夢ノ終焉―後編―
肩で苦しそうに息をして震える碧の隣にしゃがみこんでいたのは、三十歳そこそこの男の人だった。
碧のことを知っている様子のその人は、質の良さそうな着物をその身にまとっており、立ち居振る舞いもどことなく優雅さを感じさせる。
貴族なんだろうか。
男は苦しそうな表情で碧のことを見つめている。
「どうしてお前がこんなところに……」
力をなくした碧を躊躇することなく抱え上げた彼は、自らの胸に優しく抱いていった。
これで碧が助かる、そう思ったのもつかの間、貴族はぽろぽろと涙をこぼし、彼の口から驚くべき言葉が飛び出していく。
「すまない。助けられなくって……間に合わなくってごめんな」
貴族の腕の中にいたのは、すでに息が止まり動かなくなった猫。
苦しくて悲しくて、貴族と同様涙が止まらなくなってしまい、人気のない林で二人で声もあげずに静かに泣いた。
落ち着いた貴族は、碧が必死にくわえていた紙を拾い上げて静かに目を通していく。
「お前、まさか道真公の書いた漢詩を天皇に渡し、彼が無実であることを伝えようと大宰府からここまでやってきたのか」
そう言って貴族は碧を優しく撫でてうつむいていった。
「やはり、私がしたことは間違っていたのだろうか」
力のないその声とは反対に、覇気に満ちた声が背後から聞こえてくる。
「間違いではありませぬ! 藤原時平ともあろう方が、何を迷っておられるのか」
顔を上げるとそこには見知らぬおじいさんが立っていて、おじいさんは貴族の手から碧の紙を奪いとっていった。
「じい、何をする」
「このような物が万が一天皇や他の貴族の目に触れでもしたら……ああ恐ろしや。こんなものはこうです」
「ちょっと何してんの!」
びりびりという紙を引き裂く音が何度も何度も無情に響き渡っていく。
止めさせようとするけれど、私の手はすり抜けるばかりで何の役にも立ってくれない。
碧が命を賭けて持ってきた大切な紙を、どうしてそんな風に扱えるの?
「時平様、貴族がバラバラにならぬようにと異質な菅原道真を追い出すことに賛同したのはあなたです。今更過去のことを蒸し返しては、ようやく安定を取り戻した貴族たちがまた荒れてしまいますぞ」
「……ああ、わかっている。わかってはいるつもりなんだ」
苦しそうにうつむいた貴族におじいさんはさらに追い打ちをかけていく。
「あなた様はまだわかっておりませぬ。さっさとその泥まみれで汚らわしい猫をお捨てくだされ」
何も出来ない私は、ただただ強くこぶしを握り、おじいさんのことを睨みつけていた。とにかく彼の言葉に怒りが止まらなかった。
どんな想いをしてこんなところまでやってきたのかも知らないのに、そんなふうに罵るなんて許せない。
もし、身体がすり抜けなければ全力でひっぱたいてやったところだ。
「時平様、御身が汚れまする。ささ早く猫を……」
「じい」
時平と呼ばれた貴族はうつむいたまま呟くようにそう言った。
「早くお戻りになって着替えましょう!」
どうやらおじいさんにはそれが聞こえていないようだ。
もしかしたら、聞こえているのに聞き流しているのかもしれない。
「じい。この猫は連れ帰り、近くの寺で供養して埋めることとする」
時平さんは、動かない碧をぎゅうと抱きしめながら静かにそう語っていく。
「なっ、なんと。たかが猫に供養などと酔狂な。そのようなことをしては笑われまする」
からからとおじいさんは笑うけれど、時平さんは鋭い目で睨みつけて一蹴していった。
「黙れ。お前も私も貴族も皆、この猫を見習うべきぞ」
――・――・――・――
あれから何個か場面が移り変わり、亜麻色の毛に碧色がかった瞳をした猫は丁重に供養され、寺の端にあった松の木の下に埋められた。
そして、移り変わっていった場面の中で、驚くことがたくさんあった。
碧が死んでしまったのは碧が道真さんと出会ったあの川近くの林で、天皇のもとまであと少しだったということ。
そして、このお寺は源菖さんのいるあのお寺だったということ。
一番驚いたことは、碧の最期を看取ったのが、碧の恩人である菅原道真さんを罠にはめた藤原時平さんだったということだった。
最初は、時平さんのことを『人を罠にはめるなんて最低』と思っていたけれど、碧の墓の前でうつむく彼の様子を見ていると自分の考えがよくわからなくなってしまった。
どうやら貴族の中で、学者出身で右大臣の道真さんは異質な存在だったらしく、出身が他の貴族の反感を買って、政治が動かなくなることもしばしばあったようだ。
「碧……道真公がお亡くなりになったと今朝知らせが届いたよ」
静かに淡々と時平さんは呟くようにそう言った。
「道真公を京から追い出せば、貴族たちは落ち着くかと思ったが……今思えば、その場しのぎにしかならなかったな。国にとって必要な人を失っただけなのかもしれぬ」
自嘲するような笑みを浮かべながら、墓に向かって時平さんは話しかけ続けている。
「安定した政治でこの国を豊かにしたい。その想いは道真公も私も同じだったはずなのに。やはり私が愚かだったのだろうか、間違っていたのだろうか。恩人に濡れ衣を着せ、結果的にお前と恩人の命を奪った私を……お前は怨んでいるか?」
苦しそうに唇を噛み、必死に涙をこらえている。
あぁ、つらかったのは道真さんや碧だけじゃなくて、この人も一緒だったんだ。
私は、小さくうずくまって震える時平さんの肩に手を乗せてこう言った。
「五十年後、生まれ変わった碧に会ったけど、たぶん誰のことも恨んでなかったと思うよ。ただ、道真さんとこの国の未来、それだけをずっと心配してた」
聞こえるはずのない私の声に、はっとした様子で時平さんは顔を上げていく。
そして目尻に涙を一粒浮かべて、優しく笑う。
「ああ、そうか。このままうつむくばかりでは、過去も未来も道を誤ってしまう。お前や道真公の死も無意味なものになってしまう。まずは貴族が一丸となって政治に当たれるようにするのが先決だよな……」
ひざまづいた時平さんは碧の墓に向かって静かに頭を垂れていく。
「碧よ、ここに約束しよう。お前のごとく、この国の未来に碧天をもたらすため私は前だけを見て歩み続けてみせる。大切な民のために、この国の未来のために、我が人生を捧げよう。例え私の生のその先に、果てない地獄が待っていようとも」
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