君と見た夢
真っ白な世界に一人取り残された私は、薄れゆく意識の中でとても幸せな夢を見ていた。
もう戻れない、幸せだったあの頃の夢。
きっとこれが、私が最後に覗き見る、貴方の夢……
――・――・――・――
人を呼ぶ大きな声が、静かな寺に響き渡る。
「日も落ちたというのに、誰ですか。まったく不躾な方ですね」
柔和な声が戸の向こう側から聞こえ、がらりと音を立てながら戸が開いていく。
ひょっこりと顔を覗かせたのは年配の僧侶だった。
僧侶は、目の前に立つ少年の姿を見てにこりと穏やかに微笑んでいく。
「おや、お前は碧ではないですか」
碧と呼ばれた、人とは思えぬほど美しい姿をした少年。
彼は狼狽した様子で声をあげていった。
「源菖様! 奈都が目を覚まさないのです。俺の所為だ、あんなものを見せたから……もしこのまま目を覚まさなかったら……」
焦りの色がありありと見てとれる少年を見つめて、戸を開けた僧侶は穏やかに微笑んでいく。
「大丈夫ですよ。顔色も良いですし、娘さんは気を失ってしまっただけでしょう」
「それは真ですか! よかった……」
少年は僧侶の言葉に表情を変えて、ほっと安堵のため息をついていった。
「ほら、よくごらんなさい。貴方があんまり大声を出すものだから、娘さんはしかめっ面の寝顔をしていますよ。貴方の取り越し苦労です。それにしても普段冷静な貴方が、ここまで慌てるなんて。恐ろしい天変地異にでもあったものかと思いましたよ」
少年は腕の中にいる娘を見つめて、困ったように優しく笑っていった。
「天変地異、か。奈都がこのまま目を覚まさぬことの方が、俺にとってはよっぽど恐ろしい」
――今のは源菖さんと、碧……それに私?
――・――・――・――
耳鳴りのようなノイズが聞こえ、場面が移り変わっていく。
「ね、寝坊するな、だよね……ご、ごめんね?」
――あぁ、これは私の声だ。
ぼんやりとした意識の中で視線を移す。
――ここは、源菖さんのお寺? この光景、見おぼえがある。たぶんこれは、寝坊しちゃった日だ。
寝坊したことを半泣きで謝る過去の私を、驚いたような目で見つめる碧がいた。
そして碧はあの時と同じように、こほんと小さく咳払いをし、廊下の方へと向かっていく。
「……まぁ、昨日は歩き通しだったし疲れてたんだろ。着替えて飯食ったら出発するぞ」
碧は廊下へと出る直前、独り言のようにそう話していった。
「ねぇ碧、何か変なものでも食べた?」
「……五月蠅い。時間がもったいないだけだ! 早く支度しないと、ここに置いていくぞ」
背を向けたまま、イラつき度最高潮な声で碧はそう話す。
「置いてかれるのは絶対嫌だ! すぐ着替えるから待ってて」
過去の私は、飛び起きて慌てた様子で支度をはじめていった。
――確か、この後は碧に嫌味を言われたんだ。実際の言葉は聞こえなかったけど、ため息をついていたし、きっとそう。
過去と同じように、廊下へ出ていった碧。向こうの方から深いため息が聞こえてくる。
――ほら、ね。って、え……?
「あんな潤んだ目で見るなよ。本当にあいつといると調子が狂う」
頬を朱色に染めながら碧は静かにそう呟いて、がしがしと頭をかきながら廊下を歩き去っていった。
――・――・――・――
――また、耳鳴り……
またもや場面が移り変わる。今度は先ほどとは大きく雰囲気が異なり、暗くて少し肌寒い。
――ここは、洞窟?
視線を外に移すと激しいほどの音を立てて、大粒の雨が降り注いでいる。
外とは違い、静かな洞窟の中。
碧の呟く声が響きわたっていく。
「寝た、か」
碧の膝の上には過去の私の頭が乗っていた。
――ああ、ここは碧が雷から守ってくれた洞窟だ。
「はは、ヨダレ垂らしてやがる」
疲れて眠ってしまった過去の私の寝顔をのぞきこんで、楽しそうに笑う。
「うーん、碧……」
過去の私はもぞもぞと動き、小さく独り言を放っていった。
「――――ッ」
まさか寝言で自分の名前を呼ばれるとは思ってもみなかったようで、碧は顔を真っ赤に染めて言葉を出せずに固まっている。
そして、次に過去の私が口をもごつかせて放った寝言は……
「干し芋美味しいね」
「はぁ……色気がない」
ため息をついて碧は頭を抱えていった。
顔の赤みは一気に消失し、つまらなさそうに過去の私の寝顔を見つめている。
「お前、寝言くらいは気のきいた事言え……」
「あのね。私、碧といられて幸せだよ」
碧の言葉にかぶせるように、過去の私ははっきりとした口調でそう言った。
視線をそらして、照れくさそうに碧は呟く。
「俺もだ。奈都のそばにいられて……」
言葉を止めて、大きなため息が響いていく。
「くそ、寝言かよ……」
――・――・――・――
――また耳鳴り。今度は、どこ?
特徴のある甘い声が聞こえてくる。
――これは、伊助さん……?
郡衙の一室で、難しい顔をした役人二人。
一人は郡司の伊助さん、もう一人は……碧。
「奈都ちゃんが、未来から来た、か。嘘みたいな話だけど、君が言うんなら本当なんだろうし信じるよ。でもさ碧、本当にそれでいいの? 彼女のこと、好きなんだろう?」
碧はまっすぐに伊助さんを見つめて、こう言い放つ。
「好きだからこそ手放すんだよ。もう決めたんだ、あいつの幸せはきっと……未来にある」
――・――・――・――
意識もほとんどないぼんやりとした頭のまま、涙だけが意思を持っているかのようにぽろぽろとこぼれ落ちていった。
真っ白な景色は耳鳴りと共に、また移り変わり新たな過去の夢を見せていく。
「……綺麗だと思って見とれていた」
「ふぇ!?」
ワンピースを褒めてもらえず、ひっそり落ち込んでいた過去の私の耳に飛び込んだ、碧のセリフ。
勘違いしないようにと自分に言い聞かせていたのに、碧は頬に触れ、真剣な瞳で過去の私を見つめていった。
「聞こえなかったのか? 可愛いし、綺麗だ。なぁ奈都、こう言ってやれば、お前はずっと俺の……そばにいてくれるのか」
「碧?」
「……なんてな。そんな簡単なことじゃないのに馬鹿みたいだ」
――ねぇ碧、貴方も一緒にいたいと思ってくれていたんだね……
――どうして私たちはこんなにも、すれ違ってしまったのだろう
――・――・――・――
――そして、私の見た一番最後の夢は……
夕焼け色に染まった大将軍社。
そこには、涙で顔をぐしゃぐしゃにした私と哀しい顔で笑う碧がいた。
「碧が隣にいてくれるなら、全部向こうに置いてでも私はここにいる! 仕事だって料理だってちゃんとやるし、わがままだって言わない。苦手な勉強だって頑張るよ。だから……だからお願い、早くその本を閉じてよ……」
「ごめん、それだけは聞けない。この汚れた時代なんかより、優しいお前には平和な時代が良く似合うと、考えなくてもわかる。だから奈都、幸せになれよ。他の誰よりも。ああ……これで、さよならだ」
光の粒となって消えていく過去の私を、碧はぴくりとも動こうとせずにじっと見つめている。
光に取り込まれず唯一残っているのは過去の私の右手。
それを見つめる青緑がかった色の澄んだ目は、潤みながら揺らいでいる。
次第に消えていく過去の私の手。
ほどけて天に昇るように、最後の光の粒は静かに消えていった。
「ありがとう、奈都。ずっとお前のことが好きだった 」
そう呟く碧の左目から一すじ雫が流れ落ちると同時に、手に持っていた歴史書も光りはじめ、光の粒子となっていく。
そして、そのまま輝きながら弾けるように消えていった。
持ち込んだ歴史書までもが、私の愛した平安時代から消滅していってしまったのだ。
こうして、私が過去にいた証は全て消えて無くなってしまった。
まるで最初から何もなかったかのように。
大切だったあの日々が全て、ただの夢だったかのように……




