逃げれない?逃げたくない? その2
皆が皆、自分の思い描く世界が存在し、他の人とは世界観が違う。
それは親子でも、夫婦でも言える。
片方の世界が正しくて、片方の世界が間違っている訳でもない。
ただ、世界中に自分とは違う世界を持っているだけに過ぎない。
私は好奇心が元々強い。
『何で?』と思うことが小さいときからあったようだ。
何で?を解決しながら、探しながら成長していけたら、今の私になることはなかったんだろうと思う。
昔は思い描く自分になれなかったのは、親のせいだと真剣に思っていた。恨みもした。
親の責任を全うしなかったから私は曲がった。
親がきちんとお金の管理をしなかったから、学校に通えなかった。
しかし今はこんなツラい惨めな生活があって、曲がった自分がいたから今の私がいると思っている。誇りにすら思っている。
好奇心がより強化されたように思うわけだ。
もし親が私の好奇心を真っ直ぐ育てることが出来たら、真っ直ぐな木のような私が出来上がっただろう。
今の私は枝を右に左に上に下と様々に伸ばし、必要な場所は大切に伸ばし、不要な場所は潔く切る。
幹の下が太く頑丈で、うねりながら上に伸びていっている感じるだ。
洗練された美もあれば、歪な形の美があってもいいだろう。
私の心は歪な形の美。
それが私の自信!
そんな私を人は、素直で情熱的と表現してくれる。
本当に嬉しい。
多くの人は誉められなれていない。
誉められるとムズムズしたり、何か企んでる?と疑心暗鬼に駆られたりする。
初めは上手く出来ないかもしれないけど、誉められる事に慣れてみよう!
自分で自分に『今日も可愛いね!』『私って最高!』『ご飯を食べれる私って凄い!』
当たり前のことでも誉めてみる。
職業訓練を受けたことがあるのだが、そこで出会ったキャリアコンサルタントの女性に言われたことが、沢山私を構築している。
『大仏のらほつを沢山作れ』
らほつとは大仏のパンチパーマ一つ一つを言う。
その一つ一つを自分に対する誉め言葉や出来たことに当てはめて、大仏の頭のかつらを作っていくと言うことだった。
1ヶ月もすれば、大仏のパンチパーマのかつらが沢山出来上がる。
1年だと家から溢れ返るほどのヅラが完成するだろう。
毎日続けるのがいいが、出来るときに思い付いたときにまとめて作ってもいいと思う。
自己否定で自分が出来上がっているときに、らほつ作りはかなりの苦痛が伴う。
だから気が向いたときにやるところからスタートすればいい。
少しづつ慣れていける。
自分を誉めることに慣れてきたら、人から誉められたとき受け入れてみたらいい。
『可愛いね!』『ありがとう!私もそう思う!(笑)』
みたいに茶化しながらでもいいと思う。
少しづつ、人からのお褒めの言葉を受け入れてみよう。
きっと未来は今より楽しく思うようになる!
さてさてDV被害者の多くは誉められるより、貶される方が多い。
『◯◯だからダメ』『常識がない』『ワガママ』『お前のせいでこうなった』などなどの言葉を沢山浴びてきている。
お陰さまで自己否定をする人間に出来上がるわけだ。
自己否定してしまう人は、本人が悪いわけじゃないよ。
心が弱いから、気にしすぎるからでもない。
否定の言葉はその人を、そんな人にしてしまうだけ。
『醜い』と言われたら、醜いんだと思うから醜くなるように行動を取ってしまうだけ。
『ダメなやつ』って言われたら、ダメなやつなんだと思い込んで怖さのあまり何も出来なくなるだけ。
『出来ないやつ』と言われたら、相手から出来ないといわれないようしようと、相手の顔色を伺い本来のパフォーマンスが出来なくなっただけ。
原因は否定の言葉を吐いた人のせい。
気にしないのが一番だけど、気になるのが人間。
あなたのせいじゃない。
長い間そんな生活に身を置いておくと、日々の仕事は相手の顔色を窺うことになってしまう。
相手の望むことをしようと努力しては責められる。
何もしなくても責められる。
相手は自分の世界だけしか認めないから、何をしても文句を言う。
思い通りになろうがならまいが、同じこと。
文句が言えることを探しているだけだ。
自分より秀でたら困る、自分が相手より上でなくちゃ困るから、責めて相手の存在位置を自分より低くしようと必死なんだ。
相手は意外とあなた自身に怯えているのかもしれない。
自分より優れていると認めると自分の存在価値がなくなる。
自分の側から離れるんじゃないか。
毎日、被害を受けている私たちより怯えているのかもしれない。
だから暴力で支配して、離れないようにしようとしているんじゃないかと思う。
加害者は小さな子どもと同じなのかもしれない。
思い通りにならなくて、暴れる。
怖いから、強がる。
そう思うと迷惑だけど可愛いと思ってしまう人もいるだろう。
『私がいなくちゃ』と思う人もいるだろう。
『私がこの人を救う』と思う人もいるだろう。
そう思うのは勝手。好きにしたらいいと思うが、あなたが変わらなければ相手は間違いなく変わることはない。
変わろうと努力しても、足を引っ張り邪魔をしてくるだろう。
それでも根気よく、めげずに努力していったら何かが変わるかもしれない。
ただ、物凄い覚悟が必要だ。時間が必要だ。負けない心が必要だ。
お湯を注いで3分待ったらラーメンが出来るみたいな事は起こらない。
人は自分に甘い。
こんなに苦労してるのに自分に甘い?と腹を立てることもあるだろうけど、自分に甘いのは間違いない。
一言言ったら、次からは同じ事を繰り返さないことを望んでないか?
口に出さなくても、気持ちを汲んでくれることを期待していないか?
相手にしたことに対して、感謝の気持ちと態度を求めてはいないか?
そんなものは幻想だ。
そういう物を望んでいる限り、自分に甘い。
DVの被害者は心の奥で今までの態度を詫びること、自分に優しくしてくれること、自分の望む愛仕方をしてくれること、自分の思う世界を提供してくれることを望んでいる。
それって当たり前に望むことだと思うし、手に入れてもいいものだと思う。
しかし、自分の労力を惜しんではいけない。
相手が望むようにすることは、環境を変える労力とは言わない。
全く違うアプローチを、ありとあらゆる方法を、行動することを労力・努力と言う。
今まで通りの生活は苦痛が沢山溢れ返っていると思う。
しかし、今までと違う事をするのは更に苦痛を伴う。
やったことがないから、やることへの不安。
成功しなかったらの、不安。
更なる暴力を加えられたらの、不安。
これらの不安は今までの生活をするより遥かにツラい。
だから変わらなきゃいけないと分かっていても、相手だけが変わることを望み期待する。
それが被害者が、今の生活を続ける甘えだ。
加害者は受け止めてくれることに甘え、考えること、自分が努力することを早々と放棄し、相手に依存する。
被害者はそんな加害者の唯一の理解者だと思ったり、相手が今の環境の異常さに気付く事を期待して、依存する。
共に依存関係が成立しているわけだから、この環境から抜け出すことすら途方もない労力を有する。
何故『逃げないのか?』でも、 『逃げられない』訳でもなく、そこに留まりたいからそこにいるだけに過ぎない。
今までの環境を変えたいと思うなら、自分から行動し自分が変わることからスタートしなくてはいけない。
私は別れるにしても、よりを戻すにしても、1度相手と物理的な距離を取った方がいいと思っている。
加害者も、被害者も、DVの内容を知ってる人に間に入ってもらい、自分の置かれてる状況やしている行動を冷静に見つめて、受け止めなければならないと思っている。
お互いに自分を大切に、相手を大切に思うことを学び直して、今後の事を納得するまで、諦めずに面倒臭がらずに話し合う必要があると考えている。
そうすることで、より良い関係性を築き上げることが出来ると信じている。