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「……もう行こうか。その……大丈夫か?」
私のお母様の顔を知っていたのだろう、予期せず実の母の心ない言葉を聞くはめになって、ハルフォード様が気まずそうに私の顔を窺っていた。
惨めで、苦しくて、悔しさに喉が詰まって目の奥から何かこみ上げてきそうになる。
早く立ち去ろう。立ち去って、私は何も聞いていない、私は今日この場にいなかったという事にしないと。
「あら……その靴、お姉さまのと同じ……いいえ、その小さな傷と色のムラ、お姉さまの靴だわ。それに……そこの女も、お姉さまの侍女?」
従業員通路に入ろうとした私をその言葉が縫いつけた。
竜に睨まれているように、私の足はぴくりとも動かなくなる。ああ、この時騒ぎになっていても良いから無視して通路に駆け込んで扉を閉めてしまえていたら良かったのに。
お母様の言葉に、これ以上ないというくらいに傷ついて、私は最低限の判断すらまともに出来なくなっていた。
立ち止まっているのがまずいことなんて、普段だったら一瞬で気づいて、話しかけられる前に立ち去っていただろう。そんな事も出来なくなるくらい今の私は使い物にならない。
視界の端、私に触れようか、肩を抱いて強引に立ち去って良いものか思案するハルフォード様が見える。自分がきっかけになってバレたと狼狽えるミモザにフォローの言葉をかけたいのに、何も思い浮かばない。
だって、靴なんて。靴まで覚えていると思わなかった。私の方が足のサイズが小さくて幅も狭い、ドレスのようにサイズ直しは出来ない。それでも何度も奪われたが。踵が入らないと、履けもしないものをさすがのマリアも渋々あきらめていた。
今日用意されていた靴はほんの少し緩くて、これでは靴擦れが出来てしまうと、ミモザが前もって予備として用意していた街歩き用の靴を履いていた。その、靴だけでバレるだなんて。
この子は私の持ち物を全部覚えているの? 高価ではない、こんな何の変哲もないものまで?
……気持ち悪い。
「やっぱり! お姉さまだわ。今日は王妃様に喚ばれてお城に行くって言ってたのに何でここに……? それに、こちらの方はどなた?」
「……失礼しますが、貴族の方、人違いではありませんか?」
そこに畳みかけるようにマリアに肩を掴まれて、私の処理能力の許容量を超えて吐き気すら襲ってきた。
私を庇うように立とうとした、ハルフォード様を見上げたマリアの瞳がキラキラと輝く。
ああ、あの声。私が巧妙に隠していた宝物を見つけて、それを奪ってやろうと獲物を狙い定めるいつもの目だわ。
この時頭の中に、子供の頃に見た光景が鮮やかに蘇った。私が……私たちがまだ幼かった頃。私がまだ、お母様の愛情を夢見て、誉めてもらおうと媚びを売るためにひたすら「良い子」でいた時に見た光景だった。
『マリア、だめよ! 赤ちゃんが生まれて落ち着いたら見せてくれるってベルマンが言ってたでしょう!』
『いや! やだやだやだ! 今見たいの! 産まれたての猫の赤ちゃん、見たい!!』
小さな私よりもさらに小さなマリアはパッと私の手をすり抜けて庭を走っていってしまう。
厨の裏、使用人の住む区画に入り込んでも、自分達の主人の愛娘、とくに溺愛されて甘やかされてワガママばかりの暴君を制止していいのか困り顔の彼らが私の方をうかがった。
『あっ! ミーナ! ベルマン、赤ちゃんは産まれた?!』
屋敷のネズミ狩りを兼ねて飼われているミーナの毛皮を物置の隅に見て、マリアはぱっと駆け寄ってしまう。出産を終えて気が立っている母猫のミーナが、慣れていない人物が大きな音を立てながら近寄ってきた事に強く警戒して威嚇しているのがマリアには分からないようだった。
ひっかかれでもしたらまた私が怒られる。何故かひとつ下でしかない妹の監督責任を負わされていた、当時6歳の幼い私はどうしたら上手く引き離せるか分からずに涙目になってオロオロしていた。
『マリア、ダメよ。お母さん猫は赤ちゃんを産んだ後なんだから、休ませてあげましょう』
『ひどい、何でそんないじわる言うの?! わたしはただ赤ちゃんを可愛がりたいだけなのに!!』
『ロゼリア様……』
『ベルマン、マリアをお部屋に連れ戻すのを手伝って!』
『いやぁ、私なんかがお嬢様に触れたら奥様になんて言われるか……』
マリアのご機嫌をとるためにマリアの前で産まれてくる猫の話をして、それでこうして騒ぎになるのなんて想像出来たのに、自分が不興を買うのが怖くて6歳の私に全部丸投げするなんてとんでもない使用人だと今なら分かる。
すでに姉の方は親からまったく可愛がられていないと気付いていた使用人達は、私に対して気を使うことすらなくなっていて。
けどあの時の私はそれが異常な事だと認識しておらず、ただただ「ミューミュー」と仔猫の声がする籠に近づこうと暴れるマリアを抱きしめるしか出来なかった。
『放して! 放してよ!! 赤ちゃんにさわるの!!』
『いた、いたい……っ、やめてマリア、叩かないで……』
『お姉さまがわたしを邪魔するからじゃない! いじわる、いじわる! 赤ちゃん抱っこさせて!!』
『きゃあっ』
幼い体で……いえ、幼いからこそ手加減の一切ない力で顔を叩かれて。首の肉を爪を立てて掴まれ、痛みに手を緩んだところを強く突き飛ばされて私はマリアを逃してしまった。「ちゃんと捕まえとけよ」と言いたげなベルマンの無責任な視線にも気付かず、私は「ああ、どうかミーナがマリアを引っ掻きませんように」と祈るしか出来ない。
『え? ……やっ、やだぁ! ……なんか赤ちゃんが可愛くないわ。びしょびしょだし、フワフワの毛もなくてネズミみたい……手がぐしゃっとしてとても気持ち悪かったわ』
『マリアお嬢様、動物の赤ちゃんは産まれたてはみんなこうなんですよ。一ヶ月もすればぬいぐるみみたいに可愛くなりますから、そしたらお見せしに行きますから』
『ええっ、可愛くなるまでにそんなにかかるの? わざわざ来たのに! なんで教えてくれなかったの、お姉さまのいじわる!』
『そうですねぇ……』
まるでちゃんと説明して止めなかった私が悪いみたいな言い方。
母猫が出産した籠の中を膝をついて、無遠慮に手を突っ込んだマリアは、持ち上げかけていた仔猫をぼとりと乱暴に落とす。
その汚れて濡れた手のひらを、ベルマンが濡れタオルを持ってくると告げて一旦下がってしまった。
ああ、普段着用とはいえまたドレスが汚れてる、私がちゃんと見てないからって怒られるんだわ。お行儀よくしなかったマリアが悪いのに……同い年の私は良い子にしてたのに。今マリアが何かしでかすと全部私のせいにされる。
『えっ……ミーナ何してるの……』
『っ、マリア見ちゃダメ!』
出産直後、自分より大きな動物にそばで騒がれて、ずっと威嚇していたミーナはギュウッと目を細くして……大きく唸ったと思ったら、自分が産んだ仔猫達を「食べ始めた」
さっきまで開かない目で、ミーナのおっぱいを探ってミュウミュウと声を上げてミルクを飲んでいた仔猫達を。
『あっ、あああー……』
やっと戻ってきたベルマンは声を漏らしてるだけで役に立たない。私はマリアの目を塞いで、もっと酷い光景が見えないように抱きしめながら、私はその血溜まりが作られていく様子をずっと見せられていた。
籠の中に敷いていたタオルが、出産のものとは違う濃い出血にあっと言う間に濡れる。なんの抵抗もできない無力な小さい命は全部いなくなってしまった。
ベルマンが『母猫はたまにこうなる、ストレスらしいんですけど、産んだ後に人が構うのが嫌らしくて』『初産、えーと初めて母親になる猫だととくに、そのー』『去年のうちの猫は産んですぐ触らせてくれたんですけどねぇ。ミーナの母猫のミーミだってそうだったし、どうしてこうなったんだか』だなんてごちゃごちゃ言っている。
びっくりして泣き出したマリアはお母様の元に駆けていき、「マリアになんてむごいものを見せるの」と私だけが怒られた。クビがかかっているベルマンが、自分の責任まで私に押し付けたせいだろう。
ショックな光景を見て熱を出して2日間うなされた私の元に、とうとうお母様は一度も見舞いにすら訪れなかった。
本が読めるようになってから、あの日のミーナの行動について調べた事がある。育てられそうになかったり、自分の栄養が足りてなかったり、様々な理由で動物……とくにネコ科の動物は産んだ我が子を食べてしまう事がよくあるらしい。
飼われている動物にはさらにその発生率が高まるのも知った。あの時のベルマンが言っていたようにストレスや、マリアが触って仔猫に見知らぬ人間の臭いがついてしまった事など様々な原因があったのだろう。翌年はミーナも産んだ仔猫をちゃんと世話して育てていた、マリアがあんな事をしなければ……ミーナがうちに飼われていなければ、1回目の4匹も今生きていたのだろうかと苦い気持ちになったのを覚えている。
でも私にはあの時「ストレスで発作的に攻撃的になった結果」ではなくて、ミーナが仔猫を愛していたから食べてしまったように見えていた。他の者に、マリアに奪われるくらいならいっそ自分のものであるうちに、自分の手でめちゃめちゃに壊してしまいたい。そこでやっと「ああこれでもう奪われずに済む」と安堵する。
その気持ちが私には痛いほどよく分かった。
「何故手を……」
「ねぇ、お姉さま、こちらの方はどなた? ご紹介して!」
紹介してと言いながら、ハルフォード様の手をガッチリ掴んで身を寄せて、上目遣いをするマリアを見た私の脳裏に口の周りが血塗れの母猫が蘇る。
またお前に奪われるなら、その前に。
平民を装って言葉をかけてしまった都合上、マリアの手を強引に振り払えないハルフォード様はたいそう困惑されていた。
その繋いだ手をじっくり見つめた後、マリアをバカにするように目を細めてやる。胸を張って、わざと指先一つまで意識を払った佇まいを取り直した。
「……紹介、まぁしてあげてもいいけど。なぁに、マリア、あなたこんな人が趣味だったの?
いいんじゃない? あなたにはお似合いだわ」
「お姉さまの……良い人じゃないの……?」
「いいえ? まったく? この演目、どうしても見たかったのよ。この劇場に知り合いがいて、デートしたら一番良い席を取ってくれると言うから付き合ってあげただけよ。ふふ、私に釣り合うほどこの人が魅力的に見えたのぉ? マリア……あなた趣味が悪いのね。良いんじゃない? マリア程度にはお似合いだわ、紹介してあげましょうか?」
「……いらない。お姉さまのお相手だったからちょっと興味があっただけだもの」
むっと顔を歪めたマリアは私の挑発に乗って紹介を突っぱねた。マリアから解放されて、目を見開いたまま固まってるハルフォード様の胸の中心を手のひらでトンと突いて、私自身は一歩離れる。
「ロゼ、何を」
「あなたも、約束は観劇だけだからこれで良いでしょう? 演目はとても楽しかったわ、あなた自身は退屈だったから二度目はないけど。じゃあね」
ハルフォード様が言いかけた言葉を遮ってヒラヒラと手を振りながら歩き出した私につられるようにマリアが後ろをついてくる。これで失礼な女だと思ってくれるだろう。「お姉さまもいたなんて気付かなかった」「あそこのボックス席で見てたの? いいなぁ」なんて話しかけているけど適当に返事をしておく。
今日のこの服装であのボックス席を使ってる訳ないじゃない、相変わらずマナーについて何も頭が回らないのねと思いつつ、その勘違いはそのまま利用した。
今日は自分自身が付き添い人をしているため、あの場に残って私と一緒にいた男を問い詰めたかったのだろうけど、マリアから離れられずにお母様もついて来ざるを得なかった。良かった、思った通り。
「ロゼリア……っ! あなた、変装して男と逢引なんて……!! あの男はどこの誰?!」
「お母様には関係ないわ。ただこの劇のチケットを手配してくれると言うから利用しただけの人よ。名前は何だったかしら……ヘンリーかハリーか、そんな人よ」
私はバクバク暴れる心臓を押さえつけて、なんとか声が震えないように平静を装う。
相手については私が口をつぐめば何も分からないだろう。私と逢瀬をしているのを噂にさせなかった王家だ、きっと今日のこの観劇についても、ハルフォード様につながるものは何も残してないはず。
他の貴族の方はまだ二階のエントランスで歓談をしているようで馬車留めに姿は無い、良かった……こんな所を他人に見られずに済んで。
城に行くために使った馬車の馭者はリリエにしてもらったから、きっと後から上手く誤魔化せる。
馬車の中では尋問をするお母様をずっとのらくら避け続けた。ミモザまで問いただそうとしたので、「使用人に教えてるわけないじゃない、私はそのくらいの危機管理はしてるわ」と笑ってやると激昂したお母様に叩かれた。
マリアが「お姉さまに無理やり付き合わされたのね。あなたは悪くないわ」ってミモザの手を握るから、目線でそのまま話に乗るように指示を出す。
「まぁ、マリア……ロゼリアの使用人まで気にしてあげるなんて、あなたはなんて良い子なの」
「違うわ、だって、このままじゃこの人まで罰せられてしまうかもしれない、そんなのはあんまりだわって思っただけなの」
「ええ、ええ、そうね。はぁ、ほんとに。ロゼリアはワガママで、今回も私達に隠れてこんなことをしでかすだなんて、ろくでもない子だわ。男と二人きりで出掛けるなんて、はしたない子」
お母様は私に与える罰を嬉々として考えている。私を謗れる堂々とした口実ができてよほど嬉しいのだろう。
私が家を出た時と服装が変わっているのもこの様子では気付いてるかどうか。追及されないのはありがたいけど、よほど私自身に興味がないのね。
私はその後どんなに問い詰められても口を割らなかった。
あの場で最初ごまかしてくれようとしたハルフォード様が平民のフリをしたのを利用して、「どこかの裕福な平民」と思わせたまま。
私が嘘をついて、使用人を脅迫して遊んで来たのだと、そう思われるのが一番都合が良い。
王家に呼び出されたとはさすがに嘘は吐かないのでは、あのボックス席をリザーブ出来るのは余程の立場の者では、お母様のこの調子ではそんな事思い付けないし、第二王子殿下だったなんて気付かないだろう。
最初は失礼な男だ、と腹が立ったはずなのに。
きっと勘違いしてしまったのだ、いくら調べても裏が出てこないから、もしかして私個人への感情でこんなに好意的に接してくれるんじゃないかって。
ロゼ、と呼ばれるたびに愛情に飢えた私の心が絡めとられるのをはっきりと感じた。我ながらなんてお手軽なんだろう。でも……私は、優しくされるのには……慣れてなかったから。
でも、これで異常は正された。本来あるべき状態にやっとなったのよ。ただそれだけ。
私は、マリアに奪われる前に、自分の手で粉々にした宝物を胸の奥深くにしまってしっかりと鍵をかけた。




