そして社畜は出会った。
何度瞬きをしても、車の硝子越しの景色が変わることはない。
夢なのか現実なのか…もしくは死後の世界なのか全く分からない。
有り得る筈のない今この現状で冷静になることが出来ないでいた。
10分くらい経ったであろうか。力を入れていた手足が疲れた為、ほんの少し思考ができる位には冷静になってきた。とはいえ、有り得ないこの現状の中の冷静とは、普段生活の中で冷静と呼べる状態ではない。
その僅かな思考を出来る部分を使い、独り言をつぶやきながら現状把握を試みることにした。
「夢…なのか…?と…とりあえずアレだ…」
とつぶやくと、テレビとかでありがちな頬をつねるという試みに出る。
「いってぇぇ!!」
パニック状態にある為、手加減無しの力で自分の頬をつねっていた。あまりの痛さに思わず声を上げてしまうくらいの力で。
しかし、痛みがあまりにリアル過ぎ、夢という線が少し薄くなった。
「夢じゃないのか…。じゃあやっぱり…」
そこで息を呑んだ。まさかそんな事があるのか、と自分の思った事を恐る恐る口にした。
「死ん………だ……のか…?」
死後の世界。天国あるいは地獄といった場所なのか。
そんなものは誰かが適当に言った世迷言だと思ってきた俺にはとってもじゃないが信じられなかった。
しかし、それを否定するかのような景色が、車の硝子一枚向こうに繰り広げられていた。
胸辺りから心臓の鼓動と思わしき振動がより早く伝わる。過呼吸をしている肺と思われる部分が痛くなる。
なぜ、『思われる』という表現なのか。それは死んだと思われるこの体らしきものに果たして内臓というものが正常に機能しているかどうか、全く持って謎であるからだ。
しかし、不可解な事がいくつかある。
一つは、まず手元にあるハンドル。そして体と思われる物を支えている椅子。ブロロとエンジンの音を響かせているこの空間。
果たして死んだ後の世界にこれらを一緒に持ってくることは可能なのか、という事。
一つは、体の五感がすべて、事故が起こる前と変わっていないと思われる。
ハンドルを触れていることにより伝わる『触覚』。
事故が起こる前に無意識に唇を噛み、血が出ており、鉄のような味がする『味覚』。
車に乗せてあったファブ○ーズの石鹸風の香り『嗅覚』
エンジン音や外の風によって草がなびく音『聴覚』
そして、有り得ないと思いつつも目の前に写る光景『視覚』
視覚はともかくとして、それ以外すべては事故が起こると思われる前と何ら変わりがないのだ。
硝子の向こう側の景色が変わってしまっているため、視覚がありえない現状と訴えてくるが、目をつむってしまえば今までと何ら変わらない。
そして一つ、先ほどにもあったように口元から少量の血が出ており、頬をつねれば痛みが伴う。
痛みとは生きている証と昔母に言われた事があった。当然、死んだ後も痛みがあるかないかなどは分かる筈もないが、その言葉を鵜呑みにするなら今現在自分は生きている可能性がある。
希望的観測だが、こういう時はポジティブに考えた方が多少落ち着くものだ。
このように考察していくことにより、先ほどより更に冷静になれた気がした。
「このままじゃ埒が明かないか。」
そうつぶやくと、車のシフトレバーをパーキングに入れてサイドブレーキを掛ける。
そしてシートベルトを外して大きく深呼吸をし、意を決して車のドアノブに手を掛けた。そして恐る恐る車のドアを開け、ゆっくりと地面に方足を延ばしてみる。
地面についたその足の裏からは今まで通り、土と草の上に足を置く感覚が伝わってきた。
そして再び目を瞑り大きく深呼吸をし、小さくため息を吐き、目を開けるともう片方の足もゆっくり地面へと置いた。
そうして両足に力を込め、体を揺らしながらゆっくり立ち上がった。
車の外は硝子越しから見るより美しく、空気も今までと比べ物にならないくらい美味いと分かる。
つい先ほどまで少し肌寒いような気温だったはずが、春の暖かな日を思わせるような気持のよい気候。
風邪が吹くたび、自然が音楽を奏でるような感じがする。暖かさとこの風の組み合わせは体感的にも気持ちの良いものだった。
「わぁ…すげぇ…」
今まで自然に全く興味がなかった俺が思わずそうつぶやくほど、周りの景色はとてつもなく美しかった。
先ほどのパニック状態から一変。レジャーシートがあればピクニックがしたくなると考えるほどになっていた。
車のドアを閉め、目を輝かせながら車の周囲をぐるりと時計回りに歩いていく。
そして車の後ろに回り、助手席側の方に目をやった瞬間。
俺は硬直してしまった。
車の助手席側の後ろドア部分に、少女が背を預けて座っていたのだ。
短いとも長いとも言えるショートカットヘア。それは銀色かはたまた白色なのかという綺麗な色の髪。
横から見た顔は日本人とは思えないほど美しく、そして肌もとても白かった。
その少女と思われる人物は山の上あたりを見るような、若干斜め上とも言える方向を見ていた。
マントなのか、ローブなのか、灰色の布は鎖骨より若干上あたりから脛辺りまでの長さがあり、下に着ているものがあるのかどうか、よくわからない。
風で髪をなびかせながら、本当に小さなため息をこぼす。
そして今まで俺の存在に気付いてなかったのだろう。ふと気配を感じたのか、ゆっくりと首をこっちに動かし、そして目が合った。
俺は硬直しており、少女を直視する事しか出来なかった。
その少女の目は、透き通った青であったが、どこか悲しそうな眼をしていた。