桜の木の下で
もう誤魔化すわけにはいかない。
私が思いを隠し、逃げ続けた結果、こうやってこじれてしまったんだ。
かっこ悪くても正直に言おう、と私は膝の上に乗せたこぶしをぐっと握り、口を開いていった。
「私、怖かったの」
「何が」
「……最近の碧が」
あまりの気まずさに、私は視線をそらして呟くように言った。
「は?」
思った通りの反応だ。
きっとまた、眉間にあの深いしわが刻まれているんだろうな、なんて思った。
碧に暴力をふるわれたことなんて一度もないし、イヤミは言われても、心を傷つけてくるような言葉を吐かれたことはない。
碧からすれば、私に怖がられる理由がわからないのだろう。
それでも、私は碧のことが怖かったんだ。
だって――
「付き合ってた時より、ぐいぐい迫ってくるから。別人みたいで怖かったの!」
勢いに任せて、大声で言う。
碧からどんなふうに思われるのかは心配だったけれど、口に出してしまえばなんてことはなく、あんなに重かった心が一気に軽くなったような気がした。
私の言葉が予想外だったのかは分からないけど、碧は押し黙り、気まずそうに視線を落としていく。
しばしの間、風の音しか聞こえなくなっていたけれど、やがて碧は口を開いていった。
「それは……」
「それは?」
促すように、私が恐る恐る碧の言葉を繰り返していくと、碧は私の目をまっすぐに見つめてきて、こう言った。
「奈都のせいだ」
「……なんでよ」
私のせいにされる理由が、さっぱりわからない。
迫ると逃げるから面白くなって、ついついいたずらしたくなった、とか言うんじゃないだろうな、と私は口元を歪めていく。
すると、碧は気まずそうに視線をそらしてきて、小さく息を吐いた。
「俺はもうずいぶん前から、キスだけじゃ全然足りなくなってた。ずっと奈都が欲しくて欲しくて仕方なくて」
想像していたよりももっとずっと碧から想われていたことを知り、私の顔は一気に熱くなっていく。
恋愛に疎い自分を恨んでしまうばかりで、気の利いた言葉が何一つとして浮かんでくれない。
そこまで思ってくれていながら結婚まで我慢してくれたのは嬉しいけれど、恥ずかしすぎて碧の顔がまともに見られなくなる。
すると、頬にそっと温かいものが触れてきて。
それが碧の手だとわかり、私はぴくりと震えた。
「大丈夫。奈都が嫌がることはしないから」
碧はどこか寂しげな柔らかい声で、そっと言う。
「碧?」
顔を上げると、碧は私の頬を優しく撫でていきながら、困ったように笑った。
「結婚という形をようやく手に入れて、たがが外れて抑えが効かなくなった。でも、自分本位だったよな、ごめん」
碧の言葉に、私はふるふると首を横に振る。
謝るべきなのは碧じゃない。
私なんだ。
「碧は何も悪くない……私がいけないんだよ。臆病な私が。碧に幻滅されるのが、ずっと怖かったの」
「幻滅?」
碧に聞かれて、言葉に詰まる。
だけど、ちゃんと伝えないとまたこじれてしまうかもしれない。
誤解されて険悪になってしまうほうが、よっぽど怖い。
そう思った私は、大きく息を吸って意を決し、こう言った。
「私、お腹のお肉つまめちゃうの。それに、胸も小さいから……」
「は?」
「このままじゃ、がっかりされちゃうだろうから、自分でツボ押しとか筋トレとかやってみてるんだけど、全然変わる気配なくて……」
色気のない貧相な身体でがっかりだ、と言われるのではないかというのが気がかりで、私はずっと怖かったのだ。
「……ったく、この阿呆」
碧は深く息を吐いて、頭を抱えていく。
“お前にはうんざりだ”とでもいいたげなこの態度は、久々に見たような気がする。
「阿呆って何よ! 私すごく心配だったんだからね。怖くて怖くて仕方なかったんだからね」
むっとして言うと、碧は私にずいっと人差し指と顔を突き付けてきて。
「おい。俺がいつ、色気のある女が好きだと言ったんだ」
「へ?」
「言ってみろ」
碧は睨みつけるように私を見つめてきて、口もへの字に曲がっていた。
「あ、え、ええと」
いつだったっけか。
確か……って、ああ。そんなこと一度も言われたことなかったや。
「“奈都が”好きだと、何回言わせれば気が済むんだよ。余計なこと心配し過ぎ。変なとこ遠慮して、独りで考え過ぎだから」
「うう、すいません」
「これからは独りで抱えないで、些細な不安でもちゃんと言ってくれよ。俺らは夫婦だろ」
碧はふ、と笑い、ぽんぽんと私の頭を優しく叩いてくれる。
ああ。なんだか碧がキラキラして見えるよ。
私にはもったいないくらいの旦那様だぁ……
優しい瞳をした碧に見つめられるのは未だに恥ずかしくて、すっと視線をそらしていく。
それが碧には気がかりに思えたのだろう。
不安混じりの声でこう尋ねてきた。
「何? 思うことがあるなら、ちゃんと言葉にして」
「いや、あの、ええと、碧がかっこよすぎて、まともに顔見れないだけ」
恥ずかしさのあまり、首元にまいた薄手のストールに口元をうずめる。
「おい、お前な……」
碧も右のこぶしで自身の口元を押さえていき、照れた顔をしてきて。
そんな碧がなんだか可愛く思えた私は、立ちあがって笑った。
「また変な心配しちゃってたってことだね。あーあ、損しちゃった。洗濯物取りこまなきゃいけないし、帰ろ!」
二人で手を繋いで桜の下へと戻ると、風が吹き付けて桜の花びらが一斉に舞っていく。
薄桃色が光を浴びてキラキラと光り、言葉にならないくらいに綺麗だ。
あまりの美しさにはしゃいでいると、碧は私を見て楽しそうに笑ってきた。
「なによ。また童とか言うつもり?」
口をとがらせると、「千年も前のこと、根に持ちすぎだから」と苦笑いをして碧は首を横に振る。
そして、ふわりと柔らかい表情になった。
「やっぱり奈都は何年たっても奈都だな、と思って」
「へ……?」
「振り回されてるのは、いつも俺の方だってこと」
碧は何を思い出しているのか、くすくすと楽しそうに笑う。
「そうかなぁ」
「そうさ。あの日お前が現れた時からずっと」
「ずっと?」
こくりと首をかしげると、碧は私の耳元に顔を寄せてきて。
「俺が考えてしまうのは、お前のことばかりだ」
甘く優しく囁かれ、私の顔は一気に熱くなる。
ああ、これはきっと、たぶん耳まで赤くなってる。
ロボットの動作のようにぎこちなく碧を見ていくと、してやったりというような顔で笑っていた。
ああ。これ、絶対わざとだ。
コイツ、いい性格してるわ、本当に。
むすっとして視線を送っていくと、碧はシートを片づけていき、私の手を取り、絡めてきてこう言ってきた。
「さ、帰ろう」
「うん!」
右手には温かくて力強い手、顔を上げれば碧の横顔。
不安になることなんて、もう一つもない。
きっとこうやって、私たちは何があっても乗り越えていける。
そう思った時、なぜか後ろの方に気配のようなものを感じて。
――碧を頼みます
ふと、そんな言葉が聞こえた私たちは、同時に立ち止まって振り返る。
私には何も見えなかったけれど、桜舞い散る中で、碧には一瞬その人の姿が見えたのだろう。
隣に立つ碧は、嬉しそうなような、泣き出してしまいそうなような、なんとも言葉にできない顔をして微笑んでいた。
「ねぇ、碧。今日は私、ちゃんと起きていられると、思う。いろいろ待たせてごめんね」
キュッと指に力を込めて、恥ずかしい気持ちをこらえながらそう言うと、碧は一瞬きょとんとした顔をしていって。
そして、すぐに優しく目元を細めて笑った。
「やっぱり、昨晩のばあさん化はそういうことだったのか」
「ばあさん化って何よ、も~!」
私が口をとがらせていくと、碧と視線が交わる。
そして、桜舞い散る青空の下、私たちは同時に噴き出すように笑っていったのだった。
fin.




