火のないところに煙は立たず
「あぁ、時平殿がそんなことを」
碧に五十年前の時平さんのことを伝えていくと、彼はふわりと優しく微笑んでいった。
曇りのない綺麗な笑顔に不思議と目が離せなくなる。
すると碧は突然表情を変え、考え込むような様子を見せていった。
「もしや……道真殿は怨霊になどなっていないのかもしれぬ」
急にどうしたのだろう。
碧の考えていることがさっぱりわからない。
「碧?」
「前々からおかしいと思っていたんだ。道真様は左遷されてからも恨み言など言わず、国家安泰を願っておられたのに、お亡くなりになられた途端怨霊になるだなんて」
「でもお役人さん、皆死んじゃったんでしょ?」
陰陽師である忠邦さんの弟子、仁太君がそんなことを言っていた気がする。
落雷や病気、その他にもたくさんの凶事が続いたんだって。
「変死した者は確かに多いが、役人の死は立て続けではなく、何年間にもわたっている。これっておかしいと思わないか?」
おかしい、か。確かにそう言われてみればそうかもしれない。
雷で何人も一気に殺せる力があるのに、一人ひとりをちまちま呪ってるってことだもんね。
「怨霊なら手っ取り早く、一気に呪っちゃうだろうってこと?」
「そういうことだ。それに、もし俺が怨霊だったら雷で簡単に殺したりなんかしないで、じわじわ追い詰めてどこまでも苦しめてやるぞ」
そう言って、にやりと得意げに笑う。
ああ忘れてた。
最近なりをひそめていたけど、碧ってSっ気あったんだった。
性格悪い、そう言ってやろうと思ったけれど、何倍返しになって返ってくるのかを考えると……
ぐっと言葉を飲み込んで、疑問を尋ねていく。
「だけどさ、怨霊話がただの噂でしかないんならどうして、そんな噂が出たのかな」
だって、道真さんが本当は無実だったって知っている人は、そう多くないはず。
受験勉強で出てきたことわざじゃないけど、火のないところに煙は立たずってやつだ。
噂があるんなら、その噂を流した人がいないとおかしいもの。
じゃあ、誰がそれを流したの?
私の疑問を察してくれたのか、碧はそれについて自分の考えを語ってくれる。
「これは想像でしかないんだが……時平殿の仕業なんじゃないだろうか」
時……平、さん?
恩人の道真さんを陥れて左遷させ、猫だった碧の最期を看取った、あの時平さんのこと?
碧が話した内容はこうだった。
病に伏せり、自分の生命の終わりを予感した時平さんは、僧侶を通して嘘の話を振りまいた。
それは『道真公の怨霊が、自らを左遷へと追いやった藤原時平を呪い殺そうとしている』という話。
時平さんを呪う道真公の怨霊についての噂は、京中を震撼させると同時に道真公の無実をも広めていった。
それこそが、時平さんの狙いだったんじゃないか、と碧は語る。
自らの病と若すぎる死をもって道真公の濡れ衣を晴らすと同時に、人を貶めればその業は自らに返ってくるということを、貴族や民たちに伝えようとしたんじゃないだろうか、と。
あくまで碧の話は想像でしかないけれど、完全なる作り話だとも言いきれなかった。
思い返してみれば、源菖さんの話にもそんな話があったんだ。
貴族たちは怨霊や妖怪を恐れて、日夜魔よけの儀式に力を注いでいる、って。
身に覚えのある貴族たちは、きっと時平さんが呪い殺されたということに恐れおののいたと思う。
名門藤原家で、この国の大臣まで登りつめた人も怨霊には勝てない……人を貶めるようなことをすれば自分の身に帰ってくるのだ、と。
菅原道真の怨霊騒ぎののちも、政治や貴族の行動は変わっていないように見えても……
「人々の心は確かに変わった」
心の中の考えが碧の声となって聞こえてきて、私は顔を上げて目を見開いた。
「何の罪も感じることもなく、自分の欲望のためだけに生きる時代はもう終わりを迎えなきゃいけないんだ。あのさ奈都、一つ頼みたいことがある」
「頼み?」
碧は何も言わず、困ったように笑って洞窟の外へと向かっていく。
つられて私も外へと出ていった。
昨日とはうってかわって空は晴れ渡り、眩しい朝の光を浴びて私は目を細めていった。
「雨も止んだし、朝も来た。続きは歩きながら話そう」
目を開けると優しく微笑む碧の姿があって、不思議とその姿はきらきらと輝いて見えたのだった。




