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心がバカンスに出掛けています。  作者: きよらんて
7/27

逃げれない?逃げたくない? その1

DVの基準を書いてて、なぜ『逃げる』行動を取らないんだろう?と思う人が多いだろうな?と思いながら、どう説明したら分かりやすいだろうか。と悩んでいた。


そもそも基準に対しても『息ができているか』と言う言葉も、理解しにくいだろうとも思う。

『息が出来ている』人には分かりにくく、『自分が嫌だと感じたら』の方が分かりやすいだろう。

しかし、私には『自分が嫌だと思ったら』の意味自体が分からなかった。

それよりも『呼吸が出来ない』息苦しさを常に感じていたと思ったから、この言葉でアンテナが引っ掛かる人にこそ『今の置かれてる状況を考えて』貰いたいと思っている。


息苦しさを感じるのは、すでに自分の人生を自分で生きていないから感じていると、考えている。

人は自分の望むことをしていない時、違和感を感じる。

小学生、中学生の時、親の決めたルールや学校で決められているルールに何で?と思ったことはないだろうか。

それは大人が決めたルールの上で生きるように、強制的にやらされていたからだ。

もし家庭でのルールや学校でのルールを、子ども達が参加して決めたものだとしたらどうだろう。

必ず守る事は出来なくても、守る努力や守る回数が増えるだろうし、何より心構えが変わると思っている。


我が家では季節によって、年齢によって帰宅時間が違う。

親と上二人は弁当当番なるものが存在する。

このルールは子どもと一緒に決めている。

夏になる頃に『何時に帰ってきたいか』とそれぞれに聞いている。

すると子供達は自分遊びたい時間と大人が許すだろう時間を考えて、帰宅時間の提案をしてくる。

しかも理由も同時に聞くので、子どもの気持ちを知ることも出来る。意外と一石二鳥。


しかし何故そういうことをするのが難しいのかと言うと、第一に面倒だと言うこと。

子どもと話をするのは面倒、意見を聞くのが面倒、討論するのが面倒。

話をしようと思うと時間を有する、相手の意見を聞かないといけない状況に置かれる。

それが何より面倒。


それと人は対等の関係よりも命令を出す、命令を聞くの主従関係の方が圧倒的に楽だ。

世の中、対等な関係よりも主従関係のほうが多く存在している。

会社でもしかり、家庭内、近所付き合い、はたまた友達関係でも言える。

特に対等な関係に見せかけた、主従関係は溢れ返っているように思う。


力のあるなしで主従関係は成立しやすく、それには道徳や倫理、自分の考えなんて度外視されやすい。

会社では社長がトップでその下に専務や部長や主任がいて、社員は上司の言うことを聞く。

それが理不尽でも、仕方がない、そういうものと納得する。

不満を持ちながら納得なんて言えたものではないが、言い訳をしながら生きている人は多い。


家庭の中でも同じ、お父さんの言うことが絶対、お母さんに歯向かわないなんてのもあるだろう。

子どもでいる内は親の庇護下にいる。

親も子どものためと思いながらルールを作ったりしている。

親自身も子どもの時にそう教育されたことをそのまま実行していることもある。


DV家庭で育った子どもは、自分が親になったとき子どもにも同じ事をしがちであると言われている。

それはそれが正しい、躾だと思っている場合と、同じ事をしたくないと思いながらもしてしまう場合がある。

もちろんしない人もいるが、DVしてしまう人の多くは暴力をすることを親から学んでいるから、暴力を振るわない子育てや人との関わり方を知らない。

暴力自体いいことではない、言わなくても分かることでも本人は分からない。

振るわない方法を学び直す必要がある。

それには時間が掛かるし、一人でどうにか出来る問題ではない。

病院での適切な治療であったり、カウンセリングを受ける必要がある。


しかし日本ではそういう動きに対して遅れている。

加害者対策は勿論のこと、被害者対策も不十分だ。

加害者はまず自分に非があることを理解していない、自分に問題があるなんて頭から思ってもいない。

被害者に対してもそういう情報は行政から教えることはなく、自分で調べて自分からアプローチしなければいけない。

今ではネットで検索すれば、近くの被害者支援をしているNPO団体が見つかるが、私が今まで出会った団体でこれはっ!!と思うものに当たったことがなかった。

正直、傷の舐め合い。と言った具合がほとんどで、根本的に解決に至ったと言えなかった。


それが悪いとは言わない。

そういう時期も必要だとは思うが、その状態のまま。と言うのに問題がある。

DVについて学びましょう、こんなツラいことがありました、共有することで仲間意識が芽生えるが、その次のステージが用意されていないと、逃げたあとも同じことが繰り返される。


暴力の連鎖ではなく、依存の連鎖だ。

暴力を振るう側も、振るわれる側も共に依存関係にある。

両者共にお互いに甘えてる。

暴力を振るわれているのに何故相手に甘えてる?と思うだろうが、甘えていないのだったらその場にいない。

または相手に拒否の意思表示をしている。

拒否の意思表示を続けている状態で、暴力関係が維持し続けることできるだろうか?

まず、ムリだろう。どちらかが根をあげる。

暴力を振るう度にNO!と言われ続けてて、暴力を振るい続けることはムリがある。


いじめでも同じことが言える。

NO!と言い続ける、相手にしないことを繰り返すと相手は飽きる。

暴力は嫌だけど『止めて』と言うだけでは、NO!と言い続けている内に入らない。

相手が諦める方法をあの手この手を駆使して初めて、NO!と言ったことになる。

被害者にはツラい現実だが、そうしないと何も変わらない。


暴力を受け入れていると無意識下に相手に、同時に自分に覚えさせていることになる。

相手も、自分も暴力があるのが普通になってくるから、正常な判断や相手を思いやる気持ちが欠落してくるわけだ。


自分の意識下で判断していることは一部でしかなく、大半は無意識下に判断していることがほとんどで、その無意識下にアプローチし、意識的に修正しない限り環境や考え方は変わることはない。

お互いに意識的に修正しない限り、甘え続け依存し続ける関係性から抜け出す事はない。

それには片方だけではダメで、両方同じ思いでいないと成し遂げることが出来ない。

どれだけ努力しようと思ってても、相手が同じ思いでないと邪魔をしてくる。

環境を変えたくない、今の生活の方が楽なのを無意識がよく知っている。


何かを探しちゃう変えるには努力が必要で、それを怠ると後々痛い目に見ることになっている。

子どもの頃は親から言うことを聞くようにだけ教わると、指示がないと動けなくなる。

意思表示をしてくれないと何をしたらいいのか分からなくなる。

親元から飛び出し、初めて付き合うのが友達や親以外の大人たちだ。

そこで親からの教えがネックになってくる。

親から自分の思い通りにすることを学べば、友達に対してワガママ放題になるか相手のワガママに合わせるか。

年を重ねていき、疑問に思うことなく過ごしていると同じ事を繰り返す。

もちろん親と同じ人生を歩むとは言い切れないが、歩む可能性は高くなってくる。


私の場合も、被害者セミナーで知り合った人にも同じことが言えたが、加害者の親も加害者と同じような事をしていた。

加害者は加害者である現実と同時に被害者であることが多い。


親の暴力の元で育った加害者は、その親元から離れたとき自分で選んだ人に加害行為をあたえる。

不思議な事に加害者は被害者と離れたとしても、親元に戻る。

わざわざ、自分から被害者になりに行くのだ。


私の元夫の家庭では父親がヒエラルキーのトップで、そんな父親を尊敬している母親と子供達だった。

その家庭でのルールが全てで、そこからはみ出るものは嘲笑いの対象になる。

例えばその家庭より裕福であったり、子どもの能力値が高かったり、考え方が少しでも違ってもだ。


その家庭で妻に対して暴力がなかったが、元夫に対しては結構あって、意味が分からないものもあったが、元夫自身は当たり前のことだったりする。

この当たり前がくせ者で、疑うことはない。

疑うことがないから、自分が選んだ私にも、自分の子供達にも同じ常識を植え付けようとする。

そこからはみ出ることが許せないらしく、罵倒して、バカにして、暴力を振るうわけだ。

元夫は自分達の家庭のルール以外にも、ルールが存在する事を理解できない。

例えそれが法律で定められたことや、道路交通法で決められていることでも。

もっと言うとそこからはみ出たものの方こそが、その家庭では称賛に値することだったりする。


彼の全ては親が作った世界が全てなのだ。

私の世界や子どもたちの世界は、認めることが出来ない世界で、それを認めることは今までの常識を覆すことになる。

そんな事をしたら、自分が保てない。

自分で手作りした世界がないのは、とても脆い。

存在する価値が、なくなることに等しい。

彼は自分を保つためにも、私や他の人の考え方を否定せざる得ないのかもしれない。







私の考えを文章にし始めて間もないので、伝えやすく、分かりやすくまとめるのは、非常に難しいことです。

今回の話は私の重要なことなので、特にまとめるのが難しく、敢えて駄々漏れ状態で書こうと思いました。

人にはそれぞれ考え方が違う事を前提に人と関わり合わなければなりません。

私の人生の多くは、理不尽な世界を形成した人たちと関わったことにあります。

今だからこそ考えれる彼らの思考を心理学などを元に私が学び、一つの結論を出すことで前に進んでいます。

彼らにしては私の出した答えは正解ではないと言うでしょうが、私の目からはそう見えるだけの話で、それ以上でもそれ以下でもない。

もしかしたら誰かが自分の人生を歩むために、こんな文章でも背中を押す手助けになるかも知れないと思っての駄々漏れです。

それ以上に文章化することで、私自身が納得する為のものです。

長い年月振り回されてきたものだからこそ、言葉にしたいことが沢山あります。

ですので今回は前編・後編に分けさせて頂きます。

時間が経ってまとめることが出来たら、まとめた形で新たで投稿したいと思います。

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