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化粧を直してから出た方が良い、と口にしたフォード様は控えさせていた誰かに指示を出したらしく私を個室に案内した。中でも特に格の高いボックス席についている控室だ。何か必要な機会があるかもしれないと思って用意させていたのだろう、当然二人きりになどなる訳がないのでミモザとレンツ様も一緒だが。
部屋付きの劇場の給仕係は下げているようで、私の席の近くに一般客として座っていた女性がどこからか蒸しタオルや衝立などを用意して部屋に入ってきた。
その裏側で、ミモザに崩れてしまったお化粧を直してもらう。鏡の中の私には淑女らしさは残っておらず、ただ気の強そうな少女がさっきまで泣いていたみっともない顔を晒していた。
泣いている時は周りが見えていなかったが、こんな顔でフォード様の前にいたのかと今更羞恥が襲ってくる。
私は今見た劇の内容に気圧されて気が急いていた。
いや、もともと今日で終わりにする予定ではあった。
エマ達には昨日までにもだいぶ悲しそうな顔をさせてしまったけど、私はこれでやっと幸せになれる出発地点に立てるのだから心配しないで欲しいといくら伝えても、3人とも表情は晴れなかった。きっとマリアがいなくなった私が安心して宝物達と過ごせる生活を手に入れて、幸せに過ごすところ見たら安心してくれるはずだ。
何も奪われない生活。いくらそれが、普通の人たちにとって当たり前のものだとしても、私にとっては何より遠い。
みんな「もっと幸せを望んで良い」と言ってくれるけど、この世には自分の明日の命をもすら脅かされながら生きている人達だっているのも私は知っている。だから、私はずっとずっと恵まれている。
こんなに豊かな生活をしているのだから……あの子とお母様を遠ざける以上の幸福なんて望めない。あれもこれもなんて絶対に上手くいかない。
私は自分がそこまで上手く立ち回れないであろう事を自覚していた。
昨日から。いいえ、もっと前からもうこんな幸せな夢は手放すべきだと分かっていたのに未だにハルフォード様に何と告げればいいのか思いつかない。
ただ失礼な事をして嫌われればいいものではない。……だって王族の方と溝が出来ては私が継いだ後に自分が困るから。それにまだ打診すら受けていない状況で断りを入れるのはもし違ったらとんだ自意識過剰だ。そうやって言い訳しているが、ただ怖くて出来ないだけだと自分でも分かっている。
いっそ「どうか私を裏切らないで」と伝えてハルフォード様の良心にすがってしまいたい欲求には何度も襲われた。でもそんな事は出来る訳がない。同じ家の姉と妹、私とマリアの持つ価値にほぼ差はなく、社交界での評判や私自身の能力なんていつか王家やハルフォード様がそう望んだらどうとでもなってしまうものでしかなかった。
私たちの天秤が、マリアに傾けられているところしか見た事がない私は自分で掴み取ったものしか信じる事が出来ない。
マリアとお母様に怒ってくれるエマとミモザとリリエなら私を裏切らない。3人とも優しいから、「同情」で縛り付けてる私を傷付ける事なんて出来ないもの。
結局ハルフォード様が何が目的で私をこうして口説いて見えるような真似をしているのか、何も分かっていない。
理由が分からないから取引を持ちかけることすら出来ていない。私の何が求められているのか、私は気付かぬまま何を差し出してハルフォード様の気まぐれをいただいているのか。私が知らぬうちにそれを失ってしまったら。
そんなあやふやなものに自分の人生を賭ける訳にはいかない、死ぬまでマリアに何もかもを奪われる事に怯えて生きるなんて耐えられなかった。
今までは「私が実権を握ってあの子を追い出したら自由になれる」と、それだけを目標に迷わず生きてきたのに。
これは優柔不断な姿を見せた罰だろうか。
化粧直しの終わった私に合わせて、劇場の従業員の案内に従いボックス席を後にする。もう貴族達も離席する時間になっていたようで、入り口側の2階のエントランスは大分賑わっていた。当然1階の、一般用のエントランスも大変な混み合いようとなっているだろう。
私達はお忍びという事もあり、各ボックス席の出入り口が並ぶ廊下から、一旦一般フロアに戻る必要がある。今日の装いで、利用客がほぼ貴族で占められる2階の正面ホールを通ったら人目を引きすぎてしまう。
……私がこんな醜態を晒したせいで、劇場側にもハルフォード様達にも迷惑をかけてしまった。イレギュラーに、貴族に従業員用の通路を使わせる事になって恐縮しているスタッフに申し訳なく思いながら薄暗いその裏手に入ろうとした時に背中側から今一番聞きたくない声がした。
「やっぱりこっち側の舞台に近いボックス席の部屋の方が豪華ね。ねぇお母さまぁ、次はまたそこの部屋のチケットを取りましょう! 控え室の内装もイマイチだったし、角度もあって離れてて、今日は見づらかったわ」
「でもねぇ……マリアちゃん、こっちの方の席もそれについてるお部屋も、欲しくてもすぐに取れるものじゃないのよ」
「えー……そうだ、じゃあまたお姉さまにチケットを手配してもらえばいいわ! お姉さまはこういうの得意だもの」
「……そうね。まぁ、あの子はこのくらいしか役に立たないから。……でもまったく、ちょっと他人からの評判が良いからってあの子は調子に乗るから……はぁ、嫌だわぁまた何か頼まなきゃならないなんて」
背中から冷や水をかけられたようになった。
一瞬で体が固まって、恐怖に震えそうになる。
考えうる限りで一番最悪な状況。
なぜ二人が今日ここにいるのか、どうしてどうしてと混乱が私の頭の中を埋め尽くした。
マリアに語りかける砂糖を溶かしたような甘い声と、不機嫌そうなお母様の声が私の心を締め付ける。その痛みを思い出して私は呼吸のしかたを忘れそうになっていた。
人気の演目、一番大きな格式高い劇場、このチケットを取るには確かに侯爵家と言えど苦労しただろう、こういった事には単純にお金を積むだけではなく何より人脈や伝手が必要になる。
権力を振りかざせば出来なくはないが、社交界中に無粋で礼儀のなっていない家だと鼻つまみものにされてしまう。
現役の侯爵家夫人であるのに、社交界ではすでに私にすら負けているお母様もさすがにそれをやったらまずいと分かっていたのだろう、しかし自分の伝手で用意できたのはかなり後方の見づらい場所。
私がいつも手配させられている、舞台に程よく近い、双眼鏡を用意すれば役者の細やかな表情も分かるような位置ではなかった。
それを溺愛しているマリアに指摘されて、認めたくなくて分かりやすく不機嫌になったのだ。
憎々しげに、「それしか取り柄がないから」と言いつつ鼻で笑っていた。分かっていたのに、愚かにも私は傷ついていた。
……いつも私に観劇の他にも孤児院の慰問を含めた様々な外出、訪問、茶会や晩餐会の主催の補佐をお母様は頼んでいた。その時だけは優しい声で「ロゼリアは本当に頼りになるわね」って言うから。
いつか自由になる日のために、怪しまれないように時々言うことを聞くのも必要だなんて言い訳して、内心「この時だけは頼ってもらえる」とバカな私は思っていたのだ。
たとえ、補佐と言いつつほとんどをやらされても。ちょっとでも指摘できる欠点があれば嬉々としてあげつらい、なんだかんだ文句を付けて結局はちっとも誉めてくれなくても。そのほとんど全てがマリアのために企画されていて……私を放っておいてお母様とマリアが「仲良し親子劇場」をするのを見せられていても。
こうして私抜きで仲良く外出してるのも、それを察していつつ隠されているせいで気付かないフリをするのも。
私は、これだけは、これにおいてだけは評価してもらってると思ってたのに。面と向かって賞賛をもらっていないだけで、内心認めざるを得ないから、だからこそ私を頼っているのだと、そう思って……
利用されていたのは分かっていた、でもここまで頼っておいて、あんなに疎まれて、嫌々私を使っているのだとはちっとも理解できていなかった。
私の心の奥でピシリと音が鳴る。「どうせ自分は愛してなんかもらえない」と予防線を張っていたのに、事実はそれよりも酷い。「やっぱり」とすら思えない……私はまだ傷付けられなければならないの?




