かみ合わない歯車
結局、早朝の訪問者はシズ姉さんだった。
昨日の結婚式で酔っぱらってしまい、うっかり携帯電話を玄関に置き忘れてしまっていたようで、それを取りに来たということだった。
シズ姉さんは、私が中学生だったあの頃から全く変わらず、明るく優しくて、私もこんな人になりたいな、なんて憧れてしまう。
そんなシズ姉さんは、三年ほど前にステキな奥さんになり、お母さんになっていた。
旦那さんは、くまさんみたいな体格をしていて、シズ姉さんと二人でいつも、のんびりホンワカした空気を醸し出していて。
誰にも言わなかったけれど、私は二人の自然な雰囲気と距離感を、羨ましく思っていたりもしていた。
それに比べて、私たちときたら……
碧はなぜだか昨日からぐいぐいと迫ってくるし、照れの消えない私は、それをどうやってかわしていくかということで精一杯。
私たちの間には自然な雰囲気どころか、緊張感が漂っているようにさえ思う。
新婚生活って皆こんなものなのだろうか、と、ちょっとばかり不安になって、小さくため息をついた。
そして、ため息の理由はこれだけじゃない。
困ったことに今日、お義父さんは地鎮祭を終えた後、そのままシズ姉さんのところに泊まり行くとのことなのだ。
孫であるユキちゃんとも遊びたいし『新婚さんたちは二人きりで過ごしたいだろうから』とか、変に気を使ってくれて。
こういう気づかいは喜ぶべきなんだろうけれど、私としては正直ありがた迷惑だったりもしていた。
何せ、私と碧は、何年も付き合っているのに、キスより先へと進んだことがなかったのだ。
一緒に旅行に行った時にそういう雰囲気になったことはあったけれど“神主の息子が結婚前にそういうことしちゃいけない!”と私が言い張り、真面目な碧は“確かにそうかもな”と納得したわけで。
だからこそ、結婚後はじめての夜が怖くて、不安で、逃げたくて仕方なくて。
臆病な私は、昨晩お風呂に入った後、九時台という普段ならあり得ない時間に眠りについた……というか、眠りについたふりをしていたのだ。
「今日の夜は、どうごまかそう……」
シズ姉さんを見送り、ぽつりと呟く。
さすがに今日も九時台に寝るのは、不自然すぎるだろう。
お腹が痛いふりをするのが一番無難だろうか、なんて考える。
いつかは碧と、と思うけれど、その“いつか”は今日じゃない。
私にはまだ、その覚悟は決められないんだ。
――・――・――・――・――・――・――
朝ごはんを食べ終えた私たちは、洗濯物を干してお義父さんを見送ったあと、ひたすら自転車をこぎ続け、山奥の林へと向かった。
細い林道へと入るため、自転車は下に置きっぱなしにし、私たちは人気のない道をひたすら歩いた。
「ねぇ碧、本当にこの先に桜があるの?」
私は碧のナナメ後ろを歩きながら問う。
周りにあるのは、緑の葉が茂る、名も知らぬ木ばかりだ。
「この先に、見事なのがある。花見にちょうどいいのがな」
不安がる私に碧は淡々と返してくるけれど、どう見ても桜がある雰囲気には見えない。
碧は藤のバスケットを持ちながら、軽快に林道をいく。
あのバスケットの中には、私が作ったサンドイッチと、おかずが入っている。
朝、碧はお弁当づくりを手伝うか聞いてくれたけど、私は丁重にお断りさせてもらった。
だって、碧の料理の腕は千年たった今でも、変わらず最悪だったから。
料理の下手さと口の悪ささえ直せば、碧は完璧なのにな――なんて思いながら歩いていると、碧は突然立ち止まる。
「どうしたの?」と尋ねると、碧は「ほら、着いた」と遠くを指差して声を発してきて。
碧の背中からぴょっこり顔を出してのぞいていき、私はすぐに感嘆の吐息を漏らした。
「わ……すごい」
「なかなか見事な桜だろ」
目を輝かせる私を見てきた碧は、得意気に笑ってくる。
私たちの視線の先は広場のようになっており、その真ん中には巨大な桜の木が一本だけ、堂々たる様子で立っていた。
太い幹と枝に薄桃色の花が咲いていて、風が吹くたびに薄桃色の花びらが舞い落ちていく。
大きくて綺麗な桜にも関わらず、あたりには人っ子一人いない。
碧が言うように、ここはかなりの穴場のようだった。
持ってきたシートを広げてしゃがみこみ、私たちは二人でお弁当をほお張り、何気ない会話を重ねていく。
千年前のことや、現代で出会う前、そして出会ってからのこと、あとは昨日の結婚式のこと。
大好きな人の側にいられて、声が聞けて、こんなに近くで笑顔を見ることができて、幸せでいっぱいになっていく。
もう、私たちは“遠距離恋愛の恋人たち”じゃなくて“夫婦”なんだ、と、なんだかくすぐったい気持ちになり、口元を緩ませて少しばかり照れた。
ふと桜の花を見上げると、薄桃色の花びらが真上から雪のようにはらはらと降ってきて、それがとても綺麗で。
この桜を碧と二人で独占できるなんて、本当に夢みたいだと思い、にこりと微笑んだ。
「あのさ、奈都」
「なぁに?」
何気ない様子で名を呼ばれて、私は顔を正面に戻していく。
その途端、後頭部に手を置かれ、頭と上半身がぐんと引き寄せられる。
そして、あっという間に、唇を塞がれた。
不意打ちともいえるキスに驚き、私の鼓動は、どくんと一際強く跳ねていく。
至近距離にいる碧は、手を私の頭から離そうとしないまま、熱のこもった瞳で私のことを見つめてきていて。
あまりの恥ずかしさに、私は思わず視線を落として縮こまり、きゅっと目をつぶった。
「その顔、すごくいい……」
恥ずかしがる私を見てきた碧は、低く囁くような声を発してきて。
色気に満ちた声色に、全身の血が煮えたように熱くなり、心臓が暴れる。
碧は半ば強引にキスをしてきて、しかもそれがだんだんと深く甘いものへと変わってきている。
このキス、はじめての旅行の時と同じ。
あの時は首すじに口づけをされて、押し倒されて。
私、このまま……
「やだっ!」
碧に求められるのは嬉しいことのはずなのに、どうしても先に進むのが怖くなった私は、碧の胸を強く押して立ち上がり、離れた。
拒絶をされた碧は、言葉を失くして私のことを見つめてきている。
自分がしたことなのに、何をしてしまったのか自分でも信じられない。
頭のてっぺんから、さぁっと血の気が引いていく感覚がした。
しまった……どうしよう……
私は碧の奥さんなのに。
碧のことが誰よりも好きで、ずっとそばにいたいのに。
私はなんてことをしてしまったんだ。
「ごめん、本当にごめんね……」
私は震える声を絞り出し、つっかけるように靴を履いて、逃げ出した。
どうしよう、どうしよう。
碧は私のことをすごく大切にしてくれているのに。
拒絶するなんて、本当に大馬鹿者で、最悪だ。
無我夢中で走っていると、後ろから足音がし、私の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
碧が追いかけてきているのだ。
だけど、あんなひどいことをした後で、どんな顔をして会えばいいのかがさっぱりわからない。
一人になって冷静に考える時間が欲しくて、私は足元だけをみて必死に走った。
「おい、待て! そっちは……!」
叫び声にも似た碧の声に、私はふと顔を上げて、言葉を無くした。
目の前が、二、三メートルほどの切り立った崖になっていたのだ。
慌ててストップをかけるけれど、勢いのついた身体はすぐには止まれない。
落ちる……っ!
襲い来るであろう痛みを怖れ、身体を強張らせる。
すると、ぐんと強く右手が引かれて、私の身体は捻られていった。
いつまでも痛みが襲ってこないことに気付いて顔を上げると、私は崖近くの地面に座り込んでいて、碧の腕の中にいた。
どうやら、私はまた碧に助けられてしまったらしい。
「この……阿呆が!」
碧は怒鳴るようにそう言って、私の身体をぎゅうと強く抱きしめてきて。
痛いくらいの力で抱きしめてられて苦しかったけれど、その一方で碧の身体は微かに震えていた。
それだけ、私の身を心配してくれていたのだ。
「ごめん……なさい」
碧の背中に手を回してきゅっと掴み、余計なことばかりしている自分に反省と後悔をして、謝る。
謝って許してもらえるとは思わなかったけれど、謝らずにはいられなかった。
「たかが二メートル程度でも、当たり所が悪けりゃ死ぬかもしれない。走るのはいいが、周りを見てくれよ」
碧は刺々した声色で、呟くように言ってきて。
「ごめんなさい……本当に私、馬鹿だ」
どうしようもない自分が情けなくて、泣きそうになる。
だけど、泣いたってどうにもならないどころか、ますます碧に嫌な思いをさせてしまうだけだ。
後悔の渦のなか、涙を流さないように必死にこらえていると、碧は深く息を吸い、呟くようにこう言ってきた。
「どうして……」
「え?」
「どうして逃げた」
その問いかけに、私は無言になる。
林の中は静かすぎて、時折鳥の声と風の音が聞こえてくるくらいだ。
声のない静寂が“早く答えろ”と私を焦らせてきているように感じた。
「理由もなく俺が嫌か。本当は、結婚もしたくなかった?」
碧は私を抱き締めていた両腕をそっと離していき、苦しそうな顔で私を見つめてきて。
その表情にずきりと胸が痛んだ。
「違っ、違うよ……」
碧と結婚したくなかったってことは、絶対にない。
プロポーズだって涙が出るほど嬉しかったし、幸せすぎて夢なんじゃないかって何度も思った。
遠距離恋愛という恋愛の形は寂しさと愛しさばかりが募って苦しかったけど、結婚後は『いつも碧と一緒にいられるんだ』と、楽しみで仕方なかった。
今朝だって、起きたら隣の布団に碧がいて、一緒に朝御飯を食べられて笑い合えて。
そんな何気ないことが嬉しくて、幸せで胸がいっぱいだったのに。
「それなら……どうして」
結婚をしたくなかったわけじゃない、と言い張る私に向かって、碧は不安げな表情を浮かべてくる。
世界で一番大好きな人に、そんな顔をさせてしまう自分をひどく恨めしく思った。




