望まぬ帰還
――なぁ……なつ……
真っ白な世界で、誰かの声がする。
その声に促されるようにゆっくりとまぶたを開けると、そこには見覚えのある顔があった。
「ナツちゃん! そんなとこで寝てると風邪引くよ。はよ起き」
「あれ、私……」
起き上がって座り、ぼんやりした頭で辺りを見回していく。
目に入って来たのは、大将軍社よりも遥かに大きな木造の大きな社に、商店街、空を縫うように張り巡らされた電線。
耳に聞こえてくるのは、自動車の排気音そして、道を行き交う人々の楽しそうな話し声。
あの頃と同じだったのは……大将軍社だけ。
ここは、どこ?
広く高く澄んだ青い空は?
どこまでも広がる豊かな林は?
碧はどこなの……?
「やる気満々やね。今朝、大将軍社に着いて調べてみたらって私が言うたやつ、早速調べてみたんやろ」
私を起こした目の前の巫女さんは、明るく笑う。
一つにくくった漆黒の長い髪に、大きな二重の目。女優のように綺麗な人、シズ姉さん。
ああ、ここはもう平安時代じゃない――
「う、うううっ……」
涙があふれてきた私は顔をおおい、体を震わせてしゃくり上げながら泣いていく。
――戻ってきてしまったんだ。
突然泣き出した私に、シズ姉さんは慌てて寄ってきて肩を優しくさすってくれる。
「どどど、どしたん? もしかして転んだ? どこか怪我した?」
その言葉にぶんぶんと左右に頭を振った。
怪我なんかよりも、もっとずっと痛くて苦しい。
だって、どんなに望んだって、もう二度と会えなくなってしまったのだ。
優しい笑顔も見られない、あの声も聞けない、当たり前のようにやってきた口げんかさえもできなくなってしまったのだから。
シズ姉さんは、私が抱えていたカバンを見つめて、何かがわかったかのように静かに頷いていく。
「あぁ、もしかして……カバンについてた、アッシュのキーホルダー無くしたんやろ? ユキヒロモデルのキーホルダー、めっちゃレアやもん。確かに落ち込むのもわかるよ。だけど、そんなに泣かないで。また次のライブの抽選で当てたらええよ、ね」
その言葉に、うつろな目でカバンを見る。
すると、昨年バンドのライブ抽選で当てたキーホルダーがどこかへ消えてなくなってしまっていた。
勲章のような形をしたおしゃれなキーホルダー。
そこにつくリボンに、抽選に当たった人限定でバンドメンバーの名前だけではなく、自分の名前の刺繍も施してくれるのだ。
大好きなアッシュのボーカル、ユキヒロと自分の名前が入ったキーホルダーをずっと宝物にしていたけれど、そんなものはもうどうでも良かった。
大好きな碧に会いたくて会いたくて。
あの声が聞きたい。あの笑顔が見たい。あの手に触れて、あの瞳にまた私を写してほしい。
私たちはずっとすれ違っていただけで、確かに両想いだったのに。
私が消えゆく時、どんなに必死に手を伸ばしても、碧は強く本を握ったまま動こうとしなかったし、想いを伝えてもくれなかった。
最後に聞こえたあの言葉だって、もともと私に伝える気はなかったんでしょ?
それどころか碧は、嘘をついてまで私にワンピースを着せてカバンを持たせ、向こうでの品を何一つ私に残していってくれなかった。
ただ一つ私に残されたものは、平安時代で過ごした記憶だけ。
記憶なんてものはあいまいだ。
いつか碧のくれた言葉やぬくもりも、あやふやになって最後には思い出せなくなってしまうのではないか。
私はその事がたまらなく怖い。
碧と私を繋ぐ確かな絆は『記憶』それしかないのだから。
だけどね、最後に碧の夢を覗き見た今になってわかったよ。
別れの時、平静を装い続けた貴方の……その両手は、小さく震えてた。
碧は、それほどに強い決意をもって私をこの世界に帰していったんだね。
碧、貴方はずるい。
勝手に決めつけて、勝手に完結して、勝手に私を遠ざけて。
私は、伝えたいことを何一つ伝えられていないのに。
あの日の伊助さんの言葉がよみがえる。
――あのさ碧、君はもっとわがままになった方がいいと思う。手放すのは簡単でも、過ぎ去った幸せを取り戻すのは……君が想像する以上に難しいことなんだよ
伝えたいことはたくさんあるのに。取り戻したいものも取り戻せず、溢れるほどの想いを届けられないまま永遠にお別れ、なの?
もう戻らない過去の日々を思い、シズ姉さんに肩をさすられながらいつまでも泣き続けていったのだった。




