第二十五章(二)
第二十五章
ここが砂漠でなくて良かった・・・
誰かが置き忘れたのか、それとも投棄されたのかは分からないが、青いプラスチックで出来た小さなバケツに川の水を汲んだ紀伊也は、その中にタオルを浸し、ギュッと絞ると目を閉じてはぁはぁと喘ぐような呼吸をしている司の額に置いた。
そして、ぐるっと見渡すように辺りを一周する。
この木々のお陰で直射日光も防げている。何より、司の体の下に敷いた分厚い大きなシダの葉は、地面からの湿気や害虫から守れる格好のベッドだった。
もしここがジャングルでなく、砂漠地帯であったなら一日と持たないだろう。
そう思うとこのジャングルに感謝した。
それに、この中で生活している人間もいるのだ。
自然の摂理に逆らうなと言った司の言葉も納得できる。
しかし、長居は無用だ。自分達は元々ここで生活をしていた訳ではない。帰らなければならない場所がある。それに、そこへは帰りたいのだ。
紀伊也は、草木の下に埋もれていた自分と司のサングラスを見つけた時、あの時の事を思い出したが、それがとても遠い日の出来事だった事に気付いて深い溜息をついた。
しかし、それを丁寧に拭き始めた時、あの時別れた秀也とナオ、それに晃一に会える日がそう遠くはないと思い、幾分気分が軽くなったような気がしていた。
どんな小さな事でも希望があるのとないとでは大きな違いが生ずる。
「司、あと少しだから頑張れ」
うわぁぁぁっっっ!!!
突然、真っ暗な密林の中に絶叫が響き、バサバサバサっと、辺りで休んでいた鳥達が驚いて飛び立つと、辺りは騒然となったが、それもあっという間に元の静けさに包まれる。
が、今度は、はぁっ はぁっ と、荒々しく吐かれる息が響く。
「司、大丈夫かっ!? しっかりしろっ 」
隣の木に寄りかかって眠っていた紀伊也は、驚いて飛び起きると、上半身を起こして、はぁはぁ言っている司の傍に慌てて寄った。
「はっ はっ ・・・ 紀、伊也・・・、こ、ここは? オ、オレ達・・・ 」
声を震わせながら暗闇に目を凝らす。
目を閉じれば再び悪夢の続きを見そうだ。逃げても逃げても大きな赤い口を開けてアナコンダが襲い掛かって来る。それに加え、ヤニ族の族長のギョロっとした大きな二つの目も追いかけて来るのだ。
再び右手の平の傷が疼いて、左手でそれを覆った。
「紀伊也、ここはどこだっ!?」
半分悲鳴に近い声に驚いたが、一息ついて
「あの場所だよ」
と、冷静に言った。
「あの場所?」
「そう、最初に俺達がヤヌークに会った場所。 ここで、皆とばらばらになったんだ。あの橋を渡った場所だよ」
そう答えて説明した。
橋は壊れて落ちてしまっていたが、入口を塞ぐように生えていたシダのアーチは跡形もなく消えてただの立木になっている事。
散らかっていた荷物はすっかりなくなっていたが、草木の中に落ちていた自分達のサングラスを拾った事。
この川沿いの崖を下流に下って行けば、何とか最初に出発した民家に出られそうだという事。
そして、この場所に来てから既に今夜が三日目だという事。
紀伊也の話を黙って聞いていた司だったが、相変わらず吐く息は荒い。
「行こう・・」
「え?」
「早く行こうっ」
振り絞るように言って、無理に立ち上がろうとする司を慌てて抑えた。
「ダメだっ、今はまだ夜だ。朝になってからにしよう」
「い、いやだっ 今行くっ」
紀伊也を振り解こうとして、ガクっと倒れてしまった。
「司、頼むから言う事を聞いてくれ。そんな体で今行ったら本当に死んでしまうぞ。 朝まで待つんだ」
宥めるように言うと、司の肩をそっと抱いた。
「追い・・・かけて来るんだ・・・ はぁ はぁ ・・・、 追いかけて来る・・」
司は呻くように言ってそのまま気を失うように眠ってしまった。
それから朝になったが、司は目を覚まさなかった。
無理もない。まだ熱も下がっていないのだ。諦めている訳ではないが、仕方がないのだ。今は我慢するしかなかった。
崖を下りて川の水を汲むと、深い溜息をついた。
そして、司の元に戻ると熱で温かくなったタオルを冷やし、そのタオルを額に置いた時、その手首を掴まれた。
「司・・・」
「もう、・・・ いいから・・」
呟くように言うと、微かに目を開けた。
「もう、いいよ・・ お前だけでも帰れ」
「 ・・・。 何言ってるんだ、あと少し休めば帰れる」
紀伊也は司の言葉を軽く聞き流すと、その手を離した。
「もう・・・、これ以上歩けない・・。 足手まといになるだけだ。 あと少しで着くのなら、お前だけ行け ・・・、オレはもういいよ・・」
かすれるような声で言うと、くっと奥歯を噛み締め、はぁっはぁっという短い息を吐く。
「ばかな事を言うな。何弱気になってるんだ、お前らしくない」
冷静に言い返すと、表情のないその目で司を見つめた。
「それに、返すんだろ。 秀也に」
付け加えると、司と目が合った。
一度は諦めていた。照り付ける太陽の下で身動き一つ出来なくなった時、本当にもう会う事はないだろう、と諦めてしまった。
しかし、あれから更に苛酷な状況に追い込まれても、ここまで来る事が出来たのだ。あの時は一人だったが、今は二人だ。
しかもその相手は絶大な信頼を寄せる自分の右腕なのだ。一つ間違えば命を落とすかもしれないこの状況の中で何度意識を失ってしまっただろうか。でもその度にその紀伊也に助けられていた。
あと少しだと紀伊也が言うのなら、本当にそうなのだろう。
それなら、ここまで来る事が出来たのに、諦める訳にもいかない。
「そう、だな」
司は呟くと、手に握られた秀也のライターを見つめた。
しかし、この体で本当に会う事が出来るのだろうか。生きて会えるのだろうか。
この力が抜けてしまえば、終わりだという事くらい分かる。
「もし、万が一・・」
「ダメだ、自分で渡すんだ」
言いかけてすぐに制されてしまった。
司は、ふぅと息を吐いて苦笑すると、ライターを握り締めた。
「わかったよ」