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人飼いの花 2

 風が弱いのはせめてもの救いだった。

 この年の春の訪れは遅い。朝露が霜を結ぶような季節が続き、福寿草が蕾をほころばせる気配はなかった。とはいえ首筋を吹き抜ける風さえなければ、まだ堪えが効くというものだ。私は竹箒を握りしめて、日の差さない裏庭に降りていく。同じ邸の使用人は哀れそうに私を見下ろしたものの、関わり合いになるのを恐れたのだろう、そそくさと目を背けていった。

 ほお、とてのひらに息を吹きかけ、指先をこすり合わせて熱を求める。わずかばかり力の戻った手で箒の柄を掴み、庭を掃いて、また両手に息を。もたついているうちに庭木ははらはらと葉を落としていくのだから甲斐もない。

「馬鹿らしい、裏庭に人なんか呼ばないくせに」

 ぽつぽつと文句をつけながら、主人が聞けばこぶしが飛ぶな、と考える。使用人が相手でも同じことだ。告げ口を趣味とする性根の曲がった輩もいるものだから、いつどこに聞き耳を立てられているとも知れないのだった。

 と、黙々と掃除を続けていた私の耳に、隠れる気配のない足音が聞こえてくる。雑用の上に雑用を押し付けられるのも珍しくはないことだ。私は渋々顔を上げ、邸の壁の端を眼差して、そこでわが目を疑った。

 顔が生えている。

 正しくは、白壁の途絶えたところから、ひょっこりと人の顔が覗いているのであった。それも見覚えのない娘の顔が。下女ならこの邸にも珍しくはないが、結い上げもせずに垂らしたままの彼女の髪は、端下女はしためのものとは思えない。丁寧に塗られた紅、頬の白粉、どれをとってもれっきとした令嬢の佇まいだ。

 そしてなにより、瞳。帝都の民と同じ黒曜をまなこに宿しながら、彼女のものはまるで星屑のようにきらきらと煌めいている。そこに映し出されているものは――万が一彼女が亡霊の類を見ているのでなければ――裏庭にひとり立つ、私以外にありえない。

「女の子」

 艶めく唇が言った、と思ったときには、娘はすでに壁を飛び出していた。

 紺地の着物には金の牡丹が咲き誇り、帯には千鳥が鳴き交わす。帯留めには主張を控えた桜色の珊瑚が控え、見れば無造作に流した髪にも簪を挿している。客、の一語が頭をよぎったのは、駆け寄ってきた彼女から、知らない花の香りがしたからだ。ならば彼女はかれの娘か、妹か――しかしそれを問いただす暇など、私には与えられていなかった。

 わずかな衝撃。気付けばシャツの両肘を握られている。竹箒が支えを失って転がった。娘はまんまるに見開いた双眸で、真っ向から私を見つめているのだった。

「ああ、ずるい、聞いていないわ、三郷のお邸にこんな年頃の女の子がいるだなんて! ……ねえあなた、お名前は? ここで働いているの? いつから? どうして? お父様とお母様は? 三郷の旦那さまとはどんなご縁が?」

「な、なに、だれ」

 尋ねごとをする人間の剣幕ではなかった。彼女の息の継ぎ目、かろうじて言葉を吐き出した私を見て、娘はそこでようやく我に返ったらしい。惜しむようにシャツを離してから、しゃんと背筋を伸ばしてみせる。

 ――白百合。

 まるで花のように、凛と。

「ごめんなさい、自己紹介が遅れてしまって。私、蘇芳詩織と申します。このお邸にはお父さまの付き添いで来たの。大事なお話をするというから席を外していたのだけれど、窓の外にあなたの姿が見えて」

「見えたから、なに」

「なんだか羨ましくなったの。私のおうちには、同じぐらいの女の子がいなかったから」

「だからってわざわざ追いかけてきたわけ……あんた、頭」

 おかしいんじゃないの、をどうにか飲み込んだ。距離を掴みかねこそすれ、彼女、詩織という娘は曲がりなりにも主人の客なのだ。苦さの混じった唾を嚥下して、それとなく後ずさる。

「なににしたって、これで満足したでしょう。仕事をするから帰って」

「でも寒いでしょう。つらくはない?」

「もう慣れてる、何年もここで働いているんだから」

「無理はよくないわ。今年の寒さは格別だと、三越爺も言っていたもの」

 じり、と腹の底に焦げ付くような感覚がある。――しつこい。こうして彼女と問答をしているぶんだけ、裏庭には落ち葉が積もってゆくというのに。枯草をむしる仕事などはいまだ手つかずのままで、放っておけばまた罰の種にされてしまうに違いなかった。

 そもそも客人と顔を付き合わせること、ましてや言葉を交わすことなどが、下仕えの私に許されているはずもないのだ。どう言い含めてやるべきかと考えあぐねていた私の手前、詩織はといえば、眉をきゅっと寄せているのだった。

 いたたまれなくなり、目を逸らして、戻す。そのわずかな間に、詩織のてのひらはすでに私の片手を覆っている。ぎょっと目を瞠った私をなだめるようにして、あかぎれだらけの手の甲をさすっていた。

「こんなに手を冷たくして。体を壊してしまうわ、かわいそうに……お邸に入りましょう。三郷の旦那さまには私からお願いするから」

 彼女は私の制止を待たなかった。私の手首を握りしめ、小奇麗な下駄を履いているとは思えない足さばきで、颯爽と庭を横切っていく。

 枯れ風が彼女の髪をさらうたび、私の鼻先にまで甘い香りが流れてきた。いくつもの花々を混ぜ合わせ、ひと好みに作り上げたかのような、どこかしゃんとしすぎた風のある香り。おそらくは流行りの練り香水のものだ。簪にちらついた紅こそが彼女の奔放さの根源であるとでもいうように、私はそれをじっと睨んでいた。

 一度仕事を放り出してしまった今、胸はどうにでもなれという諦めで満ちていた。邸内に戻り、緋色の絨毯の上を、彼女に付き従って進んでいく。

 かち合うように初老の男が歩み寄ってきた。姿勢に卑屈の影も感じさせず、長身痩躯をすらりと伸ばし、舶来の礼装を違和感なく着こなしている。見覚えのない風貌を前にすれば、彼が邸の客人であることは自然と悟られた。

「詩織」

 呼びかけ、彼は目元の皺にやわらかさを宿す。はい、お父様、と小気味よく返事をした娘を前にして、客人ははじめて腰を曲げた。

「あまり遠くへ行ってはいけない。話が終わるまで待っていなさいとは言ったが、頂いたお部屋で、と約束しただろう。案内人が困っていたよ」

「ごめんなさい。お邸の女の子を見つけたものだから」

 客人はうっすらと眉を持ち上げて、視線を娘から私へ流す。その口元がにわかに険しさを見せた。

「三郷のご主人にご令嬢はいらっしゃらなかったはずだが」

 対する詩織は、誇らしげに唇の端を持ちあげる。

「ここに仕えているのですって。“血種”の女の子だわ。私、初めて見たの」

 そうして、水面に一石を投じるかのような一言を、無邪気な声で口にする。

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