水色の絵の具。
企画『テーマ小説』参加作品です。
「水小説」と検索すると参加した作家さんの作品がありますので、ぜひ読んでみてください。
パレットに並べた色を見て、空を眺めて。
何処かの大海原を思い浮かべて、水道の蛇口から流れる水を思い出して。
―――頭を抱え込んだ。
「ちょっと友里香どうしたのよ。急に頭なんか押さえたりして」
その光景を見ていたであろう雪江が後ろから心配そうな声で聞く。
「うん。あのね、頭痛くなっちゃった」
今は四限目で美術の授業中。デッサンの真っ最中だ。小さなケトルと鮮やかな赤色をした林檎、それと水の入ったグラスがテーブルの真ん中に置かれている。それを囲うように生徒が座り、各々の角度から対象をデッサンしている。私の位置からは一番奥にケトル、手前に林檎、その間にグラスが見えている。対象をデッサンするのになかなか描きやすい位置を陣取ったつもりだ。
「いや、それは態度見てたら分かるって。だから何があったの? 頭痛でもするの?」
「え、頭痛は昔から――…」
私が偏頭痛を持っていることを雪江は知っているはずだけど。
「あー違う違う。だから、なんで頭抱えてたりしたのって言いたかったのよ。描きづらい位置にでも座っちゃった?」
雪江はよく私のことを気にかけてくれる。
いつでも、どんな時でも、私がいつもと違うような行動を取るとすぐ隣にきて私のことを心配してくれる。そう思ってくれる人がいるということは、あまり実感できないけど、物凄く幸福なことなのかもしれない。
それに彼女からすれば、私は生まれたばかりの仔猫みたいに見えているんだろう。自分の目の届く場所に居てくれないと、勝手に何処かへ行ってしまうように思っているのかもしれない。まー実際、私自身でさえ何処へ行ってしまうのか分からなくなることがあるわけだし。私のことなのにね。
きっと彼女は、そんな私の抜けている部分が心配なんだ。多少違うかもしれないんだけど、今はそういうことにしておこう。
「笑わない?」
私の口癖だ。何かを聞くとき、必ず言ってしまう言葉。止めようと意識していても、ついつい口から出てしまう声。
「笑わない」
そして雪江の返答。この言葉を今まで何回使ってきただろうか。それは私と雪江の合言葉のようにも聞こえてくる。
「うん。じゃあ話すね」
「はい、どうぞ」
「あのね。水って何色か分かる?」
雪江の体が一瞬だけ凍る。私の疑問はいつも唐突だから仕方ないと言えば仕方ない。けど、そこは長い付き合いの雪江だ。取り乱すことなく静かに答えを返す。
「無味無臭無色透明でしょ」
「えっと、味とか臭いは聞いてないんだけど」
「あーはいはい。で、だから無色。色なんてないじゃない。そこのグラスだって、ほら」
そう言って中央に置かれたグラスを指差す。その中には半分ほどの水。それは雪江の言う通り無色透明。色なんて全く着いてなんかない。
「うん。そうなんだけど」
「だけど?」
「それじゃあ、この色は?」
ガサガサと自分の絵描き道具の中から絵の具のセットを取り出し、そこから一つの絵の具を抜き取って雪江に見せた。
「い、色? そんなの分かりきってるじゃない。その色は――…」
そう。その色は誰もが一度は、一日に一回は見るであろう色。見上げた空一面に広がる色。濃くもなく、かといって薄くもない、その中間色でやわらかい感じのする色。
「水色よね」
なんの疑問もなく答える雪江。
「もう一回言ってみて」
「だから水色って」
「水色だよね」
「うん。それがどうかしたの?」
雪江は首を傾げる。私が何を言おうとしてるのか、いまいち分かっていないようだ。折角二回も言わせたのに。
「じゃ雪江、あれは?」
テーブルの上の水が入ったグラス。
「デッサンの対象」
「じゃなくて。グラスの中に入ってるのは?」
「水でしょ」
「水は何色」
「無色透明」
「じゃこの色は?」
再び手に持った絵の具を指差す。
「だから水色って。……あーあーはいはい。うん、友里香が何言いたいのか分かった。分かったから、そう剥きにならないでってば」
何度も頷いて、やっと謎が解けた雪江。その顔は実に晴れ晴れしい。が、すぐさま顔色が怪しくなっていった。
「つまり友里香は、水は透明なのにどうして水色はこの色をしてるんですか。ってことを言いたいんでしょ」
「そうそう」
「うん。私に分かるわけないじゃん」
即答だった。
さも平然と、分からなくて当たり前よん、とでも言い出しそうなくらいニッコリと笑いながらの回答。それでいいのか雪江! 流されるまま、分からぬまま、皆が使ってるからいいじゃん別に的な態度で満足するのか。お生憎様、私にはそんな曲がった根性は持ち合わせてはいない。
「だって矛盾してるんだよ、これ。どう考えてもおかしいって」
友を呼ぶ私の声。
「うーん。けどさ、この色が水色ってことで皆理解しちゃってるし、今更これをどうして水色って言うんですか? って聞かれてもねぇ。答えに詰まるよ」
類は友を呼んではくれなかった。
「それに、そんなこと言ってたら世の中の言葉全てが訳わかんないようなもんじゃない。例えばこれだって、どうして赤っていうのか知らないわけだし」
そう言って真っ赤な絵の具を私に見せる。
「あう。それはそうなんだけど」
頭を抱え込んだ。
この終わりのない疑問の山々、ちっぽけな私ごときが手を出すべき話ではなかったということなのか。しかし、一歩でもその領域に足を踏み入れてしまった以上、もう引き返すことはできない。
「うん。頭なんか押さえてるから何事かって心配してたけど、いらないお節介だったね。今日もいつもの友里香で安心した」
ニッコリスマイルだけを残し、再び自分のデッサンに戻る雪江。きっと彼女の心の中は透き通っていることだろう。その代わり、私の心の中には大きな塊がずっしりと居座ってしまったようだ。
「えぇ。雪江ぇ一人にしないでよ。私ほんとに悩んでるんだから」
「うんうん。若人よ、悩め悩め」
「他人事だと思ってるしぃ」
「ま、他人事だしね」
コホン、と後ろで丁寧な咳払いの声。
「他人事でも何でも構わないが、今は授業中だぞ。ほらちゃんとデッサンしなさい」
後ろには美術の担任が立っていた。いつから立ってたのかは知らないけど、さっきの話の一部始終は聞いていたんだろう。
「ちゃんとデッサンしてまーす」
「してまーす」
はぁ、と吐き捨てた溜め息。それは私のものだ。その息は重く、下へと落ちて消える。その後に続いて先生の溜め息も一つ。
「どうした三島。元気ないぞ」
「先生、友里香は今最大級の疑問と戦ってる最中なんですよ。ね、友里香?」
「うぅ、雪江のいじわる」
「これはこれは最大級の疑問か。三島、それはもちろん美術に関係のある、そしてデッサンに集中できないほどの疑問なんだろうな」
「そうです」
先生が一歩後退する。まさか先生の問いに対し私がイエスと答えるとは思ってなかったらしい。けど、先生が分かるのだろうか。皆が何も思わないようなことだ、先生だって知らないってこともある。
けど、思えば思うほど不思議で仕方ない。
水の色は透明。
水色は水色。
この些細な違いだけで、そのものの色が全く違うものになるんだ。なのに誰も不思議がらない。きっとこの美術室の中では私だけ。もしかすると全校生徒のうち私だけというのもあり得る。答えは……きっと一生掛かったとしても出てこないだろう。そして何年も何十年も何百年経っても、水の色は透明で、水色は水色のままに違いない。
「先生っ!」
急に大きな声を出すものだから、語尾が裏返ってしまった。
「な、どうしたんだ」
「どうして水色は水色って言うんですか?」
「み、え、は?」
きょとんとした先生の顔。
答えは、きっと出ない。
チャイムが鳴り、授業が終わり、午後まで昼の休憩がはじまる。チャイムの鐘が、低く響く音が行き場のない私の気持ちをがっちり緒押え、心の中の塊は低く呻いていた。
普段書かないジャンルだったので正直手こずりました。
急ぎでやっていたので、突っ込みどころが多々あると思いますが、暖かく見守っていただけると幸いです。