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友、いかなるものか 5

 早朝に小雨が降ったらしい。大地はうっすらと濡れており、息をすることも躊躇わせるような静けさの中に沈んでいた。空気は透徹し、珍しく快く――あるいはいっそ、冷えに近い涼しささえもを私の皮膚にもたらしている。人気の減った夕どき前、白塗りの空には太陽の輪郭が浮かび上がっているけれども、そこにあるべき熱や光はどこかに失われてしまっているように思えた。

 一頭立ての馬車がからりからりと車輪を回す。二人ずつ向かい合って座れるだけの椅子が用意されているとはいえ、はす向かいに腰を下ろした詩織と私のほかに乗客はない。屋根の外には御者兼目付け役としてつけられた男がひとり、馬の手綱を取っているのみだ。詩織から行き先を告げられたのちは一言として言葉を発していなかった。

 馬車のなかにも会話はなかったが、それは私にとっては幸いなことだった。気の利いた冗談を吐いてやれるような性質ではない、少しばかり息が詰まりこそすれ、口を開かずに済むならば安いものだ。

 馬車が慣性に揺れ、馬がくぐもった鼻息を鳴らした。呉服店の前に車を止めて、御者がこちらをふり返る。

「お嬢様、お着物を取ってまいります」

「ええ、お願い」

 男が御者台を下りていくのを眺める。軒先から歩み寄ってきた男――あれは店主なのだろう――と一礼を交わし、握手をすると、揃って暖簾の向こうへ入っていった。しばらくして彼が抱えてきた風呂敷が、空いた席にそっと積まれる。そうして再び馬車が走り出すに至っても、私と詩織は無言を保ち続けていた。

 買い物と呼びこそすれ、店の側にはすでに連絡が入れられているらしい。代金は前払い、この日に合わせて仕立てられた服飾品を、端から受け取っていくだけの外出に過ぎなかった。日が山際に沈みかかり、着物が数着、小さな山になるのを見届けたところで、詩織が御者に声をかけた。

「次が最後ね」

「はい、そのようで」

「ご店主には懇意にしていただいているの、私が直接伺うわ。店先で待っていて」

「かしこまりました。お連れの方は……」

「私と一緒に来てもらうわ。いいかしら、千春」

 私は小さくうなずいた。御者が不安げに自分を見つめているのには気付いていたが、詩織の命が第一であることは、彼にとっても私にとっても同じことだ。

 馬車が止まり、扉が開くのを待って、先に路地へと飛び降りる。女子供から見れば遠くにある地面だった。着物をまとった娘となればなおのことだ。御者の目配せを受けて、私は馬車に向かって手を差し出した。詩織の指先を取り、彼女が降り立つのを待ってやる。

「ありがとう」

 そうして詩織がはにかんだとき、私は知らず、ひとつ息をついていた。自分が呼吸を詰めていたことに気付いたのはそのときだった。

 詩織が最後に運ばせたのは、どうやら細工屋であったらしい。硝子窓のはまった棚の中に、趣の凝らされた櫛や簪が一本一本並べられている。金の彩る鬼灯、白銀しろがねの骨を持つ蝶が、夕映え色の照明の下に瞬いているのが見えた。詩織はそれらを流し見ながら店の中を抜け、最奥の座敷に腰かけていた老婆の前に腰を折る。

「おばあさま、お久しゅうございます」

「……あれ、まあ」

 てのひらを一心に揉み合わせていた小柄な老婆が、ゆらりと顔を上げて相好を崩した。

「蘇芳のお嬢様。お目にかかるのはいつぶりでしょうか。大きくなられましたね」

「おかげさまで。おばあさまのお飾り、よく邸に届けられています。いつも直接お礼が言えないでごめんなさい」

「なにを仰います。細工をお気に召してくださるのなら、それが何よりのしあわせですよ」

 老婆は皺の奥に隠れたまぶたを持ち上げる。自分に注意が向けられたらしいと気付いて、私は思わず視線を逸らした。笑みの気配を隠すように、詩織が口元に手を遣る。

「友人です。すこし前から邸に。一緒にお店を見て回ってもよろしいかしら?」

「……ええ、ええ、もちろん」

 千春、と呼んで、詩織は壁際の棚に歩み寄る。棚の木枠に指先を触れさせながら、「お願いしたいことがあるの」と私を一瞥した。「ひとつ、簪を買っていきたくて。一緒に探してもらえると嬉しいのだけど」

「じぶんで使うものなら、じぶんで選ぶのが一番じゃないの」

「お手伝いをしてくれるだけでいいのよ」

 買うか否かは詩織が決めるのだ。私は仕方なしに数度頷いて、店内に足を遊ばせた。

 小ぢんまりとした店だった。鼻腔を突いた埃のにおいが、呼吸を密やかなものに変えていく。老婆がひとりで切り盛りしているわけではないとはいえ、人を雇って商売を拡大していくつもりはないらしい。

 眼前、硝子戸の向こうでは翡翠が艶やかに輝いている。手をかけるのは細工だけで十分としているのだろう。見れば老婆は再び、熱を求めるようにてのひらをすり合わせている。先に目を引いた彼女の指先の、その皮の厚さを思い出した。

 立ち並ぶ簪の中に、紅の花を見つけた。黒色の珠に咲いた紅塗りの椿だ。輪郭を金に彩られ、光を照り返すこともなく、雨の中に佇むかのようにひっそりと座っている。朱の足は店内を一回りした詩織が横に並ぶに至っても、私はそれに視線を注ぎ続けていた。

「椿ね。気にかかる?」

「……似合うとは思わないし、気になるってほどでも」

「そうね、私には大人しい色合いかもしれない……お婆さま、よろしいかしら」

 老婆がお辞儀をするようにうなずくので、詩織は硝子戸に手をかけ、簪の朱の足を取り上げて、矯めつ眇めつそれを見つめた。それからふと私に向き直って、前触れもなく髪に触れる。細い爪先が、つい、と耳元を掠めていった。

「ほら。あなたの方が似合うわ」

 視界の端に椿が揺れる。私は息を詰め、詩織の戯れに身を任せていた。詩織は満足げに簪を捧げ持つと、お婆さま、と再び老婆を呼んだ。

「こちら、頂きます」

「ありがとうございます。お嬢様がお召しに?」

「いいえ、彼女が」

 呼吸が止まる。勢いよく詩織を振り仰いだ私が面白かったらしい、彼女はころころと声を上げて笑っていた。

「自分のものはもう邸に用意があるもの。今日はあなたに貰ってほしくて、簪を探しに来たのよ」

「だからって」

「私のわがまま。受け取ってちょうだい」

 詩織は制止も聞かぬまま、代金を老婆に手渡してしまう。手のひらほどの天鵞絨の包みを握らされて、私はしばらく言葉を失っていた。難癖はいくらでも付けられようものを、どれも老婆の前で口にするには気が引けるものばかりなのだった。

 その間に詩織はなにやら気に留まるものでも見つけたらしい、軒先を見やってあっと声を上げている。老婆に一礼、裾を絡げて飛び出していった。

 途方に暮れる私に、老婆は穏やかなままの声色で告げた。

「細工はすでにあなたのものゆえ。どう扱おうとあなたの自由でございますよ」

 目を向ければ、皺を濃くして笑う。

「身の丈に合わない、と思っていらっしゃるように見えましたもので。作り手のわたくしにも申し訳がないと」

「……そんなことは」

「似合わないと思うのであれば、お召しにならずとも構わないのですよ。どこぞにしまい込んでしまってもよろしい。触れぬままに留めても。あるいは手折ってしまっても」

 ものはものゆえ、とやはり変わらぬ調子で言って、老婆は腰を丸め、それきり顔を上げなかった。

 雨雲はどこかへ去っていったらしい。藍染の暖簾の向こうから、まばゆい茜が差していた。沈み際の太陽は店先を朱に染め上げて、硝子戸にその反射を躍らせている。老婆に目礼し、薄暗がりから抜け出した私の背には、いつからかこっくりとした影が伸びていた。

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