと、再び作品に向き直った。タオルは乾いていたが、顔を拭くのがためらわれるほど絵の具で汚れ、ごわごわになっている。顔ではなく床を拭けということなのかもしれない。クリーヴはそれで床を拭き、ポケットからハンカチを出して鼻を拭いた。
『きみの裸に欲情したわけじゃない。この部屋の熱気にあてられたせいだ』。そう言い訳したい衝動にかられたが、当のクリスは彼の弁解を必要とはしていなかった。それどころかクリーヴの存在すらも、部屋に紛れ込んだ一匹の羽虫ていどにしか捉えていないようですらある。
そこからさらに三時間ほど経過したところで、ようやく画家は筆を置いた。陽が落ちた室内は、照明を必要とするほど薄暗く、色の見分けはつきにくくなっていた。日没と共に作業が終わるのは中世の芸術家。現代には電灯があるのだが、この部屋にはどうやら照明器具の類いはないらしい。
ふらつく足取りで部屋の隅へと向かうクリス。ベッドまでたどり着くと、絵の具の飛沫で汚れた身体を拭くこともせず、撃たれた男のようにうつぶせに倒れると、後は少しも動かなかった。
クリーヴはそっと近づき、覗き込む。画家はすっかり眠り込んでいる。
この男、誰か自分の知り合いの誰に似ているだろうか? そう思いを巡らせたが、すぐに考えることを放棄した。クリスはクリーヴがこれまでに出会った、どの人間とも似ていない。地球上で初めて出会った男。裸で絵を描き、裸で眠る奇妙な習性の持ち主。したたるほどに流れた汗はすでに乾き、画家の背中にうっすら白い塩を浮かび上がらせている。それを見、クリーヴは“塩の柱”の説話を思い出した。彼は信心深いたちではなかったが、聖書の内容はいくつか頭に入っている。
悪徳はびこるソドムとゴモラの街が滅びようとしたとき、アブラハムの親類は神の手引きにより、街から逃げる運びとなった。道中いかなる事態になろうとも、決して後ろを振り返ってはならないと神は忠告をしたが、ロトの妻だけは、何の未練か街を振り返ってしまう。その瞬間、彼女の身体は塩の柱となって死に至る。愚かなロトの妻。彼女はあの街で一体どんな罪を重ねてきたのだろう。聖書が得意とする教訓話は、いつも残酷で、わかりやすい恐怖を教えてくれる。
この男は塩になりかけているのだとクリーヴは思った。それは絵に呪いを込めた罪。欲情をたぎらせ、裸で絵を描いた罪。他にはどんな唾棄すべき行為が行われているのか。罪のないロトを惑わせるのは彼のような人間に違いない。兄はこの男の絵に殺された。これ以上の犠牲者を出すわけにはいかない。それには画家の真意を突き止める必要があるのだ。
決意は高潔なクリスチャンのようだが、クリーヴは信心深いたちではない。彼は自分が聖書を正しく認識していないことに、この時点で気付いてはいなかった。“塩の柱”の教訓はまったく別なところにある。それは『長生きしたければ好奇心は慎むべし』と教えているのである。
鼻血を出したこの日以来、クリーヴはこのアトリエに毎日“出勤”した。締め出されたのは初日だけ。クリスはもはやクリーヴのことを追い出そうとはしなかった。だからと言って画家がこの来客を歓迎していたというわけではない。部屋に迎え入れはするが、それ以外に交流らしいことはせず、ひたすら無心に絵を描き続ける。製作の際には服を脱ぎ、最後には決まって眠りについた。それが若者が見た画家のパターンのすべてだ。
暖かな会話はなく、お茶をふるまわれることもない。テーブルに放置された砂糖壺のような扱いに甘んじるのみだが、しかしクリーヴはこれに不服を覚えることなかった。“ようこそ”と愛想良くしてもらえるなどとは、彼ははなから期待していなかった。招かれて来たのではないことは百も承知だ。
このサクラメント出身の若者は、マンハッタンへ来ることを運命のように捉えていた。会社と自宅を往復するだけの単調な毎日の中、五つ年上の兄がショッキングな方法で自殺した。その理由に一枚の絵画が関係していると知ったときの驚き。悲観にくれるばかりの両親を慰めながら、彼は己のすべきことが何かを知った。悪意の出所をつきとめる。それがクリーヴに課せられた使命なのだ。
日参も五日目ともなったこの日、クリーヴはドアの前で立ち往生をしていた。昨日まではノックをして名前を名乗ると、ドアが開いたのだが、今は何の反応もない。やはり気が変わって、アトリエには誰も入れないと決めたのだろうか。
こぶしで扉を叩き、画家の名前を呼ぶ。彼らは友人同士ではなかったが、この場合呼ぶにふさわしいのはやはりファーストネームに他ならない。
「クリス?」
応答はない。昨日の画家にはおかしな様子はみられなかった(裸で絵を描き、眠るという行為は別として)。何か異変があったとすればその後だ。いつものようにベッドに倒れてから、彼に何かあったのだろうか?
鉄のドアに耳をつけてみたが、音を聞き取ることはできない。
「あの、もしいるなら、何か言ってください」
もしここで画家に死なれでもしたら、一連の事件は迷宮入りだ。
「入れてくれなくてもいいんです。返事だけしてくれれば。クリス、あなたは無事なんですか? 大丈夫なんですか?」
「───大丈夫だ」
応じた声は部屋の中からではなかった。クリーヴが振り向くと、そこにはクリスが立っていた。シャツとジーンズ、その上に着ているのは軍隊風の防寒ジャケット。パーカの白いボアには絵の具が付着している。元は高価なブランド物かもしれないが、今となっては救世軍のリサイクルでも受け取りを拒否されそうなほど、それは汚れていた。
クリーヴは画家が手している白いビニール袋に目をとめた。そこにはワインとミネラルウォーターのボトルが数本入っている。クリスは買い物に出ていただけだったのだ。
「あ…ええと……大声を出して済みません」もごもごと謝罪するクリーヴ。あんなに狼狽した自分を恥ずかしく思った。「てっきり、あなたが……中で何かあったのかと思って」
クリスは鍵を差し込み、ドアを開けた。まごつく客に気を配ることもなく、絵の具の匂いのするアトリエに入っていく。クリーヴもそれに続いた。“入っていいか”とは、もはや訊ねることはない。
作業中に集中を切らすことはないクリスだが、描き始める前には少し食べ物を口にしたり、タバコを吸うなどの時間があった。朝の早い時間にシャワーを浴びる。クリーヴはクリスの裸にすっかり慣れ、彼が戸を開けたままシャワーを浴びたり、用を足したりするのを目にしても、何も思うことはなくなっていた。
この日、クリスはワインのボトルを半分空け、それからタバコの箱に指を突っ込んだ。しかしそれは空だったようで、中から何も取り出すことはなく、ぐしゃっと箱を握りつぶす。そこでクリーヴは歩みより、さっとウィンストンを差し出した。偶然持っていたわけではない。画家の好む銘柄を覚えた彼は、あらかじめこのタバコを買っておいたのである。
目を細め、訝しげに青年を見るクリスに、クリーヴは「どうぞ」と短く勧める。
画家はゆっくりと手を伸ばし、それを受け取った。まるで未開の部族が白人から贈り物を受け取るようなぎこちなさだ。
出合って以来、初めての人間らしいやり取り。そこでクリーヴはちょっとしたイタズラを言ってやろうという気になった。タバコのパッケージを開けるクリスの背に向かって「毒が入ってるかも」と密かにつぶやく。
「被害者の家族からの贈り物だ。警戒したほうがいい」
クリーヴの言葉に、クリスの動きがぴたりと止まる。次の台詞を待つ役者のように、じっとしたまま動こうとはしない。画家の反応に満足したクリーヴは、くすりと笑い、「冗談です」と告白する。「どうぞ、吸ってください。毒なんか入ってませんから」
クリスは動きを取り戻し、一本くわえてマッチで火をつけた。深く煙を吸い込んで吐き出した後、「聞いていいか」と、切り出す。
「きみはここで何をしている?」
この質問にクリーヴは思わず吹き出しそうになった。進んで招き入れたわけではない侵入者──それも“家族を殺された”と訴える者──に対する問いかけとしては、なかなかふるっているではないか。
クリーヴは答える。「あなたが絵を描くところを見ているんです」
「そのようだな」とクリス。「どうして?」ふたたび煙を吐き出す。
さて、ここで本当のことを言ってもいいものか。クリーヴは上唇を舐めて湿らせ、思考を素早く巡らせた。答え方によっては、この部屋から追い出されるかもしれない。
「兄が死んだからです」一度は伝えた真実を口にする。「兄は自殺したのです。あなたの絵を見て。だからぼくは……知りたかった」
「何を?」
「あなたがどうやって“人を殺す絵”を描いているのかを」
クリーヴがそう告げると、部屋に沈黙が訪れた。クリスは黙ってタバコを吸い、フィルター近くまでくると、それを空になった水のボトルに入れる。タバコはじゅっという音を立てて消えた。
「今描いている絵は何ですか?」と、クリーヴ。
「風景だ。頭の中にある」
「題は?」
「タイトルは画商がつける。おれの絵に題はない」
そこでクリーヴは、“魔力”の可能性のひとつが消えたことを知った。ネット上にはクリスの絵のタイトルをアナグラムして、そこから事件を推理するといったサイトもあったが、どうやらその取り組みは徒労のようだ。とすると、やはりキーとなるのは純粋にこの絵画だけらしい。
「おれの絵はただの絵だよ」クリスはそう言って、床に座り込んだ。「誰も殺したりはしない」
「兄は死にました。それにぼくの兄だけじゃない。他にも三人───現在までのところ、立て続けに四人が死んだ。あなたはそれを知っているはずです」
決然と言い放つクリーヴ。クリスの顔をまっすぐに見つめている。しかし画家の表情に変化は見られない。無論クリスは事件のことを知っていた。世俗と離れた暮らしをしていても、情報は自らやってくる。ある画商が「困ったことになってる」との言葉に添え、クリスに伝えたニュースは、クリーヴが今告げたそれと同じものだ。
一人目 : それは若い男だった。西海岸を中心に有名になっていた『リュケイオン』というバンドのボーカリスト。フッパーという名の彼が、クリスの絵に心酔していたのは、バンドの信者であれば誰でも知るところだが、その後、画家の名をハードロックマニア以外にも轟かせることになったのは、そのボーカリストがピストル自殺をしてからのことだ。フッパーは自宅の居間にあったクリスの絵の前で、自らの頭を打ち抜いたのである。
二人目 : 17才の少女。自室で首吊り自殺。ベッドの上には図書館で借りたクリスの画集があった。
三人目 : ドラッグを常用する若い男。過剰に薬物を摂取したショック症状。『リュケイオン』の曲をヘッドフォンで聴きながら、腕に注射針を何度も刺し、天井に貼ったクリスの絵画を見つめながら死んだ。
四人目 : これがクリーヴの兄だ。
メディアはこの一連の死の流れを、カリスマ的人気を誇るフッパーの影響であると決定づける。彼が自殺をしたことに端を発して、後の者たちは絵画に何らかの先入観を持ち、一種ヒステリーのような連鎖反応が引き起こされた───それが報道の見解だ。ロックンロールバンドはいつの時代であっても非難の対象である。
この出来事によってバンドは解散、そしてまたクリスの商売も打撃を受けていた。かつてはファッションブランドのイメージや、アーティストのアルバムジャケットに採用されることもあった彼の絵画は、その事件性の高さによって、今や広告業界から声がかかることはない。しかしそんなことはクリスにとってはどうでもいいことだった。霊感が得られるこの部屋と、描くことのできる肉体。それさえあれば彼は満足で、外界のことにはさほど興味を示すことはなかったのだ。それがここへきて、どういうわけか“外界そのもの”ともいうべき男が飛び込んできた。新聞記事を突きつけ、クリスが最も厭う事件のことを口にする。そしてその男は、とうとう“この部屋”についての質問を見つけ出した。
「この部屋はあなたにとって特別なんでしょう?」クリーヴはクリスの真向かいに座り、あぐらをかいた。「なんでも夕方になると真っ赤に染まるとか……それがあなたに絵を描かせていると聞きました」
ずっと以前、クリスは雑誌のインタビューで、一度だけ“部屋の魔力”について話したことがある。クリーヴは当然その記事を読んでいた。
「ぼくがいる間、この部屋は赤くはならなかった……ということは、“暁の部屋”は何かの比喩なんですか?」
インタビュアーよろしく訊ねるクリーヴに、クリスは静かに答える。
「あれは夏の間だけだ。冬は太陽の角度が違う」
なるほど。にわかインタビュアーは納得した。ここでふとクリーヴは気がつく。クリスが自分と会話をしていることに。口調こそぶっきらぼうだが、画家は素直に質問に応じている。沈黙するのは質問以外のところでだ。そのことにクリーヴは軽い驚きをおぼえる。この数日、クリスが黙りこくっていたのは、こちらが話しかけなかったからだろうか? 歓迎や交流は期待していなかったし、疎まれ追い出されることは覚悟していた。しかし今日のクリスは何を隠すでもなく、普通に口を利いているではないか。知っていることは答え、知らないことはただ“知らない”と言う。これは犯罪を隠蔽しようとする男の態度だろうか? そもそも何かを隠したければ、自分を部屋に招いたりしないのでは? そこまで思い至ったところで、若者は頭を振り、自分の考えを追い出した。まだだ。潔白の印を押すには、まだ早すぎる。戦いはまだ始まったばかりなのだ。
クリーヴは“暁の部屋”について書かれた記事を思い出していた。インタビューに答えるクリスは『このアトリエは特別な場所だ』と言っていた。『おれのアトリエは特別な空間だ。ある時間になると、窓から夕日が差し込む。血の色にそっくりな真っ赤な日差しだ。きみもあれを見たらわかるだろう。どうしておれがあの部屋にこだわり続けているかが』
そのインタビューの数ヶ月後に、あの忌まわしい火事があり、クリスは入院を余儀なくされた。しかしこの部屋は、主のことを忘れずに待っていたようだ。今クリーヴがここにいるのが何よりの証拠だ。
それにしても、ここはそんなに特別な部屋なのだろうか? クリーヴは目の筋肉だけを動かし、部屋をじろりと見回した。通って四日目だが、特に変わったところは見られない。日差しについては体験していないので何とも言えなかったが、今のところこのアトリエはさしたる特徴もない普通のアパートのようだった。
─── あれを見たらわかる。どうしておれがあの部屋にこだわり続けているか ───
クリーヴは画家の言うところの“特別な場所”にいた。いたが彼にはその“特別さ”はわからなかった。夕焼けが差し込むというだけでこの部屋を手放さない。クリーヴにはその意味も、ここにあるはずの魔力も理解できない。そしてこれからもわかる自信は彼にはなかった。
画家はいつものように服を脱ぎ始めている。クリーヴは彼の一点に目を留めた。まだ柔らかく、穏やかなクリス。さすがの彼も、普通の会話の直後から興奮状態になるのは難しいのだろうか。
数日を画家と共にして、クリーヴがひとつ理解したことがある。それは“裸には何の意味もない”ということだ。ここに来た初日こそ、一糸まとわぬ姿に眉をひそめはしたが、よく考えればそれはまったく害のないことだ。裸が噛み付くわけでもなし、何を厭うことがあるだろう? 起立したペニスに慣れるのには、もう少々多くの時間が必要だったが、それすらも今は慣れた。『もし裸が恥ずべきものなら、神は服を着せた姿で人間を創ったはず』。それは皮肉屋の美術教師の言葉だったが、あながち的外れというわけではなかったようだ。画家にとっての肉体は、芸術に従事するためだけの容れ物に同じ。裸や勃起にうろたえるのは凡愚なことのように感じられ、クリーヴは自分の精神性の低さを改めて嫌悪した。
クリスは絵を描き始める。いつものようにバケツをトロリーに乗せ、いつものように──いつの間にか──勃起している。その様子を眺め、クリーヴは亡き兄の姿を思い返していた。
レイことレイモンド・シモンズは、幼い時分から芸術家だった。子供の頃は道路いっぱいにチョークで絵を描き、成長後は油絵を好んで描いた。死ぬ間際のレイは、異常とも言えるほどの創作活動に打ち込み、それは飲食もままならないほどであったため、彼らの両親をいたく心配させたものだった。
「少し休んだ方がいいよ」クリーヴは兄にそう忠告した。「どこかに出品するとか、締め切りがあるとかいうわけじゃないんだろ?」
レイは何の目的もなく絵を描いていた。ただただ絵を描き、そしてとてつもなく幸福そうに見えた。栄養不足でやせ細り、日に当たらないせいで血色は悪かったが、瞳にはいつも光があった。クリーヴが仕事から疲れて帰宅すると、兄は出かける前と同じ状態で絵を描いている(それはあたかもここにいるクリスのように)。無心に制作に打ち込むレイ。就職もしない長男のことを、彼らの父親は不愉快に思っていたようだが、弟はそれを“悪いこと”だとは思っていなかった。
レイの誕生日、クリーヴは一枚の版画を彼にプレゼントした。兄が誰より尊敬する画家のシルクスクリーン。それがクリスの作品だった。夕暮れの森を描いたタブロウ。空を埋め尽くさんばかりの木々は赤く、父親は「まるで山火事のようじゃないか」と渋い顔で言ったが、兄は弟からの贈り物をたいそう喜んだ。
そしてその絵を壁に取り付けた翌日、レイは死んだ。まず燃やされたのは絵画だった。燃える森に火を放ち、その直後、風景に自らをゆだねるかのように、自身にも火をつける───。死因は焼死。遺書はなかったが、自殺と断定され、司法解剖はされなかった。
絵を描くことが何より好きだったレイ。あんなにも強く作品に打ち込める男が、なぜ唐突に死を選ばなくてはらなかったのか。兄はこの絵画に何を見たのだろう。どんな恐ろしい思いをしたのだろう。レイの生と死。そのどちらにもクリスの絵画が関与している。
葬儀の後からのクリーヴの行動は素早かった。画家についての情報を集め、関連する事件を追う。グリニッチ・ビレッジのホテルを予約し、J.F.K空港行きの航空券を買い、新聞記事をクリアファイルに挟む。マンハッタン行きの動機は母親には言わなかった。言えば止められるだろうことが分かっていたからだ。家を出る直前、父親だけには本当のことを告げた。父はクリーヴの決意を聞き、「これを事件として立証できれば、もしかしたら保険がおりるかもしれない」と言った。
「息子よ、しっかりやるんだぞ」
その言葉を聞いて、クリーヴは心底悲しくなった。この人は息子のことを少しも理解していない。この大きな決断。強い意志の裏にあるのは、“保険会社から金を引き出す”などという、ちっぽけなことではないというのに。
大陸を横断する間、クリーヴは目的に燃えていた。クリスは許されざる者。芸術で人を殺すのは、ナイフで刺すよりも重い罪のようにクリーヴには思えた。しかしこの動機を父親に話してもわかってはもらえないだろう。父、ドナルド・シモンズは生まれてこのかた、絵を描いたことはない。芸術に感心のない旋盤工で、息子たちが何に興味を持っているのか、理解しようともしなかったのだ。
クリーヴは物心ついた頃から、自分は人と違うのだと信じていた。少なくとも父のような、平凡な者にはならないぞと思っていた。レイとクリーヴは本を多く読み、音楽や絵画をこよなく愛した。シモンズ家の兄弟は、芸術家として生きるべきである。二人の息子が金属加工業に興味がないことにドナルドはいくぶん落胆したようだったが、それでも彼らが目指す道を閉ざすことなく、美術学校への学費を支援してくれた。そんな父にクリーヴは感謝していたものの、自分と父は違う種類の人間なのだという考えは、どうしても手放すことはできなかった。さきほどの発言にもあるように、ドナルドの考え方は非常に物質的であり、それ以外の側面を人生に見ることをしていない。
「物事には霊的な側面というものがある」レイは常々、弟にそう言っていた。「これはオカルト的な話じゃない。“霊的”であることは、“宗教的”とは違う。もっとシンプルに、生きることと関係があるんだ」
レイは神智学に詳しかったが、その知識をもってしてでも、クリーヴに知恵を伝えることは難しいと感じていた。「うまい言葉が見つからない」と言い、最終的には「おまえも見ればわかるさ」と、結んだ。
─── 見ればわかる ───
だとすると、レイは一体何を見たのだろう? 間違いなく彼は何かを知っていた。そしてその情報を、たったひとりの弟に伝える前に死んでしまったのだ。
いつしかアトリエは暗くなり、画家はすでに作業をやめていた。ベッドに横たわるクリス。わずかに開いた唇のあいだからは白い歯がのぞき、そこから規則正しい呼吸がもれている。腹筋は穏やかに上下し、彼は子犬のように眠っていた。その奇妙な無垢さ。こわもてな外見と似つかわしくない形容詞に、クリーヴはむしろ自分の感覚の方を疑いにかかった。それほどにアンバランスな印象だった。
クリーヴはクリスに視線を定めた。眠る黒人女を見つめるライオンのように、ただ静かに寝顔を覗き込む。この様子はルソーの絵画『眠れるジプシー女』によく似ている。眠る女はその手にライオンを追い払う棒を持ち、ライオンは女を切り裂く牙を隠し持っている。空に浮かぶ青い月。ライオンと女。互いの武器をふるうのは今夜ではない。彼らはタイミングをよく心得ているのだ。
翌日、クリーヴは思い切った決断をした。「しばらくここに泊まってもいいか」とクリスに申し出たのだ。もしここで何か特別な儀式が行われているのだとしたら、それは自分がホテルに帰った後ではないだろうか。自分はだまされていたのかも知れないとクリーヴは考えた。わずかな異常性という、“昼の顔”をまんまと掴まされて。
本来、人といることを好まないクリスは、その頼みに当然いい顔をしなかったが、クリーヴが「台所の隅で寝るし、絶対に迷惑はかけない」と食い下がると、最終的には「好きにしろ」と要求を受諾した。
渋面のクリスを前に、クリーヴは喜色満面を隠そうともしなかった。物事は確実に前進している。こうでなくては故郷を遠く離れた甲斐がないではないか。
デパートで購入した寝袋と、ホテルから無断で持ち出した毛布を組み合わせ、台所の片隅に寝床を作る。テラコッタのタイルはひんやりと冷たかったが、これで真実に一歩近づけるとすれば、寝心地など大した問題ではない。
さあ、夜のクリスはどんな変容を見せてくれるのか? クリーヴには覚悟が出来ていた。たとえアトリエにクー・クラックス・クランが現れたとしても驚きはしない。彼らが招かれざる白人客を生け贄にするというなら話は別だが。
期待されていた一日目の夜は何事もなく過ぎた。と言うよりも、何か起きたかどうかをクリーヴは感知することができなかった。冷たいタイルをものともせず、すっかり熟睡してしまった彼は、クー・クラックス・クランが現れたかどうかも知るよしもない。
「まあ、まだ時間はあるさ」とクリーヴは独り言をつぶやく。奇妙な絵描きを観察する時間はいくらでもある。それにおそらく、いまだかつてこんなにもクリスに近づいた者はいないはずだ。それは画家の暮らしぶりを見ればわかる。遊びに出かけるでも、誰かが訪ねてくるでもない。ただ毎日が同じように過ぎ、裸の男は文明を忘れたかのように生きている。クリスが持っている唯一の通信手段は携帯電話だが、それはクリーヴが来てから一度も鳴ることはなく、じっとサイドテーブルに待機していた。
ゆっくりだ。これからゆっくりと時間をかけて、絵画の秘密を探っていけばいい。クリーヴはどこか満たされた気持ちでそう思った。そのために自分はこの部屋にいるのだ。画家の悪意を確認した後のことは考えてはいなかった。
世捨て人にも友人はいた。そのことは多くクリーヴを驚かせた。
この日、戸口に立ったのは、ひとりの男。年のころは五十代で、白髪まじりの巻き毛を、オールバックにして肩に垂らしている。身につけた黒いシャツと黒いパンツは、中年太りした体格を隠そうとしてのことだろうか。だとすれば、残念ながらその成果は発揮できていない。広く開いた胸元には、小さな金の十字架があり、指には赤い宝石が輝いている。一見してカタギの職業ではない雰囲気を醸し出しているその男は「やあ、クリス」と挨拶をし、ほとんど強引に画家の身体を抱きしめた。
自分より背の低い男に抱かれたまま、クリスは「まだ絵は出来ていない」とつぶやく。
「わかってる」男は身体を離し、画家の腕をポンポンと親しげに叩いた。
「ただ寄ってみただけだ。それとこれを」と、画材店の紙袋を差し出す。
「送ってくれてもよかったのに」そうクリスが言うと、男は「生存を確認しにきたんだよ」と明るく笑った。続け「これはオマケ」と、白いビニール袋を渡す。その中身はマスカットだ。
「デッサン用じゃないぞ。食べ物だ。たまには生気のあるものを口に入れろ」
クリスは短く礼を言い、色鮮やかなエメラルドグリーンの粒をひとつ口に放り込んだ。
それは普通のやりとりだったが、見ていたクリーヴには、どこか馴染まない奇妙な行為と写った。差し入れに感謝を述べたり、人前でものを食べたりすること。この部屋で散々おかしな行為を見続けたせいだろうか。クリスが“普通の人らしいこと”をするのは、ミッキーマウスがセックスをするのと同じくらい違和感のあるものだ。
「では進行状況を見せてもらおうか」
中年男はずかずかと部屋に入り、そこにいるクリーヴにようやく目を留めた。
「おいクリス、驚いたな……」芝居がかった表情をし、両腕を広げる。「なんとまあ、部屋の中に人間がいるぞ! いったいどういう風の吹き回しだ?」
「別に」抑揚なく答えるクリス。「勝手に住みついているだけだ」
その言葉にクリーヴは傷ついた。確かに“住みついている”のは事実だが、数日生活を共にしているのに、羽虫か何かが“棲みついた”かのように言われるのは、決して気分のいいものではない。
「きみは誰かな?」と男が訊ねる。「クリスの友人? それともデッサンのモデルかな?」
「ぼくは……」クリーヴは言いかけ、言葉を失った。自分はモデルではない。もちろん友人でもない。
「ぼくは……ただのファンです。彼の絵の」
的確な答えとは言い難いが、他に言いようがなかった。
「そうか、ファンか。おれはパンだ。画商をしている」男は胸ポケットからタバコを取り出し、吸い始めた。
───パン。おかしな名前だ、とクリーヴは思った。ギリシア神話に由来するそれは、無論のこと本名ではないだろう。下半身が山羊で頭に角を持った神。くるくる変わる豊かな表情と、クラシカルな巻き毛のあごひげは、なるほど、伝説の半獣神を彷彿とさせる。“部屋の中に人間がいる”という表現も、彼が妖精のパーンだとすれば納得のいくものだ。
「すばらしい作品だな」画商はタバコをぶかぶか吹かしながら、制作途中の絵を見つめた。
「おいクリス、これは何だ?」言って、キャンバスの右下を指す。
「どれ?」と、クリス。
「これだ。この青い部分。これは橋か?」
「そうだ」
「青い橋か」
「そう。でもわからない。最終的には消すかもしれない」
「残しておけ。橋は希望の象徴だ。おまえの絵は不安要素が多すぎる。少しくらい希望があった方がいい」
パンはクリスの腰に手を回し、それを引き寄せた。その姿はクリーヴにあるひとつのイメージを喚起させた。『羊飼いダフニスに笛を教えるパーン』。ポンペイで発見されたその彫像は、若者に音楽を指導するというより、まるで性的な誘いをかけているようである。ホモセクシャルに寛大であった町の風潮を象徴する、おおらかな芸術。多淫で有名なパーンは、その名に恥じぬ行いを牧童にしかけたのだろうか。
「いい絵だ」にんまりと微笑むパン。「おまえは百年にひとりの存在だ。世間が何と言おうと気にすることはない。もうあと百年もすれば、誰もがおまえを認めざるを得なくなる」そう言って、クリーヴを振り向いた。「なあ、そう思うだろう? “ファン”?」その問いかけに反応したのは、“ファン”ではなく画家の方だった。
「彼はファンじゃない」
クリスの言葉に目を見開くクリーヴ。
「ファンじゃない?」とパン「じゃあ何だ? 友達か?」
「友達でもない。おれは彼に嫌われてる」
「嫌われてるだと? 何の話だ?」ふたたびクリーヴを見る。クリーヴは展開についていけず、呆然としている。クリスは言葉を続けた。
「おれは彼の兄を殺した。心当たりはないが、少なくともそういう話になってる」
「さっぱり意味がわからん」とパン。「じゃあ何か、おまえはおまえを嫌っている奴を部屋にあげているってわけか?」
クリスはもう何も答えなかった。画材とマスカットの袋を持ったまま、ふいとキッチンに消えた。
「相変わらず謎なやつだ」パンは携帯灰皿に吸い殻を入れた。「あいつが十の頃から知っているが、受け答えだけはまったく変わらん」笑いながら、頭を左右に振る。
「十歳の頃から彼は絵を?」
クリーヴは思わずパンに話しかけた。クリスの過去はメディアにほとんど書かれていないのだ。もしこの男がそれを知っているのだとすれば、大きな収穫になるかもしれない。
「ああ、そうだ。あいつは本物の天才だよ……」画商は歌うようにひとりごちる。
「おれと出会ったとき、あいつはまだほんの子供だったが、既にエル・グレコをものにしていたんだ。プッサンなど、本物よりよかったくらいでね。マチエールは雑だったが、ルネサンスものもいけたよ。学校から支給される安っぽい絵の具で、あいつは聖母子を描いてたんだ」
「模写を?」
「模写ばかりさ。絵はとびきりうまかったが、いかんせん閃きがなかった。アーティストには致命的なことだ。しかしまだ今のうちなら何とかなるとおれは思った。なんたって奴は子供だったからな。様々なものを見、多く世間を体験するうち、いいものが描けるようになるだろうと……」まぶたを落とし、深々と息を吸い込む。「それで、おれはあいつに暖かい寝床と高級な絵の具を与えてやったというわけだ。きみはタバコは?」
「いえ、今は」
パンはその言葉に頷き、一本取り出して火をつけた。
「しかるべき場所と画材を与えられてから、あいつはメキメキ上達したよ。年上の画家たちに囲まれていたのもいい影響だった。自分が描きたいと思うものを徐々に見つけだしたんだ。社会生活から切り離されることが、あいつには必要だった。そもそも想像できるか? あれがネクタイをしめて会社に通うことを?」言って、ふうっと煙を吐き出す。
ほんの十歳かそこらの子供を社会生活から切り離し、芸術に従事させるということがなければ、クリスにも“ネクタイをしめて会社に通う”という選択肢があったかもしれない。画家がコミュニケーション不全のような状態なのは、この男が大本の原因ではないかとクリーヴは考えた。
パンの皮膚は日光とアルコールに焼けてオレンジに変色している。ヒッピー・ジェネレーションを思わせる彼の教育が、学校の外にあったとしても何ら不思議はないことだ。
孤高の芸術家にもパトロンがいた。その事実はクリーヴに失望を感じさせた。絵画を売るのであれば、それを流通する経路が必要であり、最終的に芸術は金になる。それは当然のことだが、ストイックな芸術家と居るうち、彼はこうした俗世間的な関わりに不信感を抱くようになってしまったようだ。もしくはパンに自己紹介したように、“ただのファン”としての嫉妬めいた感情なのかもしれないが。
クリスが戻ると、パンは「食事に行くか?」と、画家を誘った。クリスは制作を理由に口ごもったが、パンは「少しくらい外出しても差し支えあるまい」と、笑顔で応じる。
「行きたくないんだ」子供のような返答をするクリス。パンは彼の頬に指先で触れ、「顔色が悪い」と指摘する。「タンパク質を摂っているか? いないだろうな。今日は無理にでもおまえを連れていくぞ。それとそこのきみも、よかったら」
クリーヴは驚いたように顔を上げ、「ぼく?」と、間の抜けた声を出した。
「他に誰か?」当たり前だろうと言うようにパン。この部屋にいながらも、自分は部外者だと感じていたクリーヴは、急に会話に取り込まれたことに面食らっていた。
「あの、ぼくは結構です。どうぞお二人で」
「そうか。じゃあ、ファンは留守番だな。クリス、何が食べたい?」
父親のようなパンの問いかけを無視し、クリスはちらりとクリーヴを見た。それから描きかけの絵画に視線を移す。そしてまたクリーヴを───。その目の動きの意味を、クリーヴは即座に理解した。クリスはこのアトリエに、彼ひとりを残していくことを懸念しているのだ。
「心配しないで」と、クリーヴは微笑んだ。「きみの絵には指一本触れないと誓うよ」
しかし画家は納得した様子ではない。身内の復讐に燃えた若者の言うことなど、信じられないのは無理もないだろう。クリスの困惑した表情を、クリーヴはそう読み取った。
「さあ、出かけるぞ。靴を履け」
有無を言わせない口調のパン。クリスは迷惑そうな顔をしつつも言う事に従い、クローゼットからミリタリーブーツを取り出した。
ここで『一緒に出ます』と言ってやれば、クリスは安心するのだろう。外から部屋に鍵をかけて、外部のすべてから絵を守る。しかしクリーヴはそう言ってやりたくはなかった。クリスが窮することに、嗜虐的な喜びを感じていたからだ。追い出される危険性は高まることはわかっていたが、彼の困り顔を見ると、小さな復讐心が満たされた。それはわずかなものだったが、快くもあった。
パトロンにと共に部屋から出て行くクリス。彼にも弱い相手がいる。それは過去に育ててもらったという負い目なのか。暖かい寝床と高級な絵の具、その他に与えたものは何だったかは推して測るべし。ダ・ヴィンチの工房でもそれは別段珍しいことではない。
「さて……やっと二人きりだな」
クリーヴは絵画に話しかけた。横に長いキャンバスは規格外で、ゆうに三メートルはあろうかという大きさだ。
乱雑なタッチ。絵画の基本となる法則は見当たらず、情報としてもさほど整理されていない。おそらくこの画家は、最初から描きたいイメージが固まっているタイプではないのだとクリーヴは思った。これからまた筆が入れば、今ある橋やら太陽やらのモチーフは、すべて塗りつぶされるかもしれない。
『製作者と鑑賞者、二者により絵画は完成する』。かつてそう述べたのはクリーヴの恩師である。
「絵画とは、鑑賞者の存在があって、初めて成り立つもの。よき鑑賞者がなければ、その価値も理解されない。そして制作者と鑑賞者は、同じレベルでなくてはならない。どちらが突出していたり、どちらかが劣っていた場合、その芸術は正しく理解されないからだ」
そう解説した教師は、授業の最後に「きみたちも無名のまま死ぬことのないように」と結び、生徒たちを笑わせたものだった。
いつもクリスがいる位置、キャンバスの真向かいにクリーヴは立っている。
『見ればわかる』。レイはそう言っていた。言葉では伝えることができず、頭で理解するのでもない。ただ目撃し、そして感じる。抽象とも具象とつかないクリスの絵画は、どのカテゴリにも納まらず、また画家自身も“絵描き”という分類には収まりきれていないようだ。この奇妙な作風を、レイはこよなく愛したが(それは死ぬほどに!)、クリーヴにはあまり好みと言い難かった。彼が部屋に飾りたいと感じる画風は、もっと繊細でスムーズなライン。もしクリーヴが画商だとしたら、クリスの絵は間違っても買い付けることはなく、美術展で見かければ“好きじゃない”と判断して、通りすぎるだろうタイプの作品だ。
しかし改めて見つめていると、この絵にはやはりただならぬ迫力があると感じられる。タッチこそ肌に合わないが、偉大なものだというのは明らかに納得がいくのだ。
ここでクリーヴは不意に理解した。これは見る者を選ぶ絵だ。鑑賞者が絵を選ぶのではない。絵が鑑賞者を選ぶのだ。それは不思議な感覚だった。昨日まではそう感じることはなかったが今はわかる。ある瞬間に形が現れ、それが何であるかがわかるようなトリックアートを見せられているような感覚だ。
ひとつの答えを発見し、クリーヴは満足を覚えた。クリスが戻ったら、このことを話すのもいいかもしれない。そう思い、絵から離れようとした瞬間、ふと彼は絵の一点に目を留めた。キャンバスの右下、角に近い部分に小さなほころびができている。それは二センチほどの傷で、かぎ裂きのように見えた。パレットナイフがつけた傷だろうか。
もっと近くで見ようと、身体をかがめたところ、ぐらりと身体が揺れたようになる。きっとめまいだ。長く集中して絵を見続けたせいだ。しかしこの息苦しさは何だろう。背筋を伸ばすと、天井が低くなったように思えた。もちろんそれは気のせいに違いない。気のせいだと分かってはいるが、息が苦しくなった。どういうわけか絵から目が離せない。体内で血液がどくんと脈打ち、動悸が早くなる。キャンバスの上で絵の具が動きだす。それは波のようにうねり、森の木々のようにざわついている。点の集合体はいくつもの胎児の頭部のようだ。おびただしい数で、うじゃうじゃと集まってうごめく。胃がねじれて吐き気をもよおしたところで、胎児はクリーヴをあざ笑うかのように一斉に口を開いた。小鳥のヒナのように、唇のない口をパクパクとさせている。そこまでが限界だった。クリーヴは叫び出しそうになり──いや、すでに叫んでいたのかもしれない── 飛び退くようにして、絵から離れる。床に転がる前に、どしんと何かにぶつかった。短い悲鳴を上げ、振り向くと背後にクリスが立っている。支えられなければ、クリーヴはしたたか尻もちをついていただろう。
いつの間に戻ってきたのか、そのことに驚く間もなく、クリーヴは叫ぶように訴える。
「なんだあれは!? あの絵はいったい……!?」
「何か見えたか」
「顔が……赤ん坊の顔がいくつも……動いて……」
「そんなものは描いてない」冷静なクリスの声に、クリーヴは落ち着きを取り戻し始めた。そうっと絵画を振り向き、もう一度キャンバスを見つめる。そこにあるのは池に浮かぶ蓮の花。木々の間から漏れる月明かり。顔などどこにも描かれてはいない。クリスの言う通りだ。
「あの…ええと……」クリーヴは狼狽し、言葉を探して口ごもる。「きみは…その……そうだ、パンは? 彼と出かけたんじゃなかったのか?」
「それはやめた」
「やめた? なぜ?」
「呼び戻されたんだ」
「誰に?」
「きみに」
クリーヴは一瞬何を言われているのかわからなかった。
「ぼくは……きみを呼び戻してなどいない」
「わかってる」
成立しない会話。その矛盾について、クリーヴは説明を求めようとはしなかった。今しがた自分がした体験は、クリスの不明確な発言を遥かに超えるもの。そのことについて説明はできない。だったらこちらも何も聞かないことだ。聞かず、話さず、狂気のかけらは毛布で包んでおけばいい。
クリーヴは首に掌を当てた。汗をかいている。クリスはその様子をじっと見ている。視線に気がつき、クリーヴはまた狼狽した。画家の瞳は冷えたガラス玉のようだった。その美しさにクリーヴは狼狽したのだ。
翌日、クリーヴは起きることを放棄した。画家の創作活動を眺めるのが彼の日課だったが、今日はそれをしない。あの絵を見て、またあんなものが見えてしまったら? そのときはどう反応したらいいのだろう? レイはあれを見たのだろうか? だから絵に火を? そもそもあれは何なんだ? クリスが魔術でもかけたのだろうか?
いくら考えても思考はまとまらない。根拠のない予測は恐ろしい想像を生み、クリーヴを台所の床に縛り付けた。
画家は絵を描いている。観客の不在を気にもせず。すべては順調に進み、生じる成果もまずまずだった。このままいけばパンを失望させる見込みはなく、クリスの信奉者を喜ばせ、結果として大きな利益を生むことだろう。
クリーヴは寝袋の中で寝返りをうった。目を閉じてはいたが、眠ってはいない。しばらくして腹が減ると、彼は冷蔵庫を開けた。数日前に買い置きしておいたクラッカーとチーズ。それをミネラルウォーターで流し込む。
たまにはこういうのもいいだろう。クリーヴは自分の行為をそう結論づけた。ここに来てから、毎日クリスを監視していたのだ。そのせいで神経が高ぶり、昨日は幻覚まで見てしまった。今日は休もう。休んで、絵のことは忘れよう。そう思い、再び寝袋に潜り込む。夜になると空腹を感じたが、それでも彼は起きようとはしなかった。明日になったら何か食料を買いに行けばいい。明日になったら、また絵を見よう。しかし、そのスケジュールは実行されなかった。翌日もクリーヴは寝袋から出ようとはしなかったのだ。クラッカーの残り数枚を口にし、ミネラルウォーターがなくなると、蛇口から直接、水を飲んだ。奇妙なことをしているというのは、本人にも自覚があったが、起きて歩くという気力が湧いてこない。この台所を出れば、クリスと会うことになるだろう。そして、あの絵を見ることになる。そう思うとますます行動の意志は萎えた。今や聖域となったこの場所から、彼は動こうとはしなかった。空腹で胃が痛んだが、夜まで無視し続けると、なんとかおさまった。
固く冷たい床に転がり、クリーヴは考えた。再びあの絵を見て、また何かが見えたとしたら── そのとき自分は死ぬかもしれない──と。
これが彼の想像した、もっとも最悪な展開だ。他にもさまざまな可能性を思ったが、そのどれも不吉で忌まわしいイメージばかりだった。しかしこの件で、彼は自分の兄の死について、強い確信を持つこととなった。間違いない。あの絵が兄を殺したのだ。直に目で見たそれは、悪魔のように邪悪で、薄気味悪いもの。
見ればわかる─── それがレイからのメッセージだ。ようやく真実の一端にたどりついた。それがわかっていながらも、ここから出ていき、“あれ”と対峙することを思うと、クリーヴの胃袋は再び叫びをあげはじめる。
両手で腹を押さえ、床に丸まっていると、ふいにクリスがやってきた。手には筆洗いのバケツを持っている。シンクの脇には、20リットルのエンジンオイル缶が置いてあり、クリスはそれに使用済みの筆洗油を流し捨てた。石油の匂いに刺激され、クリーヴの喉はえづく。バケツの中味を空にしながら、クリーヴを見やるクリス。視線を向けはしたが、それ以上のコミュニケーションをとることはしない。オイル缶のフタを閉じ、無言のまま彼はキッチンを後にする。残されたクリーヴは吐き気に咳き込み、シンクにつばを吐いた。
まったくの健康体である彼の身体は、この断食に悲鳴を上げている。何か食べた方がいいことはわかっていたが、それを実行するだけの気力がない。クリーヴは静かに目を閉じた。他にできることがないと判断したからだ。
クリーヴが目覚めると、彼の聖域には果物の甘い香りが漂っていた。横たわったまま瞼をこすり、頭を持ち上げると、紙パレットの上にブドウの房が置かれているのが目に入った。以前パンが持ってきたのと同種のものだが、あれはもう数日も前のことなので、ここにあるのはクリスが新たに買ってきたものだろう。
これを食え、ということなのか。まるで犬にエサをやるかのようなやり方。それでもこれはクリスなりの親切心だ。社会性のない彼らしい方法だと、クリーヴは苦笑した。
起きて床にあぐらをかき、エメラルドの一粒を口に入れる。それはみずみずしく、とても美味だった。飢えた身体はエネルギーを求め、クリーヴはがつがつと果実を貪り食った。身体からエネルギーが湧いてくるのが感じられる。明日こそクリスを監視しよう。そして彼の悪意を突き止めよう。クリーヴはポジティブな意欲を取り戻し、久しぶりに幸福な気持ちになった。果物が運ぶさわやかな甘み。復讐というものも、おそらくこれと同じくらい甘いのだろう。クリーヴはそんな自分の考えに再度、苦笑する。
普通の絵だ───。それが三日ぶりに見たクリスの絵の感想だ。クリーヴは隅から隅まで、キャンバスをチェックしたが、そこに異常らしきものを確認することはできなかった。あの日、確かにあったと思った、小さなかぎ裂きも見つけられない。あれは確かに幻覚だった。しかし“幻覚を見た”という体験は、実際にあったことだ。体験自体は夢でも幻でもない。やはりこの絵には何かある。今はただの絵の振りをしているが、これはまたいずれ変化する。あたかも昼は清純を装っている少女が、夜になると売春婦にその身を変えるように。『見ればわかる』。それがすべてのヒントに繋がるが、だからといって“見たまま”を信用するわけにはいかない。これはただの絵画だ。少なくとも今だけは。
クリーヴが絵画と向かい合っていると、クリスがやってきた。シャワーを浴びた直後で、髪は濡れ、白いバスローブを身につけている。
「なにか見えたか?」何気ない口調で訊ねるクリス。
クリーヴは答える。「いや……何も」
絵を見ているのに『何も』とは奇妙な返答の仕方だが、彼にとってはこの答えが正しかった。今は何も見えない。うねるキャンバス。無数の胎児。内蔵がでんぐり返るような感覚も、何も感じられない。それでもあれは夢ではない。確かに彼は見た。この絵の真実の姿を、クリーヴは目の当たりにしたのだ。
「ぼくは見たんだ」絵に視線を据えながらクリーヴが言う。
「何を?」クリスは訊ねる。
「見たんだ……」
この絵が恐ろしくないと言えば、それは嘘だった。しかしクリーヴはここから目を逸らすことができなかった。動悸がし、掌が汗ばむ。
「クリーヴ」画家が名前を呼んだ。しかしクリーヴは返事をしない。食い入るように絵を見つめ、再度「見たんだ……」とつぶやく。口で息をし、炎の前に立っているかのように、顔が熱くなる。何かが切れそうになったその瞬間、クリーヴの視界は遮られた。キャンバスとクリーヴの間に割って入り、立ちはだかるクリス。クリーヴは目の焦点を合わせるべく、何度かまばたきを繰り返した。
「よし」意を決したようにクリスは言う。
「外に出よう」
闇が緞帳のように落ち、それにとってかわり、ネオンに光が灯り始める。マンハッタンは太陽の不在をものともせず、相変わらずの活気に満ちあふれている。
クリスとクリーヴは、ヴィレッジからハドソン川方面に向かい、小さなレストランに腰を下ろした。レンガ作りの店構えは暖かみがあって、南イタリアの家庭料理というメニューによく合っている。店を選んだのはクリスだ。着くまでに少しも迷わなかったところを見ると、彼はこのレストランをよく知っているのだろう。
この外出に、クリスは例の汚れたジャケットを身につけていた。ホームレス然とした格好に、クリーヴは飲食店の出入りを禁じられるのではないかと内心、心配していたが、クリスが上着を脱ぐと、そんなことはきれいに忘れてしまった。
スプマンテを食前酒に、軽いアンティパストとモッツァレッラとトマトソースのピザを頼む。ウェイターは「こちらのトウガラシ入りのオイルをかけると、何枚でもピザが食べられますよ」と気さくにアドバイスする。それは実際その通りで、クリーヴは夢中で焼きたてを頬張った。クリスはピザには手をつけず、発泡ワインと前菜だけを口にしている。
「人と食事をするのは久しぶりだ」とクリスは言った。それはただの事実であり、“だから楽しい”とも“嬉しい”とも、およそ感情的な意味合いは込められていない。この不自然な“お見合い”に、クリーヴは戸惑っていたが、そのことをなるべく表面に出さないように努力をした。緊張や戸惑いなどの感情があることを、クリスに悟られたくはない。それは彼のプライドであり、身を守る盾のようなものだ。そんなクリーヴに対し、クリスは明らかにリラックスした様子を見せ、手酌でワインを注いでいる。
クリーヴは油のついた指先をナプキンで拭きながら、「最初にきみと会ったときのことで……」と、唐突に話題を切り出した。
「ひとつ気になっていることがあるんだ。覚えてるかな? あの日、ぼくは鼻血を出した」
クリスが沈黙しているので、クリーヴは先を続けた。
「あのとき、きみはどうしてわかったんだ?」
「何の話だ?」訝しげにクリス。
「ぼくが鼻血を出していることを。きみはあのとき、ぼくを振り返った。ぼくに鼻血が出てることを教えてくれたんだ」
「ああ、あれか。わかるんだ」茹でたアーティチョークの葉を剥がしながら、クリスは言った。
「どうして?」
「わかるのさ」前歯で葉をしごき、同じ言葉を繰り返す。
クリーヴが黙っていると、クリスは前菜の皿から、クリーヴに視線を移した。じっと見つめ、「今、この瞬間にもわかることがある」と、おごそかに目を閉じて、鼻から息を深く吸い込む。
「今現在……52丁目のランジェリーショップで、キーラ・ナイトレイが矯正下着を試着中だ……」
「どういうことだ?」クリーヴは問いかけたが、クリスは目を閉じたまま。瞑想の面持ちで言葉を続ける。
「ああキーラ……確かにきみにはそのショッキング・ブルーは似合う。だがその“持ち上げる”ってのはどうだ? そんな無駄な努力はやめて、とっととシリコンを入れろよ」
「……うそだろう?」クリーヴは困惑し、眉をひそめた。
可視能力───。かつてテレビで見た中国の超能力者のことをクリーヴは思い出していた。そのサイキックは目隠しされたまま、数字を当てることができたのだ。それは目ではなく、心眼でものを見るのだと言う。この男にも同じような力があるというのだろうか。
クリーヴが呆然としていると、クリスはぱっちりと目を開けた。ぽかんとした表情の同席者を見て、くすくすと笑い出す。そこでクリーヴは、自分がからかわれたのだとようやく理解した。
「ひどいな、一瞬マジかと思った」
まさかこの男が冗談をやるとは思ってもみなかったクリーヴは、ほっとしたはずみに笑顔になる。テーブルには笑いがあり、レストランのウェイターは、それを“楽しげな様子”と見てとり、コーヒーのおかわりを勧めにやってきた。
ここにいるクリスは普通の男に見える。普通と言い切ってしまうには、独特の雰囲気があるが、少なくとも“狂気の画家”には見えない。あの絵もそうだとクリーヴは考えた。ほとんどの場合は普通の絵。しかしある瞬間には、まったく違う顔を見せる。この瞬間においてクリーヴは、クリスの持つ“まったく違う顔”について、思いを巡らせることはまったくなかった。久しく味わったことのない和やかな空気にすっかり安心したクリーヴは、今日はじめて見る“クリスの普通の側面”を快く受け取っていた。鼻血の件については謎のまま。うまくはぐらかされたとクリーヴが気づいたのは、それからずっとずっと後のことだった。
店を出て、街を歩きだす二人。少し静かな通りに入り、クリスは「人と食事をするのは久しぶりだ」と、再度言った。
クリーヴは訊く。「いつもひとりで食事を?」
「ああ」頷くクリス。
「恋人は?」
「いない。最後に別れてからずいぶん経つ」
「もったいないな、きみみたいな男がひとりだなんて。女が放っておかないだろうに」
クリーヴが明るくそう言うと、クリスはまるで“無礼をはたらかれた”というような、しかめ面を浮かべた。
「ごめん」即座に謝罪するクリーヴ。「きみ、もしかして女性が嫌いだとか?」
するとクリスは笑い「おれが最後に別れたのは“ガールフレンド”だよ」と、自分の性癖を明らかにした。
たった今、“女が放っておかないだろう”と言ったばかりであるにも関わらず、クリーヴはクリスに“ガールフレンド”なる者がいたことに、どこか違和感を感じていた。ボーイフレンドならしっくりくるかと言えば、それもまた違う。このハンサムに恋人がいたとしても、何ら不思議ではないはずだが、クリーヴは何故か、“恋人がいるクリス”というものをイメージすることができなかった。
そこにふと、パンの言葉がよみがえる。『あいつがネクタイをしめて会社に通うことを?』。そうだ、それも少しも想像できない。タイムカードをガチャンといわせ、電話をとり、コンピューターに向かう。かつて自分がやっていたようなそれは、おそらくクリスにはできはしないだろう。判で押したような日々。そうした一般的なことが向いていない者も世の中にはいるものだ。
クリーヴの兄、レイモンドもまた社会生活には向いていなかった。父親はそのことを憂いていたが、クリーヴはむしろ兄を羨ましいとすら感じていた。社会に迎合できないことは“一部の者に与えられた特権”のように思えたからだ。たとえ本人がそのことを疎んでいたとしても、それは何らかに選ばれた印なのだ、と。
そして自分は選ばれなかった(誰から? それはわからない)。選ばれたのは、兄。そしてここにいるクリス。彼らは間違いなく“選ばれし者”だ。しかしその印は通常は表立って現れない。かのイエス・キリストも、サマリアの水汲み女から見れば、普通のユダヤ人に過ぎなかった。ここにいるクリスが普通の若者に見えるのも、レイモンドが愚息に見えるのも、それはよくある話なのだ。
夜道を歩きながら、クリーヴは言う。
「クリス、きみは思ったよりも……今は普通だな」
「普通?」
「もっと近寄りがたい印象があったから。正直、最初は少しビビったよ。あの玄関でぼくのことを睨みつけて」
「睨みつけてなどない」不本意だ、と言いたげにクリス。
「きみは目つきが鋭いからな。そういう風に見えたんだ」
その言葉に、クリスはぴたりと歩を止めた。
「どうした?」クリーヴが振り向くと、クリスは「実はコンタクトレンズをやめてから、よくそう言われる」と言い、傷ついたような表情を浮かべた。
「目が悪いのか?」
「近視だ」
「どのくらい?」
「実を言うと、きみの顔もよく見えてない」
「そんなに? 危なくないのか?」
「危険はわかる」
「絵を描くのに支障は?」
「あると思うか?」
「ぼくの顔もずっと見えてなかったって? 一緒に食事までして、あんまりだな……」
「もっと近づけばわかる」
「どれくらい?」
「そうだな……」言って、クリスはおもむろにクリーヴに顔を近づけた。「これくらい」
それは体温が感じられそうなほど、唇が触れそうなほど近い距離だった。突然のことに、クリーヴの心臓はとまりそうなり、ふたたび動き出したそれは、動悸のスピードを増していた。
そんな彼の動揺を知ってか知らずか、クリスは微かな笑みを見せた。そっと静かに身を引き、「いい顔だな」と感想を述べて歩き出す。
先を行くクリスの背を眺めていると、ひとりの女性が彼を見つめていることにクリーヴは気がついた。知り合いだろうかと思ったが、どうやらそうではないらしい。その女性はクリスを見ているが、声をかけるそぶりはない。三十がらみのこの女は、どうやら単なる興味からクリスを見つめているようだ。クリーヴはそのことに驚きはしなかった。例え絵の具で汚れていたとしても、この男と寝たがる女は多くいるはず。金を払ってでもというホモの男もいるだろう。無精髭を生やし、汚れた衣服を着ていても、クリスにはどこか洗練された印象がある。それもそのはず、彼は数年前までセレブと肩を並べていたアーティストだ。そして自分はどんなに着飾ったとしても、クリスよりも決して見栄えすることはないに違いない。
誇りと屈辱がない混ぜになった複雑な気持ちで、画家の後を着いて歩くと、突然、視界が開け、クリーヴの目の前に川が現れた。道路を渡り、川の縁に立つクリス。柵に両手をかけて対岸を眺めている。クリーヴは彼の隣に並び、「どうしてここへ?」と質問した。「絵のインスピレーションでも求めにきたとか? いま描いているのは湖だと思ったけど……」
クリスはシンプルに答える。「川が好きなんだ」
夜のハドソン川は墨を流したように暗く、吹く風は冷たかった。向こう岸にある景色は、マンハッタンのきらめきには及ばない。しかしホボケンの夜景も、西海岸育ちのクリーヴにはそれなりに美しく写った。
風が吹き、沈黙が流れたが、クリーヴは会話を諦めず、またひとつ質問を見つけ出す。
「どうしてぼくを食事に誘ってくれたんだ?」
これについても短い返答しか得られないだろうと、彼は予測していたが、それは少しもその通りにはならなかった。
「ずっと以前……」クリスは川面を見つめながら、静かに話し始めた。「おれの部屋には人が住んでいたことがあった。パンが連れてきた絵描きの女だ。彼女は若く、とても才能のある画家だった」
何の話が始まるのだろうとクリーヴは思ったが、珍しく長文を話すクリスの邪魔をするのはよくないと、口を閉じていた。
「おれたちは同じベッドで眠り、同じ屋根を共有した。彼女は自分の画材を持ち込んで絵を描き始め……パンはそのことを喜んでいたな。互いの作品にいい影響が出ていると見ていたようだった。そう、おれたちはうまくいっていたんだ。だがある日、突然……」わずかに目を細め、言葉を切った後、クリスはふたたび話し出す。「彼女の様子がおかしくなった。顔色は悪く、震えている。とても動揺していて、普通に話が出来ないような状態だ。おれは外に出ていたので、自分の留守中に何かあったのだと思った。強盗か、何かそういったものに襲われでもしたのかと。なんとか彼女を落ち着かせ、おれは聞いた。“何があった?”。彼女はこう答えた」
クリスはクリーヴへ顔を向けた。
「絵が動いた───」
画家の髪は冷風に吹かれ、唇からは息が白く立ち上る。
「おれの絵が、キャンバスの上で動いたのだと、彼女は言った」
クリーヴはごくりと唾を飲み込んだ。クリスは川に視線を戻す。
「おれは言った。“そうか、疲れてるんだな。今日は早く寝た方がいい”。彼女は泣きはらした目をして、こう言った。“信じてないのね”───。その日から彼女は変わっていった。絵筆を取ることをやめ、ベッドから起きようとしなくなった。具合が悪いのかと聞くと、悪くないと言う。“別に何でもない。ただあなたの絵を見たくないのよ”、と。おれにはさっぱりわけがわからなかった……タバコ、持ってるか?」
クリーヴが持っていないと答えると、クリスは先を続けた。
「“この部屋に何かいる”。彼女はそんなことを言い出した。姿は見えないが、確かに何かが存在するのだと。おれにだけでなく、他の画家仲間にも同じ話を……繰り返し、繰り返し……。皆は“気のせいだ”と彼女をなだめた。“そんなものいやしない。疲れているんだ”。大方はおれの意見と同じ。彼女に同意する者は誰一人としていなかった。それがあまりに長く続くので、おれは彼女を病院に連れていった。入院すると一時的によくなったが、部屋に戻るとまた元の状態に……」
遊覧船が川を通ると、クリスの声が聞き取りにくくなった。クリーヴは距離を詰め、画家の真隣へと並ぶ。
「“目には見えないけど、確かにここには何かいる”。彼女はそう言い続けた。“あなたにはわからないの?”。おれは答えた。“わからない”───。でもそれは嘘だった」
「嘘?」
「おれは彼女の狂気を認めたくなかったんだ。おれたちは普通に……普通の……」クリスは言葉を探し、言いよどんだ。「……普通の恋人同士として、うまくいけばいいと思っていた」
ようやく見つけたその台詞はとても陳腐なものだったが、それがクリスの本当の気持ちであることを、クリーヴは正しく理解していた。
「その後、彼女とは?」そうクリーヴが聞くと、クリスは微妙な表現をした。
「いなくなってしまったんだ」
「それは……“別れた”という意味? あの部屋から出て行ったと?」
「たぶん」
「たぶん?」
「ある朝、おれが目を覚ましたら、彼女の姿はどこにもなかった。ベッドに入る前に身につけていたものは、床に脱ぎ散らかしてあって、携帯電話はテーブルに置いてあった。おれは不安になってパンに連絡した。彼女はずっと外出をしていなかったから、こんな風に突然いなくなるのは妙だと思ったんだ。パンと一緒に部屋の中をいろいろ調べているうち、おれは気がついた。彼女の靴がすべて揃っていることに。裸足で家出をするなんて妙だ。これは事件性があるとパンが言い出したので、おれは警察を呼んだ。服もピアスも外した状態で、彼女がどこに消えたのか……。警察は彼女の狂言ではないかと疑っていた。外部から人が入ってきた証拠は見つけられなかったんだ。失踪先に心当たりはない。パンもおれも四方八方、手を尽くした。探偵すら雇ったが、それでも彼女のことは見つけられなかった」
ひとりの人間が消えてしまった。これが家出でないとしたら、ぞっとする出来事だ。クリーヴは首をそびやかし「不思議な話だ」とつぶやいた。この話が恐ろしいのは、マンハッタンの犯罪率の高さを現しているからだろうか。それとも奇妙な事が身近に起こりうるという恐怖からだろうか。
「今から十年以上前の話だ」とクリス。「長く時が経って、今おれが思うのは……“彼女は向こう側に行ってしまった”ということだ」
これは何かの比喩なのだろうかとクリーヴは思った。行方不明の詩的な表現だとしたら、“どこに?”と聞くのは無粋すぎる。そのかわり、聞いておきたい肝心なことを訊ねた。
「彼女の名前は?」
クリスは鼻から息を吐き出し、ゆっくり正確に、その名前を発音した。
「クリス───」言って、微かに──ほとんど気がつかないほど、微かに笑みを浮かべる。
「彼女はおれと同じ名前を持ってた。おれたちは同じ音でお互いのことを呼び合ってたんだ」
川べりで身の上話を聞いて以来、クリーヴは積極的にクリスを監視することをやめていた。食欲は戻り、それにともない使命への意欲もふたたび沸いていたのだが、これまでのように“ずっと見張る”というやり方は、あまり有効でないように感じていたからだ。
今のところ、どうやら追い出される気配はないようだし、それならばいずれシッポをつかむことができるかもしれない。これは長期戦だとクリーヴは思った。しかしそれぐらいの覚悟はできている。仕事を辞め、大切にしていたバイクも売り払ってきたのだ。決心は元より並大抵なものではない。
アトリエの台所は、今やクリーヴの部屋だった。キャンプ用の簡易コンロを買って、コーヒーを淹れたり、卵をゆでたり。生活を工夫し出したのは、ここに長く腰を据える前提でのことだ。暮らしの中に居心地のよさを求めるのは自然なこと。この真冬に水と果物だけで何日も生きていこうというのは、修行中の僧侶か、変わり者の絵描きくらいのものだ。
その日、クリーヴが買い物から戻ると、既に製作は終わっており、クリスはベッドでぐっすりと眠り込んでいた。アトリエにおける奇抜な行為には慣れたと思っていたクリーヴだが、それはどうやら甘かった。眠る画家の姿を見たクリーヴは、ぎょっとし、思わず買い物袋を取り落としそうになった。クリスはいつものように裸で眠っていたが、その状態はいつもとは異なっている。赤や緑、青、黄色など、とりどりの絵の具が彼の身体に塗られているのだ。腕と足、首筋、胸から腹へ、顔へのペイントは戦いに赴くインディアンを思わせる。裸の人間に絵の具を塗り、キャンバスに体当たりするというポップアートの手法があるが、クリスの絵画はもちろんそんなやり方を好むものではない。描きかけのキャンバスは従来通りの顔を見せていることからも、これはジャスパー・ジョーンズのポップアートとはわけが違うようだ。
何のためにこんなことを、とクリーヴは思ったが、ふと絵の具の道筋に、ある法則が存在することに気がついた。顔料が混ざり合って泥のようになっている箇所、それはとりわけ神経の集中する部分に限られている。画家の両手にべったりと絵の具が付着していることと、彼の下半身のある一点に向かって伸びた色は、クリスが何をしていたのかを推測するのに易い証拠となっている。
小さな唸り声を発し、カラフルな男が目を覚ました。クリーヴは画家の裸体を凝視していたことにきまりの悪さを感じたが、あえて目を逸らすことはしなかった。制作時に勃起しているクリスが、ときどき睾丸の中身を空にしたいと思ったからといって、何の不思議があるだろう。ただマスターベーションの方法としては、ずいぶんと独創的と言えるだろうが。
「こんなことをしていたら鉛中毒になる」と、クリーヴは画家に忠告した。油彩絵具はシルバーホワイトなど、その種類によっては鉛を含むものもあるのだ。
クリスはベッドに横たわったまま、「絵に詳しい」と、つぶやく。
「以前はよく描いたんだ」と、クリーヴ。
「以前は? 今は?」言いながら身体を起こすクリス。
「今はマウスを使って簡単なグラフィックを描いてる。ここに来る前までは広告代理店に勤めてたから」
「絵筆は?」
「フォトショップのツールでならなんとか。長い残業を終えた後に、油絵にとりかかるほどの情熱はないね。ところでコーヒーの豆を買ってきた。きみも飲むかい?」
「ああ」
「その前に窓を開けてくれ。せっかくのアロマが絵の具の匂いと混ざってしまうから」
クリーヴはやかんをコンロにかけ、お湯を湧かし始めた。立ちのぼる蒸気は、窓からの風に吹かれ、現れたり消えたりを繰り返している。
絵筆を持たない理由として、彼は長い残業と情熱の欠如をあげたが、それは嘘だった。足りないのは時間ではない。油絵にとりかかる情熱がないのは事実だが、それ以前に最も大切なものが欠如している。それは……霊感だ。芸術の霊感。アートのインスピレーション。クリーヴの元には何も光臨せず、精霊の羽ばたきひとつ聞こえてこない。遥か昔、絵を描くことが楽しくてたまらない時期も、彼には確かにあった。食事もそこそこにキャンバスに向かい、絵の具が乾く間もなく、筆を動かす。ケーブルテレビで絵画の特集番組があれば必ず録画したし、地元で展覧会が開かれれば兄を誘って観にも行った。丁寧で小奇麗なクリーヴの絵は、親や親類たちに評判がよかった。ロッキー山脈を描いたときには、コロラド州出身の叔父が喜んで購入し、そうしたことはクリーヴにとって、いい小遣い稼ぎにもなった。一方、レイの絵は、多くの者に気に入られる作風とは言い難い。扱う色合いは暗めで重たく、筆跡を激しく残したタッチは、パワフルではあるが、乱雑にも見えた。叔父は「新居の壁に飾るには、クリーヴの絵が相応しい」と言ったが、それは若き絵描きにとって、あまり喜ばしい種類の褒め言葉ではなかった。
本当に素晴らしいのはレイの絵だ。クリーヴはそのことをよくわかっていた。悲しいことに、この兄弟たちだけが、自分の作品の価値を正しく理解しており、そのおかげでクリーヴの絵はよく売れた。近所の主婦が結婚記念日に何か描いてほしいと言えば、それに応えて静物画を制作し、いとこが亡き愛犬の姿をそばに置いておきたいと言えば、バセットハウンド犬をユーモラスに表現した。絵を売った金でオートバイを買うことはできたが、クリーヴの芸術家としての部分は、その成果には少しも満足していなかった。
外は雪が降っている。クリスが揮発性のクリーナーで身体を洗ったため、窓は開け放たれたままだが、フレーク状の雪を眺めながらコーヒーを飲むのは、そう悪いものではない。裸でシーツにくるまるクリス。見た目にはとても寒そうだが、彼自身は少しも気していないようだ。熱い液体は二人の身体をほどよく温めてくれた。
「兄をきみに会わせたかったよ」
ここへ来た原因が何であったか忘れたかのように、クリーヴは言った。
「兄のレイモンドは画家だった。それで食べていたわけじゃないけど、彼は間違いなくアーティストだったんだ」コーヒーに口をつけ、上唇を舐める。「さっき、ぼくが絵をやめた理由を言ったけど、あれは本当じゃない。本当はレイがいたからだ」
クリスはカップを手に持ったまま、じっと言葉に聞き入っている。
「彼の存在があったから、ぼくは描き続けることができなくなった。死ぬ間際のレイは天才だったと思う」
本物の天才を目の前にして言うべき台詞とも思えなかったが、クリーヴにはそれが真実だった。絵を描く二人の兄弟。家族は弟を褒めたが、弟は兄の方が勝っていると知っていた。家族の中に天才がいて、どうして同じ道を志すことができるだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチの師であるヴェロッキオは、若干ハタチのダ・ヴィンチの絵を見、その存在感に圧倒されて以来、二度と絵筆を取ることはなかったと言われている。知る勇気と、見極める目を持っているとすれば、時に真実は苦痛以外の何ものでもない。
クリーヴはふたたび、今度はもっと感慨深く、「兄をきみに会わせたかった」と、つぶやいた。
きっとレイは自分よりもっと多くのことをクリスと理解し合えたに違いない。なんといっても二人は素晴らしい芸術家同士なのだから。自分にはこの部屋の特別性はわからないが、レイならばきっと何かを感じ取ることに成功したはず。自分ではなく、レイがここに来るべきだった。エデンの東に追放されるべきは、兄ではなく弟の方なのだ。兄は生きて、絵を描き、そしてクリスに会うべきだったのだ。
強くそう思うクリーヴの考えを読んだかのように、クリスは静かに話しだした。
「何に意味があって、何に意味がないか……」
クリーヴが顔を上げると、天然石のようなクリスの目がそこにあった。
「起きたことにはすべて意味がある。おまえの兄はおれと会うことはない。これまでも、そしてこれからも」
それは奇妙な表現だとクリーヴは思った。レイは既に死んでいるのだ。“これからも”会うことはないのは当然のことではないだろうか。
「おまえがなぜここに来たか、おれは知らない」とクリス。「おまえもまた、なぜここにいるかを知らないでいる」
ここに来た目的についてはもう言ったはずだ。それをクリスが忘れているとしても、少なくとも自分自身はわかっている。これ以上ない明確な目的があってやってきたのだから。それを“知らない”とは、一体どういうつもりなのか。
クリーヴは画家の意見に反論したかった。でなければせめて、今の言葉の意味を問いたかった。しかしクリスの燃える瞳に見つめられると、すべての言葉は焼き尽くされてしまう。人から凝視されるのは、クリーヴにとって決して楽なことではなかったが、ここで目を逸らしてしまいたくはなかった。もし自分たちが、クリスの言うように“何も知らない者同士”であれば、見つめることで何かを発見できるかもしれない。
無知なる者に残された手段はわずかなもの。クリスの瞳には炎が宿り、肉体は見つめるごとに薄れ、今にも消えてしまいそうだ。時が過ぎれば肉は朽ちる。それは洞窟に埋葬されたラザロのように。魂の容れ物である身体は、死後三日を経過し、今にも崩れ落ちんばかりになっていく。
今にして思えば、レイは死ぬ間際、己の肉体を燃やしつくしていたのだ。精神性に重点を置いていた兄は、滋養のある食事を摂ろうとはせず、女性と性的な関わりも一切持とうとしない。クリーヴはレイの言う“身体はただの容器である”という考え方には、さほど共感することはなかった。それは自分が俗なものと切り離されないためだと思っていたが、ここへきてクリスを見、新たに発見したことがある。肉体はとてもシンプルなものだ。エネルギーを満たした身体は汗をかき、勃起に至る。“俗なもの”と呼ぶのも、“ただの容器”と呼ぶのも自由だが、いずれにしてもそれは観念のひとつに過ぎない。
身体に対して、レイは極東の僧侶のような厳しさを持っていたが、クリスにはそうしたストイックさは感じられなかった。絵の具まみれの彼は淫靡そのもので、“肉体を使った行為”を放棄していないことも明らかだ。
雪は夜半過ぎまで降り続き、マンハッタンの夜を白く染め上げた。街それ自体が聖地となった夜、クリーヴは久しぶりに兄の夢を見た。レイは体中に炎をまとわりつかせていたが、顔には微笑みがあり、とても幸せそうだった。クリーヴは彼に“今どこにいるのか”と聞いたが、レイは笑って答えなかった。目が覚めた後は奇妙な気持ちになったが、この夢に意味があるとは思えなかった。“すべてに意味がある”とクリスは言ったが、夢は夢だ。分析することが重要だとはクリーヴには思えない。しかし何かに近づいているのだということだけは、確信が持てた。その自信がどこからくるのかは、まったくわからなかったが。
この夜は、クリーヴがクリスを外に連れ出した。パンの強引さを真似て、食事に行こうと提案したのだ。クリスは思いのほか大人しくクリーヴに従った。パトロンには“行きたくない”とゴネていたくせ、今回素直に同意したことに、クリーヴは少なからず喜びを感じていた。
彼らは先日よりも遠くのレストランに足を伸ばし、先日よりも多くのアルコールを摂取し、先日よりも長く席に留まった。おかげでクリーヴは店を出たとき、足下があやうかったが、それでもタクシーを拾うことは拒否。歩いて帰ることを彼は望んだ。
タイムズ・スクエアには人だかりがあり、見るとそこにはひとりの大道芸人が立っていた。カウボーイハットをかぶったその男は、アコースティックギターを演奏している。そこまでは普通だが、変わっているのは彼の衣装だ。ペイントを施したブリーフ以外、何も身に付けてはいない。傍らの看板には『裸のカウボーイ』と書いてあった。
クリーヴは目を細め、「マンハッタンにはおもしろいアーティストがいるな」とつぶやいた。
「この寒空にあんな格好をするなんて。親父が見たら笑うだろうに……」
近くにいた中年男がそれを聞きつけ、「親父さんに写真をどうだい?」と、クリーヴを促す。「チップは彼のブーツの中に入れるんだ。おれがシャッターを押してやるよ」
「いや、いいよ」クリーヴは苦笑し、断った。「それに裸のアーティストなら見慣れてる。珍しくもない」
アルコールの効果は甚大だ。今夜のクリーヴはとても愉快な気分で、いつもよりずっと饒舌になっていた。
「なあ、クリス。きみは裸をいやらしいとは思ってないんだな」
歩きながら、くだけた口調で画家に話しかける。
「それに恥ずかしいとも感じていない。どうしてだろうとぼくは考えたよ。そして一緒にいるうち、何となくわかってきた。きみにとって肉体は……何て言うか……聖なる……何かもっと……良い容れ物のような……」
ワインのせいで思考力が低下している。クリーヴが適切な言葉を探していると、クリスが不意に「神殿?」と聞く。
「そう! それだ!」
思わず大声を出すクリーヴに、軽く笑いを浮かべるクリス。その表情は晴れやかなものだったが、どういうわけかクリーヴの胸は締め付けられ、苦しくなった。
「ぼくはあんなふうに服を脱ぐことはできない」とクリーヴ。「やっぱり恥ずかしいからね。見られているとわかったら、勃起することだってとても無理だ」
「おれだって別に好き好んで見せてるわけじゃない」クリスはタバコを取り出し、口に咥えた。「おまえが勝手に見てるだけで」
「まあ、そうだけど」
クリスは少し立ち止まってタバコに火をつけた。マッチの火に照らされ、輪郭のラインがはっきりと浮かび上がる。どこか冷たさの感じられるその横顔に、クリーヴは強く視線を奪われた。
「きみの身体は神殿だ。特別な人間。少し……うらやましくもある」
「誰の身体であっても同じことだ。おれが特別なんじゃない」
どう見ても特別としか思えない男はつぶやき、煙を吐き出した。
「やあ、兄さんがた」前歯の折れた若者が、ふらりと現れ、「1ドルもってないかい?」と、二人の前に立ちはだかった。クリスは黙ってポケットからドル札を取り出す。差し出したそれは5ドルだ。若者はぱっと顔を輝かせ、「サンキュー」と礼を述べ、去って行った。
「きみが特別じゃないとしたら」クリーヴは訊いた。「あの男の肉体も神殿か?」
「そうだ」とクリス。
「ぼくにはとてもそうは思えない。あいつはただのタカリだろ。特に美しいとも思えないし……。“誰の肉体であっても同じ”というのは、悪いが詭弁に聞こえるね。“同じ”なんて言ったら、美しくあるべく努力している奴はどうなるんだ? 努力とか個性とか、もっと言えば神からの賜りを否定しているようにも思える」
クリーヴは早口でまくしたてた。“自分は選ばれなかった”という彼の劣等感が、若者の感情を激しいものへと変化させている。
「つまりきみは自分の特別さを、そうやって否定したいだけなんじゃないか?」
「かもしれない」
「ハル・ベリーやアンジェリーナ・ジョリーであれば、肉体の神殿という言葉も似合うけど」
「それがおまえの好みか」クリスは唇の端を上げ、笑った。
「俗っぽいって言いたいんだな? 別にいいさ。でもきみだって、さっきのタカリ男とアンジーのどちらかを選べって言われたら、選択の余地はないはずだ。それぐらいの違いはわかるだろ?」
「いや……どうかな」クリスは静かにつぶやいた。「おれにはさほど変わらない」
そのコメントに、クリーヴは小さく肩をすくめた。「まあ、きみは目が悪いと言ってたしな。でも大概の人は“違い”を感じるんだ。特別な人間とそうでない人間の……。なあ、きみは本当におれの言っていることがわからないのか?」
「そんなことはない。わかるさ。言わんとすることはな」
「じゃあ、続けるけど……。もし“誰もが同じ”なのであれば、さっきの奴は人から金をたかるよりマシな仕事ができるはずだと思わないか? たとえば服を脱いでカウボーイハットを被ってギターを弾くとか。でも彼がただ服を脱いだところで、ネイキッド・カウボーイのようにチップを稼げるとは思えない。だろ?」
「そうだな」
「そういうのはどこに違いが?」
「違いは“本人がそれに気づいているかどうか”だ」
「気づいていることで違いが?」
「おそらく」
言われてみればそうかもしれないとクリーヴは思った。もし自分の肉体が神殿だと知れば、脳味噌まで薬づけになったり、成人病になるまでジャンクフードを貪り食ったりはしないだろう。神殿に納めるものは、いつも特上のものと相場が決まっているからだ。
「兄は“身体のレベル”には関心を持たなかった……」弟は昔を思い出しながら話し始めた。「“身体のレベル”──レイモンドはそういう言い方をしてたんだ。肉体よりも高いところに彼は行こうとしていたんだと思う。女と付き合うこともなかったし、たぶん死ぬまで童貞だっただろうな。もしかしたらセックスを嫌悪していたのかも」
精神性ばかりに重きを置いていたレイ。最終的には自らの神殿を燃やし、破壊した。それは肉体に無関心ということになるのだろうか?
「ぼくはセックスにも普通に興味はあったけど……でもそのせいで、自分がレイほどには、芸術の高みに登りつめられないのかと考えたこともあったね」
「欲望を持つことが?」
「性的な欲望がね。創作の邪魔になるのだろうかと」
「欲望と芸術は時に切り離せない」クリスは断定して言った。「過去の絵画を見てみろ。バテシバの沐浴は欲望の免罪符だ」
「それはどうだろう。偉大な画家の全員がそんなことを考えていたというのは賛成しかねるな」
「そうか? 聖セバスチャンの絵を描く画家のペニスが、平常時の大きさだったとどうして言える?」
「ミケランジェロがダビデ像を彫りながら勃起していたとでも?」
「かもしれない。残念ながらダビデの方はその気はなかったようだが」
冗談めいたクリスの言葉に、クリーヴは声を立てて笑った。確かにミケランジェロのダビデのペニスは、平常時以下の大きさに留まっている。
西洋芸術の歴史は、教会のモラルとのせめぎ合いの元に成り立ってきた。男の裸をセクシーに描こうとすれば、それは必ず天使か聖人でなければならない。裸体の上には布を描き、極めて不自然な形で股間を覆い隠す。ペニスひとつで大騒ぎするくらいであれば、神は始めからアダムを去勢しておけばよかったのだ。
ふいにクリスがつぶやいた。
「おれはもう、そう長くないような気がする」
たった今、冗談を言っていた口から、死にまつわるコメントが出た。それ自体ジョークのようだが、クリスは少しも笑っていなかった。
クリーヴは努めて明るく、「そういう人ほど長生きするんだ」と言葉を返す。まだ若く、見るからに健康そうな肉体を持つ男の寿命が、あとわずかなどと、いったい誰が信じるだろう?
クリスは目を細めて道の先に視線をやり、「誰かに秘密を分かち合う時期なのかもしれないと……」と、独り言のようにつぶやいた。それは実際に独り言なのだろう。クリスはクリーヴを見てはいなかった。この世のどこにも、その視線は据えられていない。
雨が降ってきたが、ふたりは黙って歩き続けた。アパートに着くまで、クリーヴは二度ほど、クリスの横顔を盗み見た。形のいい鼻先から、雨の雫が滴っている。濡れ鼠になっていても彼は男前だ。クリーヴはそのことを、もう羨ましいとは思わなくなっていた。
「寒くないかい」前方に視線を据えたまま、クリーヴはつぶやく。
クリスは何も返事をしない。画家のこうした反応にも、今やクリーヴは慣れていた。
「ぼくは寒いよ。きみは? 寒くない?」
「……ああ、寒い」
その後はお互い無言だった。同じ寒さを感じているというだけで、クリーヴは満足だった。
まずクリーヴが感じたのは匂いだった。
オレンジのような柑橘系の香り。どこか人工的で、車の芳香剤にも似たものがある。はじめは気のせいかとも思えたが、その甘ったるさは、徐々にはっきりと鼻孔に訴えかけてくる。
「こっちへ来てくれ……」
クリスの声は優しげで、クリーヴを妙に緊張させた。
「静かに……こっちへ……」
ささやくクリス。これは性行為の誘いなのだろうかとクリーヴは思った。仮にそうであったとしても、自分は応じられない。これまで一度も、男の肉体に興味を持ったことはないのだから。
いつものようにキッチンの床で眠るクリーヴを、クリスが揺り起こしたのは深夜三時のことだった。そんなふうに起こされるのは、ここへ来てから初めてのことで、クリーヴは目をこすりながら、いったい何があったのかと聞いた。しかしクリスは訳も言わず、盲しいた者を導くようにクリーヴの手を引いて、台所からアトリエへ案内した。
「怖がることはない」と、クリスは言った。ベッドサイドのテーブルには、小さなロウソクがひとつ立っている。明かりに反射し、白いシーツが妙にはっきりと、その姿を浮かび上がらせる。
「クリス……ぼくはその……きみのことは嫌いじゃないけど……」
しどろもどろになるクリーヴ。彼の唇に、クリスは指を一本置いた。歯と歯の間から、シーッと音を吐き出し、「静かに……」と行動を制する。
「手を出せ」クリスがそう命じると、クリーヴはまるで催眠にかけられたかのように、片手を差し出した。画家はその手を取り、「触って……そっとだ……」と指示をする。
言われるまま、クリスに触れようとすると、指先に何かがぶつかった。
「そうだ、そこだ」クリスは頷いたが、何が“そこ”なのか、クリーヴにはわからない。指先には何もなく、クリスの身体にはまだ届いていないのだから。
「触ってみろ」とクリス。その指示にクリーヴは困惑した。“さわってみろ”───でもいったい何に? その疑問の答えを、クリーヴは己が手に感じ取っていた。触れているのは柔らかな毛だ。鳥の羽毛のようでもあり、子猫の毛のようでもある。“感触”は確かにそこにあった。だがしかし、肝心の“存在”がそこにはない。手に触れているのは間違いなく物質的なもの。しかし目に見えるのは床と自分の足だけだ。
クリスはクリーヴの腕を掴み、誘導するようにして、その“存在”にクリーヴの手を押し付けた。すると、柔らかな毛がよりはっきりと感じられる。毛の下には肉があり、いくつもの関節がゆっくりと移動している感触がある。どうやらこれは温かく、命を持っている何かのようだ。しかし目には何も見えない。ここにあることは間違いないというのに、何度まばたきをしても、その生き物をクリーヴは視覚で確認することができなかった。
なんだこれは? いったい何なんだこれは? クリーヴは頭のなかから、この物体に該当するもののデータを探したが、それは何ひとつ見つけられない。強いて言えば“透明人間”ということか。しかしこの毛むくじゃらの生き物が、“人間”などではないことは、その感触から分かりきっている。
「これは……いったい……?」
セクシーな展開にうろたえていたことも忘れ、クリーヴはたどたどしく言葉を振り絞った。
「こいつは生きてるな……? 生き物だ。透明な生き物。そうだろう?」
自分の発言を確認するように、手の中で脈打つ“それ”を握る。ぎゅっと力を込めると「強く掴むな」と、クリスから警告された。
「そうっと触れてやれ。優しく……」
初めてウサギに触れる幼児を諭すような口調。クリーヴは毛の流れる感触に沿って手を動かしたが、どこまで行ってもそれは途切れることはなかった。形状から察するに、地球上のいかなる動物とも似てはいない。せめてこれが犬や羊のようなものであればクリーヴはいくらか安心することができただろう。しかしここにいる“やたら細長い生き物”は、明らかにそのどちらでもないようだ。
「なんてこった、クリス……こいつは……」
クリーヴは手を引っこめ、すがるようにクリスに視線を向けた。画家の顔には微笑が浮かんでいる。
なぜ笑う? この化け物を前にしてなぜ笑うんだ? 傍らの男が自分の精神の正気を保つ助けにならないことを、クリーヴはその笑みによって知らされた。
クリスが宙に腕を伸ばすと、シュルッという衣擦れの音と同時に、彼が羽織った白いシャツに不自然な形で皺が寄った。
「こいつはロング・ジョンだ」とクリスは言う。そしてやんわりと腕を丸め、何かを抱えるような仕草をし、何もない空間に優しいまなざしを向けた。
シャツの皺とクリスの動きから、何らかの形を推測するならば、“ロング・ジョン”とやらは、ぐるりと幾重にもクリスの身体に巻きついていることになる。
「なんてことだ……」
クリーヴは自分の目を疑った。“見えていない”にもかかわらず、彼は“自分の見ているもの”が信じられなかった。
「こわいか?」
クリーヴに視線を向けることなく、クリスが言う。
「こわがることはない」
クリーヴはその言葉が自分に向けられているのか、それとも“ロング・ジョン”に向けられているのかわからなかった。クリスの視線は依然、自分の身体のまわりに、愛しげに据えられたままだ。
「なにもこわがることはないよ、クリーヴ」言って、画家はようやくクリーヴを見た。緊張に上唇をなめるクリーヴ。鼻孔にはオレンジの香りがあり、それはますます強くなるようだった。
「クリス、こいつは何だ? どんな生き物なんだ?」
何が起きているかもわからずに、“恐れるな”というのは無理な注文だ。
「ぼくにわかるように説明してくれ」
「これが何か知りたければ、触ってみるといい」
「さっき触った、もういい。こいつは何なんだ?」喋るうち、クリーヴの声には徐々に力が戻ってきた。
「おれには説明できない」とクリス。「こいつを感じてみろ。それが答えだ」
言われ、クリーヴは再度、チャレンジすることにした。クリスの胸のあたり手を伸ばすと、指先が柔らかな毛に出会う。上等な毛皮のような手触り。その下にうごめく筋肉と骨があるのは、さっき触って検証済みだ。
「これはなんだ? 全体像はどうなってる? 手足はあるのか? 知能は?」その問いかけに、クリスは眉間を曇らせた。画家の表情の変化から、自分が陳腐な問いかけをしてしまったことをクリーヴは悟り、「ロング・ジョンって名前は何なんだ?」と、質問の方向性を変えた。
「名前はおれがつけた。呼び名があった方が、こっちも判別しやすい」
「判別?」おうむ返したが、クリスは答えない。
クリーヴは窓へ視線を移した。外が暗いため、ガラスが鏡のようになっている。そこに見えざるモンスターの姿があるのではという期待も虚しく、写っているのはキャンドルの明かりと自分、そしてクリスだけだった。
「ロング・ジョンか……」ため息をつくクリーヴ。想像するに、これは毛むくじゃらのニシキヘビといったところだ。もしくは中国の神話のドラゴンか。いずれにしろ、この神秘現象につける名としては、“ロング・ジョン”はずいぶん俗っぽく聞こえる。
「それで? ぼくにどうしろと?」つやつやした皮毛を撫で、クリーヴは開き直ったように言った。「まさかロング・ジョンのエサになってくれとか言うんじゃないだろうな」
クリスはくすりと笑い、「まさか」とつぶやいた。「別にどうも」
「ただきみの友達を紹介してくれただけだと?」
「そうだ」
「他にロング・ジョンの存在を知っている者は? パンはこれを何と?」
「いいや、彼は知らない。おれ以外は誰も」
「知っているのはおれときみだけ? それはどうして……」
「クリーヴ」名前を呼び、人差し指を唇の前に立てる。それは確実に効果があり、クリーヴはこれ以上何も質問ができなくなった。
「おやすみ」その静かなつぶやきに、クリーヴは戸惑いつつも「うん」と頷かざるを得なかった。
寝ることを促され、ふたたび寝袋に入ったものの、安眠はなかなか訪れなかった。たった今、あんな奇妙な体験をしたのだから当然だ。
見えざるドラゴン、ロング・ジョン。あれがこの部屋に宿るエネルギーの正体なのだろうか? 絵に力と魔法を与えているのがあの生き物だと? それは充分考えられる。つけられた名前は安っぽいが、あれはまさしく神秘そのものだ。クリスは“おれの絵に題はない”と言っていた。おそらくこの画家は、“名称”に重要な意味を感じていないのだろう。あの神獣に下らない名前をつけていることがその証拠だ。
しかしそれよりもっと下らないのは自分の発想だとクリーヴは思った。さきほどクリスに起こされたとき、自分はいったい何を考えていた? それを思うとクリーヴの頬は熱くなった。性的な誘いを受けたなどと、一瞬でも勘違いしたことが恥ずかしい。自分は何と浅はかなのだろう。本物の神秘がやってきているとも知らず、どうやってクリスを断ろうかなどと、懸命に考えを巡らせていたのだから。
凡庸で俗っぽい自分につくづく嫌気がさしていると、リビングから短い悲鳴のような声が聞こえた。
「クリス?」
上半身を起こし、音のした方に耳を傾ける。部屋はまったく静かで、気のせいだったかとクリーヴはふたたび横になろうとした。するとまた──今度はよりはっきりと呻く男の声がした。おそらく声の主はクリスだ(他に誰がいる?)。聞き耳を立てると、苦しげな息づかいが聞こえてくる。クリーヴは立ち上がり、音を立てないよう、注意深く動き出した。これがクリスの寝言であればいいと思いながら、切れ切れに聞こえる声に耳を澄ます。
何と言ってもさきほどの超常現象の後である。クリーヴの足はすくみそうになっていたが、好奇心が恐れに打ち勝った。彼は固唾をのんでクリスの元へと近づいていく。キャンドルは消され、部屋には闇が満ちている。窓からの月明かりはほとんど頼りにならず、自分の足下すらよく見えない状態だ。
クリスの姿は寝台にあった。横たわり、ブツブツと何かをつぶやく声がする。
十字架か、聖水か。あの化け物には何が有効なのだろう? それとももっとストレートに、ショットガンで追い払うべきか。手ぶらであることをクリーヴは後悔したが、そもそもこの部屋には、武器になるようなものは何もなかった。
くすくすと笑う声が耳に届き、クリーヴは足を止めた。クリスだ。彼は笑っている。
「駄目だよ……ロング・ジョン」
それは驚くほど親しみにあふれた声だった。
「そんなふうにしたら痛いだろう? もっとゆっくり……」
息を詰めるような音が続き、「いい子だ」と、飼い犬を褒めるような言葉が聞こえた。
「ゆっくりだ……ロング・ジョン、そう……あ…ぁ……」
声に吐息が混ざりだし、ベッドがぎしぎしと音を立て始める。
「ああ、そうだ……そう……」
鼻をならすような声、痛みにたえるような声、くすぐったいのを押しとどめるような声、泣き出したいのをこらえているような声……これらの音をひと言で現す行為をクリーヴは知っていたが、なんとしてでもそれは認めたくなかった。
“ロング・ジョン”───。俗な名前の由来はこういうことなのか? 甘ったるい香りに吐き気をもよおしながら、クリーヴは数歩、後ずさった。そしてある地点でくるりと向きを変え、一目散にキッチンを目指す。寝袋に潜り込む直前、ベッドのきしみがひときわ大きくなった。クリスの切なげな叫びが長く尾を引いたかと思うと、それを最後に静寂がおとずれた。まだ何か聞こえないかとクリーヴは耳をそばだてたが、それからあとは静かだった。強く脈打つ、自分の心臓の鼓動以外───あとは静かだった。
昨夜、盗み聞きしたことは、決してクリスに知られてはならない。クリーヴはそう思い、緊張しつつ朝を迎えたが、今朝のクリスはまったく普通で、特に変わった様子も見られなかった。
シャワーを浴び、裸で絵を描く。それはいつも通りの光景だが、クリーヴの世界は何もかもが変わってしまった。昨夜は結局一睡もできず、そのおかげでクリーヴは、“あれは夢だったのだ”といった、ありきたりな幻想すら持つことができないでいる。しかし考えてみれば、自分はこれを突き止めたかったのだとクリーヴは思い直した。絵画に隠された秘密をあばくために、わざわざ寝袋まで買い込んでまでして、ここにいることを決意した。とは言え、真実を知ってみれば、真実はクリーヴの想像を遥かに超えている。こんな展開は、まったく予想だにしていなかったのだ。
昨夜と同じようなことがこれまでにもあったのだろうか? 自分が気づかなかっただけで、別なときにもああした行為は行われていたのか? それを考え、クリーヴは頭を振った。これならパンが相手の方がまだマシだ。
この件について、クリスが何か言ってくるのではないかと期待することはしなかった。これまでの様子を見ていればわかる。この画家は余計なことは決して言わない。たとえ質問したとしても、答えたくない、もしくは答えを持たない場合は、ただ黙って口を閉じている。昨夜までは、あの生き物について多くの質問を持っていたクリーヴだったが、“密会”に出くわした今となっては、もはや何も聞きたいとは思わなかった。ベッドでロング・ジョンと何をしているのだと訊ねる勇気はとてもなく、もし何らかの答えを得られたとしても、それはとても受け止められそうにない。そもそも質問するどころか、今朝のクリーヴはクリスの顔をまともに見ることができないでいる。あの淫らな声を聞いた後で、いったいどんな話をすればいいのだろう?
まるで両親の寝室の秘密を知ってしまった子供のように、クリーヴは落ち着かない気持ちになった。彼はこの日、ランドリーに行く名目で外に出かけ、一日ずっと、夜まで部屋にもどらなかった。
クリスは悪魔に操られているのかもしれない───。その新しい考えをクリーヴが見つけ出したのは、翌週の夜のことだった。
今度の奴は、たっぷりと水がはいった、丸みのある何か。よく言えば“ふくよかな”とでも言えるかもしれないが、クリーヴが真っ先にイメージしたのは、ぶよぶよとした巨大な胎児だった。漂う香りはベリーのようで、子供が好む安っぽいガムを彷彿とさせる。
名前はあるのかと訊ねると、クリスは「マミーとチャイルドだ」と教えてくれた。しかし“母親”と、“子供”の間に境目らしきものはなく、これが二体のものであるとは認識しづらかった。クリスは例のごとく「触ってみろ」と言ったが、堕胎児のような濡れた感触(不思議なことに、触れた手は濡れてはいなかったが)は、長く触っていたいとはとても思えず、クリーヴは文字通り、早々に手を引いた。
「この間の奴とはずいぶん違うな……いったいこいつらは何匹いるんだ?」
「さあ……」とクリス。「おれにはよくわからない」
「この他にもいるんだろ?」
「ああ」
「それはどんな姿なんだ? いや……姿はないか。感触だけだ。そうだな?」
「そうだ」
今回の奴に関しては、姿が見えなくてよかったとクリーヴは思った。もしこれが肉眼で確認できたなら、きっとグロテスクな格好をしていることだろう。ホラー映画さながらのイメージを思い浮かべ、彼は顔をしかめた。
「マミーにチャイルド…それにロング・ジョンか……。きみはネーミングのセンスはあまりよくないな」
何気ない口ぶりでそう言ったものの、本心ではこのブヨブヨに恐怖すら感じている。しかしクリスの様子があまりに穏やかなので、おびえることはもはや馬鹿らしくもあった。
「ぼくが何かもっとクールな名前をつけてやろうか? 北欧神話や黙示録からとったようなのを」
クリスは口の端を上げて笑い「それもいいな」と、つぶやいた。
「今夜もきみの友達を紹介してくれただけなんだろ?」
「そうだ」
「よくわかったよ。じゃあぼくはもう寝るとするかな」
クリーヴはわざとらしくアクビをして見せ、眠いことをアピールした。
「おやすみ、クリス」
「おやすみ、クリーヴ。いい夢を」
最後の台詞は皮肉だろうか? こんな状況下で見る夢など、決していいものではないだろう。それともこのおかしな現実よりは幾分マシなのか。
クリーヴは半ばウンザリしながら、床についた。しかし眠ろうと努力すればするほど目は冴えていく。何度目かの寝返りを打った後、やがて隣室からクリスの声が聞こえてくる。
───あぁ…マミー、あぁ…マミー……───
まるで母親とセックスしている息子のそれだ。相手は母親ではなく怪物なのだが、吐き気をもよおすという点では、どちらもそう変わりはない。
いったいどんな精神状態で、どんなつもりであんなことを? 川べりで、失踪した恋人のことを話すクリスは、とてもまともな男に見えた。芸術に関わるときは奇行めいたこともするが、普段の会話では頭がおかしいような兆候は感じられない。果たしてあの男が、悪意を絵の具に塗り込めるような真似をするだろうか。
自分の作品を“ただの絵だ”と言うクリス。もしそれが彼にとっての真実で、絵に呪いなど込めてなどいないとすれば……画家を操っているのは、あの存在たちなのではないだろうか? これまでクリーヴは“クリス自身が悪である”と予測していた。悪から生じるものが絵に作用し、そして被害者を作り出す。しかしここへきて、それは間違いだったかもしれないとクリーヴ考え始めている。
人を媒体として世に悪徳をはびこらせるのは、いつの時代も悪魔の成せる技だ。だがクリス自身がその被害者だとしたらどうだろう。彼は操られ、命を削ってまでして、絵を描かされているということも考えられないだろうか? 呪いの赤い靴を履かされた少女のように、自らの意思に反して───いや、もっと巧妙に、“自らの意思であるかのように信じ込まされて”、呪いの絵画を製作させられているのだとしたら……。
『起きたことにはすべて意味がある』とクリスは言った。それが真実ならば、自分がここにいることにも意味があるはず。どうしてクリーヴがここにいるか、クリスは知らないと言った。そして“クリーヴ本人にもわかっていない”、と。
謎かけのような言葉の意味を、クリーヴは徐々に理解しはじめていた。自分がここにいるのは復讐のためなどではない。悪意の出所を突き止める。それがそもそもの目的だった。悪の中心にはクリスがいると思っていたが、しかしそれこそが間違いだったのだ。ここへ来た目的を、意味を、確かに自分はわかっていなかった。それは───。
不意に隣の部屋からクリスの声がした。それは愉悦にまみれた叫び声だ。哀れな画家。なんという運命。しかし今は自分がここにいる。かつて思っていたのものとは、まったく別の意味で。クリーヴはそれを見つけられて満足だった。きっと兄も誇りに思ってくれることだろう。
バケツに筆を打つ音が響く。絵の具が飛び散り、床と足をいっぺんに汚したが、画家は気にするでもなく、一心不乱に手を動かし続けている。制作の間、彼は競走馬のように汗をかいていた。汗が玉になり、身体の上を転がり落ちる。
画家を長い踊りから解放する。自分がここにやってきたのは、おそらくこのためだとクリーヴは思った。恋人や家庭を持つことも叶わず、人間らしいすべてを放棄させられ、何らかの力によって芸術に従事させられる。それはいつ果てるともしれない消耗戦だ。
新たな決意を得、ここに住み続ける目的の意図と動機を変えたものの、クリーヴに手立てがないことには変わりはなかった。見ればわかるとレイは言ったが、“あれ”は見ることすら叶わない存在だ。見えざる敵との戦い。武器になるようなものも、知恵もなく、助け出そうとしている相手は、ほとんど悪魔の側にある。そのことを思うとクリーヴの気持ちは重くなったが、まったく希望がないわけではない。少なくともクリスは自分と怪物を対面させてくれたのだ。これでずいぶん仕事は楽になったはずだ。
クリスがそうとは知らずに悪魔から欺かれているのだとすれば、クリーヴはもっと注意深くいる必要がある。“きみの味方だ”とクリスに言ったところで、理解されるとは思えない。少し前までは仇だった者が、いきなり手の平を返したところで、よけい怪しまれるのが関の山だ。まずは信頼を得ること。それもまた、あまり簡単なこととは思えなかった。
〈後編へ続く〉