モノクロワールド
モノクロワールド
それは一輪の花だった。
暗く無機質な土地に咲く、一輪の花。
儚げに——それでいて力強く。
泥臭く——それでいて美しく。
咲き誇るその花に、僕は憧れたのだ。
分不相応にも、憧れたのだ。
だから、僕は——
◆◇◆◇◆
学校というものは排他的な空間だ。
物理的に解放されている大学ですら、心理的な敷居は高いだろう。いわんや中学校をや、である。
それは僕の通うこの中学も例外ではなく、排他的で閉鎖されていた。
しかし閉鎖された空間であろうと、それが小さく狭いものというわけでは決してない。学校は様々なものを内包しており——たとえば勉強をする者も遊ぶ者も、まとめる者もふざける者も、皆一つの空間の要素となっている。
それはまるで一つの世界のように。
そう、だからこそ不思議ではないのだろう。
その中でさらに、閉鎖された空間を創り上げる者がいたとしても。
◆◇◆◇◆
三年ほど前から絵を描くことが趣味であった僕は、部活動紹介も碌に聞かないまま美術部に入ることを決めていた。紹介された部の中に、美術部が無かったことにも気付かずに。
どんな人がいるのかなーなんて呑気なことを考えながら、僕は意気揚々と美術室に向かう。
「こんにちはー」
そうして美術室の扉を開いた先は、異世界だった。
部屋一面に撒き散らされた、噎せ返るような色。色。色。
赤に青に黄に、紫に緑に橙に、名のわからないほどに混ざり合った色までもが、壁でも、床でも天井でも、その存在を主張していた。
絵になっているわけでも、当然ない。
その空間に存在していたのは、あくまでも色であった。
「君、何の用?」
不意に声が聞こえた。
声のした方を向けば、空間に溶け込むように様々な色で塗り潰された白衣を着る女性がいた。
そんな色に塗れた白衣とは対照的な、腰まで届きそうな長い黒髪を湛えた女性は、なんというか、『絵になる』姿をしていた。
「は、はいっ、美術部に体験入部にやってきました!」
ここで僕が彼女の問いかけに応えられたのは奇跡だっただろう。
空間の放つプレッシャーに圧倒されて、身体はガチガチに固まってしまっていたのだから。
「ふーん……美術部、ね。——そんな部活この学校には無いけど」
衝撃の事実は、ここで発覚した。
「えっ! そうなんですか?」
この時の僕には、中学には美術部があるものだというなんの根拠も無い考えがあり、美術部の無い中学校の存在を考えていなかったのである。
「うん。でも、そうだね……ここはもう私の私室みたいなものだし、絵を描きたい時はここに来て描いてもいいよ」
部活動ってのに興味もあるしね。と、女性はとても魅力的な話を持ち出してくれた。
美術室を私室にしているという発言にはかなりの疑問が残ったが、疑問よりも魅力的な提案を呑む方が、優先度が高かった。
「本当ですか!? よろしくお願いします!」
「うん。よろしく。自己紹介が遅れたけど、私は白鳥飛鳥。飛鳥先輩とでも呼んでほしいな」
「あ、僕は藍原叶多って言います。よろしくお願いします飛鳥先輩」
こうして僕は——半ば偶然に——異世界に引きこもる彼女と接点を持ったのだった。
◆◇◆◇◆
根も葉も無い噂はとても厄介だ。
悪魔の証明よろしく、やっていないことの主張ほど受け入れられにくいものも無いだろう。
だが、根も葉もある噂はもっと厄介だ。
だって事実なのだから。
「藍原さ、おまえ美術室に通ったりしてる?」
「……うん。まあ、結構行ってるよ?」
「マジで? あそこって魔女が住んでるって噂があるんだけど実際のところどうなの?」
六月八日。
飛鳥先輩との出会いから一ヶ月と少し経ったころ、そんなことをクラスメイトの赤坂に聞かれ、答えに窮する。
あながち否定できないような気がしたからだ。
そもそも美術室自体が異世界みたいなものだし。
たまに見かける、黒になった絵の具にさらに色を混ぜ合わせている姿なんかは魔女らしさ全開だろう。
それでいてその絵の具で絵を描くこともなくそこら辺に放置するのだ。
ちなみに放置された筆やパレットはスタッフ——僕が洗って手入れをしている。古いものは使えなくなってしまっているが。
「まあ、魔女かどうかは分からないけど、魔女っぽくはあるよね」
そんなわけで部分肯定。
「えー、今度紹介してくれよー。どんな人なのか会ってみたいわ」
「それはダメだよ」
「おっ? おう、そうか?」
拒否の言葉が口を突いて出た。
それはもう自分でも驚くほどの速さで。
「まあ、結構危ない人だからね」
慌てて取り繕うも、生じた違和は拭えない。
結局自分のことながら、何故拒否したのかはついぞ分からなかった。
◆◇◆◇◆
「みたいなことがあったんですよね」
美術室にて、飛鳥先輩に赤坂とのやり取りを話す。
当然危険人物呼ばわりしたことは言えないため、その辺りは省いて、だ。
「とりあえず言わせてもらうけれど、私は魔女ではないからね?」
「いやそれはわかってますけども」
逆に、実は魔女だと言われてもさして驚かなかったとも思うが。
「まあ、外の人が何言ってても気にしないでいいよ。関わらないし」
「いっそ清々しいほどの引きこもりですね……」
外の人って言っちゃってるし。
本当に異世界の住人みたいなんだよな……
「私が引きこもってるんじゃなくて、私以外……いや、私と君以外がここの扉を開かないだけだよ。現に私は、来るものを拒んだりはしていないからね」
「ものは言いようですね。じゃあさしずめ先輩は、開放的な引きこもりと言ったところですか?」
「なかなかいいね。それ。まあ、そういうことだから、私達は内輪で楽しく遊ぼうよ。今日は何を描くんだい?」
「んー、僕はそろそろ飛鳥先輩の絵が見てみたいです。絵、描くんですよね?」
丁度良い機会だと思ったので、一ヶ月間気になっていたことを聞いてみる。
今までずっと僕の描く絵を見るだけで、彼女自身が絵を描いているところは見たことがなかったのだ。
まあ、他にも気になることは多々ある……というか気になることしかないのだが、さすがにそれを聞こうと思える勇気は僕には無かった。
「私? 私は、そうだね。うん。描かなくもないかな」
「本当ですか! 見てみたいです! 先輩の絵!」
「んー、じゃあスケッチだけしようかな。叶多くん、モデルになってね」
「やったぜ!」
そんなわけで急遽モデルになることになった。なったのだが、これが非常に難しかった。
「ほら、動かないで」
「動いてないですってば」
「動いてるの。最低限呼吸は止めて。できれば鼓動も止めてくれるとありがたいかな」
「それ死にますから!」
「ほら動かないで」
世間のモデルと呼ばれる人々は、斯くも厳しい仕事をこなしてきていたのかと思うと、とても複雑な気持ちになる。
じっとしているだけでお金が貰えるだなんて思っていたことが恥ずかしい。
これは自分から進んでやりたがるものじゃないだろう。
「うん、もう心臓動かしても良いよ」
「止めてないですからね」
数分程度でデッサンを終える飛鳥先輩。
デッサンじゃなくてクロッキーでも描いたんじゃないかと思う程の速さである。
「ほらほら、絵にすると結構イケメンじゃない?」
「絵にするとって、それ褒めてないですよね」
でも実際、モデルが云々を抜きにしてもそのデッサンは綺麗なものだった。
現実をそのまま写し撮ったかのような緻密な線は、どこか懐かしいような感動を僕に与えた。
「絵、上手いですね」
「そうだろう、そうだろう」
そう言って威張るように無い胸を張る飛鳥先輩。
「これ、あげるよ」
「いいんですか?」
「うん。完成してるからね」
ただ、その顔は、どこか物寂しさを窺わせていた。
◆◇◆◇◆
七月十日。
今日も僕は絵を描き、飛鳥先輩はデッサンをする。
そう、あれから一ヶ月、先輩は絵を描くようになったが、全てデッサン止まりだった。
理由は聞かない。聞けない。
聞いてはならないことだろう。
聞いてしまったら最後、先輩は――
「ねえ、叶多くん」
「なんですか?」
「最近、あまり喋らなくなったね」
「そうですかね?」
「うん……何か悩んでいる気がするよ」
「悩んでませんよ」
「……私のことかな」
「悩んでませんって」
「つまり恋の悩みだね!」
「どうしてそうなるんですかっ!」
「冗談だよ」
本当にこの人は掴み所が無い。
一瞬考えがばれたのかと思って焦った。
「……『なんで色付けをしないのか』でしょ。うん、まあいい機会だし、話そうか」
普通にばれてた。
「叶多くんは本当に顔に出るタイプだよね。見てて楽しいよ。……さて、じゃあ、話そうか。あんまり面白い話じゃないし、たぶんもう気づいちゃってると思うけどさ」
◆◇◆◇◆
どこから話そうかな? ……まあ、順序立てて話すのが一番いいか。
二年前、一人の女の子の命が失われたの。転がったボールを追いかけて道路に出た時に、トラックに轢かれて。
誰が見ても明らかなくらいの即死だった。
うん、その亡くなった女の子が実は私だったなんて言うつもりは当然ないよ。そもそも私は、その女の子とはなんの関わりもなかったんだ。学校から帰るときに、公園で遊ぶ彼女を見かけたくらいだね。
そして、轢かれる瞬間を見てしまったくらい。
あまり細かい描写はしたくないのだけど、酷い有様だったよ。
骨が砕けたのであろう四肢はあらぬ方向に曲がっているし、潰れた身体からは内臓らしきものも垣間見えていた。そして辺り一面には彼女のものだったのであろう液体が撒き散らされていて。
たぶん当時の私には相当なショックだったんだろうね。
脳が現実を認識するのを拒否したらしい。
そうして、不意に……
私の世界から、色が消えたんだ。
それはもう、最初からそんなものはなかったんじゃないかってほどにあっさりと、私の視る景色から色が抜け落ちて行った。
怖くなったよ。目の前でたった今見ていた液体の色が、次の瞬間には分からないんだ。
私は通報することも忘れて、学校に戻って、ここに来て、いつも使っている絵の具を壁にぶちまけたりして。それでも色はわからなくて、壁には白と黒しかなくて、今度は別の絵の具を別の場所にぶちまけて。それをずっと繰り返して、この部屋はもう真っ黒になっちゃったんだ。
まあ、そんなわけで、ここが授業で使えなくなったから、私が好きに使っていいよって言われたんだよ。
……そうして塞ぎ込んで引きこもって、いつしか私の中にある色まで無くなっていって、私の世界はもう、ただのモノクロになっちゃたんだ。
◆◇◆◇◆
「……たぶん、これで君が疑問に思っていたことには、全部答えられたと思うよ」
そう締めくくった飛鳥先輩に、僕は声をかけることができなかった。
「うん。とりあえず、今日の活動は終わろうか。…………来たくなくなったら、別に来なくてもいいからね」
「来ます。——また、来ますから」
たとえ彼女が本物の魔女であったとしても、その答えは変わらない。
一礼だけして、僕は美術室を後にした。
◆◇◆◇◆
何か僕にできることがあるのだろうか。
家に帰ってから——いや、美術室を出た時から、僕の思考はそのことで満たされていた。
先輩が色を視ること望んでいることは分かっている。色を思い出すことを望んでいることは分かっている。
だけど、僕に何ができる?
常識で考えれば、何もできるわけがないのだ。
医者ですら何もできなかったのであろうことに、素人の僕が首を突っ込んで、何ができる?
何もできないだけならまだいい。ただ僕の何らかの行為で、先輩が傷つくことだけは、絶対に避けたかった。
それでもやはり、何もせずに終わることもまたできないのだ。
同じ絵を描く者として、絵を視る者として、色の重みには医者よりも理解がある。はずだ。
故に模索する。
存在するのかさえ不確かな、彼女を白黒の世界から救い出す方法を。
絵……絵か。
もしかしたら、自分の描いた絵なら、色を思い出せるんじゃないか?
——いや、その程度のことは既にやっているはずか。
でも、たぶん、僕にできるのはきっとそのあたりのことだろう。
親が帰宅する前に、家のパソコンを起動する。
検索するワードは〝シラトリアスカ〟。
しかし、彼女の絵は出てこなかった。
「ダメか……」
色を失ったのは二年前だと言っていたから、彼女が中学一年生の頃なのであろう。
つまり、彼女はほとんど小学生時代までしか絵を描いていないということになる。
さすがにそれでは、インターネットに作品が流れることはないだろう。
一応、シラトリを白鳥に。アスカを明日香や飛鳥に変えてみたりもしたが、やはり彼女の絵は見つからなかった。
だが、変換したことで、見えてきたものもあった。白鳥飛鳥という字面に、見覚えがあったのだ。
「シラトリ……ハクチョウ?」
それは、僕の憧れた――
◆◇◆◇◆
「飛鳥先輩!」
「なっ、叶多くん? 授業はどうした?」
「サボります。先輩だってサボってるんですから文句は言わせませんよ」
「いや、まあ、確かに私は文句を言える立場じゃないけれども。どうしたんだい急に」
「デートを、しましょう」
◆◇◆◇◆
七月十一日。
朝に寄り道をしたせいで一時間目だけでなく、二時間目の授業にまで遅刻したが、そもそも出席するつもりが無かったため問題は無かった。
閉鎖された空間に忍び込み、そのまま美術室へ向かい、飛鳥先輩を、無理矢理異世界から引っ張り出す。
さして難しいことでもなかった。
「か、叶多くんっ!? これ、どこに向かっているんだい?」
「とりあえず学校の外に出ます。先生に見つかったら面倒なので」
先輩の手を引き、駆ける。
引きこもり少女には酷な運動かもしれないが、今回は時間も大事なのだ。先生に捕まっている暇はない。
ちなみに僕は先輩の手を握れて最高に良い気分だったりする。
「はぁ、はぁ……まったく、強引だね叶多くんは。嫌いじゃないよ」
「ありがとうございます」
そんなわけで学校を抜け出すことに成功。
門という明確な出入り口が存在している分、門以外の場所は一切マークされていないということに救われた形である。
「それで? 引きこもりを連れ出した王子様はどこに連れて行ってくれるのかな?」
「その場所のことは、お姫様が一番よく知っていると思いますよ」
◆◇◆◇◆
「着きました」
「ここ?」
「ここです」
そこは、ただの住宅街の路地。
「なんでここ?」
「先輩は、覚えているはずです」
だって、あの絵は——白鳥さんが描いたあの絵は——
「先輩が描いたんですよ。あの、アスファルトから伸びたグラジオラスは」
「あ…………」
指し示す先には、アスファルトに力強く咲く黄色い花。
「小学校の写生会で描かれたあなたの絵を見て、僕は絵を描こうって決めたんですよ」
三年前の写生会は、確か身近な風景というテーマだった。
展覧会で貼り出された絵の中にあったその一輪の花に、僕は感動し、憧れたのだ。
当時の僕は、作者の名前をハクチョウと読んでいたものだが。
「でも今の私には、あの花だって白黒なの。見ても、何もわからないの。どんな色で描いたのかも、思い出せないのよ!」
しかし飛鳥先輩は、泣きそうになりながらそう叫ぶ。
ああ、僕は選択を間違えたのかもしれない。先輩を傷付けてしまっただけなのかもしれない。
それでも僕は、僕のエゴイズムを止めることはできなかった。
「色、以外は……」
「……え?」
「色以外のことも、思い出せないんですか? どんな考えで、どんな感情で、どんな姿勢で、どんな描き方で描いたのかも、忘れてしまったんですか?」
「覚えてたら、なんだって言うの? この花を描いたのは、同情したから。路傍の花なんて、誰にも見られないまま枯れるのがほとんどだから、私が見てあげようっていうエゴイズム。黄色に少しの白と、ほんの少しの赤を混ぜて創った色で下地を塗って、日の当たる時間じゃないのに先端を光らせて、影を加えて、目立たせるために後ろの塀を暗めに塗って。でも、それを覚えていても、どうにもならないよ。私の世界に、もう色は無いんだから」
君には、わからないだろうけどね。表情でそう語る飛鳥先輩に、僕はもう言うべき言葉を見つけられない。
なんとかできるかもしれないという根拠の無い自信が、ただ馬鹿みたいに空回る。
しかし先輩は、すぐに笑顔を浮かべ、戯けたように語り出した。
「別にいいんだよ。色が無くたって、絵は描ける。生きていける。残念なのは、君が描く絵の彩りを理解してあげられないことくらいだよ」
「…………ごめんなさい」
「謝る必要は無いよ。私のためにやってくれたことでしょう? 叶多くんが動いてくれたってことだけで、私は嬉しいから」
「でもっ——」
「叶多くんは気負いすぎなんだよ。さっきはちょっと取り乱しちゃったけど、本当は私自身、あまり気にしてないんだから。——私は昔から絵ばっかり描いてて、友達らしい友達なんて一人もいなかったんだ。でも色を失くして、美術室に引き篭もったおかげで、こうして叶多くんに会えた。毎日が充実している。私はきっと、色を失くさずに孤独でいた私よりも幸せだよ?」
「…………」
そう言われてしまっては、謝罪の言葉も告げられない。
きっと僕のせいで傷付いただろうに、僕へのフォローを優先させてしまったことが悔しかった。
「それじゃあ、次はどこに連れて行ってくれるんだい、王子様?」
「え?」
「おいおい、叶多くんがデートだって言ったんだろ? まさかデートプランは打ち止めかい?」
「正直、全然考えてませんでしたね」
そして、そのフォローに甘えることしかできない僕自身が、堪らなく悔しかった。
「まったく、叶多くんはダメダメだなぁ。でも私も外で遊んだりしないから、そこの公園でのんびりしよっか」
「はい。……ありがとうございます」
こうして僕は、飛鳥先輩の優しさに連れられて公園へと歩を進めるのだった。
◆◇◆◇◆
その公園は決して広いとは言えないが、平日午前のこの時間に人がいるはずもなく、僕たちは広々とした空間の中、並んでベンチに座っていた。
「せっかくの外なのに、画材を持っていないのは勿体なかったね」
「そうですね。ノートと鉛筆すら持ってきてませんでした」
「あの花とか、可愛らしいのに」
「見事な花壇ですね。手入れしている人がいるんでしょうか」
当たり障りない会話を続けるのは、異世界から出ても変わらない。
変わらない距離感。変わらない温度感。
先程の失敗など無かったかのような心地良い空気の中、飛鳥先輩はふと思い立ったように言う。
「色当てクイズ、しよっか。私が鼻の色を当てるから、判定して欲しいな」
「どうしたんですか、急に? 別にいいですけど」
それはきっと、気にしていないというアピールだろうと思い、僕は感謝して甘えた。
「あの花壇は……カラフルだね!」
「だいぶ大きな括りでに攻めてきましたけど、残念ながらあの花壇の花はピンク一色です」
先輩が指し示したのは、ピンクのコスモスの花壇。横には白とピンクの入り混じった花壇もあるため、二択を外した形である。
「うーん、色が無いと花の判別も難しいなぁ。向日葵でもあれば分かりやすいんだけど」
「それは色当てクイズじゃなくて、花当てクイズになってませんか?」
「あはは、それもそうだねぇ」
余程おかしかったのか、ひとしきり笑った飛鳥先輩は、息を整えながら告げる。
「ホント、ありがとね」
「どうしたんですか急に? 僕は先輩に感謝されるようなことは、できてませんよ」
「私が色を失ってからさ、周りの大人は——親も含めて、腫れ物を触るみたいに扱ってきてさ。笑い話にしようとしても、本当は辛いんでしょう? って、誰も乗ってくれなかった。私はそれが一番辛かったんだ」
「でも僕は、先輩の優しさに甘えただけで——」
「ううん。叶多くんは、私が辛そうだって気付いてても、こうして一緒にふざけてくれる。笑ってくれる。私が強がりたいのを、認めてくれる。私が欲しかったのは、そういう優しさなの」
だから、ありがとう。と続けた先輩に、僕は泣きそうになってしまう。
先輩は色が無いことを辛いことだと思っていたけれど、それ以上に色が無いことは辛いことだろうという印象を押し付けられるのが辛かったのかもしれない。
治るなら治したい。でも、治らないならそれを不幸なことだと認識したくない。そんな気持ちを抱えていたのかもしれない。
だとすると、僕がやったことはやっぱり間違っていて、僕が本当にするべきだったのは——
「……あそこの花壇がカラフルでも、それはきっと綺麗だと思いますよ」
「ふふ、ありがとう」
白黒の世界から見た、色の肯定。
想像して、創造できる色の肯定。
だから僕は、飛鳥先輩の思う色を、肯定したいと願う。
「飛鳥先輩、色ってなんだと思いますか?」
「おっと、急になんだい? 哲学の話かな? 理科の話がしたいわけではないと思うけど」
「どちらかと言えば、哲学の話ですね。僕が思うに、色って概念はみんなが共通の感覚を持っているっていう前提で成り立っているだけの、幻想なんじゃないでしょうか?」
「…………言ってること、全然わかんないけど」
「つまり、りんごは赤いってみんなは言うけれど、そのみんなが言う『赤』が、果たして全く同じ色なのかは確かめようがないんです。誰かが、他の誰かの身体に入り込めたりしない限り」
「なんとなく、わかった気がする。でも、それで結局、叶多くんは何が言いたいのかな?」
「今の先輩は、そんな幻想の外側にいます。他の人が——僕が、ピンク色にしか見えない花だって、飛鳥先輩は好きな色にできます。先輩が思う面白い色に、綺麗な色に、染め上げられるんです。だって先輩は、その白黒の世界の神様なんですから」
「あっははははは! 神様と来たか! なんともはちゃめちゃな全肯定だね! でも、私は自分の作る色すら見れないんだ。勝手に好きな色を想像したって、パレットの上では汚い鈍色を創っているかもしれないよ?」
「グラジオラスの色の創り方を忘れていない飛鳥先輩が、汚い色なんて創れるわけがないじゃないですか。黒くなった絵の具に色を追加する時だって、原色のバランスを考えてたくらいなのに」
「清々しいまでの全肯定だね。ふふ、なんだか本当に、描けるかもしれない気分になってきたよ」
「描けます。色が視えなくても、先輩は色を創れます。世界がモノクロでも、先輩が色を付けられます。だから、だからっ! ……もう一回、描いてみませんか?」
「………………うん。そうだね」
少し悩む素振りを見せた先輩は、それでも頷いた。
きっと、僕が口で言うほどに簡単なことではないと理解していながら、それでも首を縦に振ったのだ。
「でも、一つだけ条件があるよ」
「なんですか?」
「私が描いた絵を、君だけは絶対に褒めること!」
「喜んで」
白黒の世界に囚われたお姫様はその日、世界に彩りを施す神になった。
◆◇◆◇◆
絵を描くようになった先輩は、卒業と同時に美術科の高校へと進学した。
先輩が卒業して以降、直接会う機会はめっきり減ってしまったが、代わりにこんな噂を聞くようになった。
『青白い夕焼けの風景の絵が幻想的で綺麗』
『紫色の桜の絵が賞を獲った』
綺麗に決まっているだろう。それが彼女の視ている世界なんだから。
そんなわけで、僕は事あるごとに宣伝と自慢をしているのである。
カンバスに描かれた、赤々しい肌の僕の絵は、今でも僕の宝物だ。
どうだい、かっこいいだろう?
放置していた生ゴミを少しマシなゴミに変えました