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「おはようロゼリア嬢」
「本日はお誘いいただきありがとうございます、ハルフォード殿下」
「今日、実はとても楽しみにしてたんだよ。暖かくて良い日になりそうで良かった。早速だけど着替えてもらって良いかな」
「かしこまりましたわ」
王妃様が用意させたという客室に王宮侍女に案内されると、そこには一見街中でも違和感のない、ごく普通の「裕福な商家の娘」に見えるような灰青のワンピースがかかっていた。
表地は綿だろうか、裾に鮮やかな青でささやかな刺繍がしてあるがほどよくくたびれている。しかし着せてもらうと、裏地は私が普段袖を通しているようなものと同じくらいの質の肌触りの良い生地が使われているのが分かった。高貴な身分の人間がお忍びで着る、専用に造らせた服なのだろう。
防寒にとウールの外套も羽織らせてもらう。こちらも見た目よりずっと質が良いのが触れると分かる。
「ドレスじゃなくても可愛いね。似合って良かった」
身支度が済むと、それを知らされたらしいハルフォード殿下にそんな事を言われて思わず顔が熱くなる。ごまかそうと無意識に髪を触りかけて、慌てて手を下ろした。私の、この国の平民には珍しい目立つ黒髪は貸してもらったウィッグの中に押し込めてある。
ゆるく編んで両サイドに下がっている暗めの茶髪が自分の髪の色と違うので、目に入るたびに違和感がすごい。
ウィッグはピンでしっかり留めてあるけど、うっかり触ってズレたりしたら変装だとバレてしまうから無意識に触れないように気をつけないと。
「ハルフォード殿下も、そのような装いもとても素敵でいらっしゃいます」
「ロゼリア嬢にそう言ってもらえると嬉しいな」
褒めたのはこちらなのに、私の頬が熱くなってしまう。
実際ハルフォード殿下の今日の服装はとても素敵に感じる。「休日の下級騎士」といった簡素な服だが、長い手足と鍛えた体が黒のベストとパンツによく映えている。挿し色に紫の縁がついた黒いコートも素敵だ。生成色のシャツは少しあけられて、鎖骨が覗いているせいでそこを直視できない。
ハルフォード殿下も特徴的な銀髪はアッシュグレーへと色が変わっている。髪の長い私と違って生え際が見える、どうやっているのだろうと思わずじっくり見てしまったら「洗うと落ちる染め粉だよ」と教えていただいた。私は黒髪だからウィッグにしたが、色が薄いなら染め粉を使った方が自然になるのだと。変装用のそんなものがあるのね。
度は入っていないのだろう、眼鏡を合わせるとまるで別の人みたいだ。
「じゃあ、行こうか」
「はい、ハルフォード殿下」
でも、声はハルフォード殿下そのままなので少し新鮮に感じるくらいだったが。
一度私達は王宮御用達のパティスリーから来た馬車を借りて、その街中のパティスリーから「店を利用した一般客」を装ってそのまま劇場に向かうことになっている。帰りは逆を辿る事になる。
私の後ろにはミモザが控える。普段の侍女姿ではなく、私と同じようなワンピース姿。殿下の背後には、2回目に乗馬を口実にお会いした時に一緒にいらした側近の方が立っていた。他にも当然分からぬように護衛は付くそうだが、二人は私達の友人カップルを装って一緒に観劇をする予定になっている。
エマとリリエはくじで負けたと、ミモザにしっかり内容を伝えるように約束していた。演目は春の王と暁の姫だから新解釈とはいえストーリーは3人とも知ってるはずなのに、「私達が今一番知りたい恋の行方がかかってますので」なんて言って、いやに熱心だった。
「そうだ、今日はその『殿下』をやめてもらわないと。お忍びにならなくなってしまう」
「あ……」
「じゃあ、私の事はフォードでも、ハルでも好きなように呼んで。……ロゼリアは何て呼んで欲しい? リア? それともロゼ?」
ウィッグに慣れずに思わず耳もとに触れてしまう私の手をそっと取って、ハルフォード殿下が身をかがめる。隠れていない、そのままの色の私の瞳を覗き込むととびきり甘い声で囁いた。
眼鏡のフレームで切り取られた瞳がじっと私を見つめる。
そんな事をされると思ってなかった私の心臓は大きく跳ねて、咄嗟に手を振り払って声を上げずにいるだけでやっとになってしまった。
「……それでは、ロゼと……お呼びください」
「うん、じゃあロゼ、行こうか」
「あっ、ハルフォード殿下、手を……」
「平民で、男女で観劇なんて恋人同士ぐらいでしか行かないよ。不自然でないようにしておかないと。あと、名前……殿下じゃなかったよね?」
「……フォード、様……」
「うん、まぁそれでいいかな」
淑女として受けていたエスコートとは違う、しっかり手を握られて、伝わる肌の質感や体温に私の頭はゆだって沸騰してしまいそう。恥ずかしさで訳がわからなくなって、叫び出さないように堪えるだけでやっとだった。
後ろにいるミモザ達は恋人同士のフリと言っても相手の腕に手を添えてるだけなのも、ミモザが「照れてらっしゃって可愛い……」なんて小さく呟いたのも、いっぱいいっぱいだった私の意識には届かなかった。
今日の観劇はボックス席ではなく、市民に交じって並んだ席につく。すぐ目の前に舞台があって、ボックス席しか知らなかったが舞台を見るには一番良い席なのではないかとその迫力にドキドキした。こんな近くなら双眼鏡もいらないわ、テラスから見下ろすよりも劇が身近に感じてきっと強く引き込まれてしまうだろう。
舞台に向かって私の左側にはハルフォード殿下……いえフォード様、右側にはミモザが、さらにその向こう側にハルフォード様の側近、レンツ様が座った。周りにいる者達も護衛が交じっているそうなので、きっとフォード様の左隣の方などはそうなのだろう。
緞帳の向こうからは開幕の準備をしているのか、かすかな物音が聞こえる。次々に埋まる背後の席の様子に胸が高鳴っていた。待ちきれずに古典の記述と、それについての今まで上演されてきた解釈をハルフォード様と小声で語り合う。するといつの間にか開幕の時間になったのだろう、劇場の照明が落とされた。
「ああ、また貴女は私の目の前から幻のように消え去ってしまう!!」
幕が上がった舞台の上、暗闇だったそこにスポットライトが当たって、この劇の主役、『春の王』のセリフが切なく叫ばれる。
その声は張り詰めていて、ひどく悲しみを感じるほどで、私は思いもしない始まりに驚いて息を呑んでしまった。
この脚本は多くが喜劇として描かれてきた。太陽の一族の末姫である暁の姫は夜明け前のほんのわずかな時間を担う神のひと柱で、春の王は暁の姫をどこの誰かも知らないまま「運命の相手」として探していたが、同じような時間に現れた「宵闇の魔女」に騙されて契ってしまう。
そのため太陽の一族の長、暁の姫の父の怒りを買い、春の王は暁を目にする事すら出来なくされた。
それから春の王は夜が明けるまで完全に目覚める事はなくなった。本当に大切な人を失った間抜けな春の王に誘われて人達も春は暁の頃には深く眠ってしまうようになりました、という締めくくりがつく。
だがこの劇ではお互いがどこの誰かも知らないままの春の王と暁の姫が確かに思いを通じ合わせていたとはっきり分かる描写がされて、そんな二人を引き裂く宵闇の魔女は徹底的に「悪」として扱われる。
劇中何度も宵闇の魔女からの妨害があって、やっと再会した姫と出会えたと歓喜に震えた春の王が目覚めた時、自分の腕の中にいる女が宵の中で惑わし化けていた別人だと気付いた彼の叫びは私の胸が引き裂かれそうなくらいに悲痛さを感じた。
暁の姫は騙されて違う相手と契った春の王を受け入れようとするのだが、どうしても自分を許せない春の王は自らを暁の姫から永遠に遠ざける。二度と傷つけないように、と。
有名な喜劇は、神々の悲恋を描いた壮大な物語へと変わっていた。物語の筋は変わらず、こんなに違うお話に出来るなんて……
罰を与えられた宵闇の魔女の行く末が気にならないほどに、私は春の王の胸の痛みを同じように感じていた。
何度も何度も打ちのめされて、自分ではダメだと刻み込まれて。大切な人が、大切な思いがもう傷付かないように自分から一番遠いところに置こうと心を決める。今目の前にいた春の王の叫びがきっと、この場で一番誰よりも私が分かっている。
奪われるのが怖い、自分のせいで宝物が傷付くのが怖い、宝物を大事にする自分の心が傷付けられるのが怖い、捧げた自分の心がとうの宝物によって引き裂かれるのが怖い。
なんて臆病で愚かなのだろう。
あれは私だ。
……ああ、でも、春の王は正しい選択をした。春の王が暁の姫を傷付けることはもう無い。
私も私の心を、もう傷付くことのないように一番遠いところに置かないと。
劇場の照明がついても涙を流し続ける私に、困ったフォード様が子供をあやすように髪を撫でてくる。
「ロゼ、大丈夫?」
そのぬくもりも優しさも、私なんかが望んでいいものではなかった。




