夢ノ終焉―前編―
◇◆◇◆◇◆◇
――道真様、どうかもうしばらくの間持ちこたえて下さい
息を切らし、大切な恩人の書いた漢詩を口にくわえて、京を目指してただ走る。
道真様は病に冒され、京から遠く離れた太宰府の地で床に臥せっている。
このままでは恩人である道真様は汚名をかぶったまま死んでしまう。
時間が、ない。
どうにかして天皇へこの漢詩を見せ、真実を伝えなければ。
「あなたの無実は必ずや俺が……」
――・――・――・――
これは、碧の……夢?
何回か碧の夢に入り込んだことはあるけれど、こんなにはっきりと意識があるのははじめてだ。
忠邦さんに言われて、この夢が碧の夢だと気付いたからなのかな。
私はぼんやりと立ちつくしているだけなのに、まるで映画を見ているかのように目の前の景色は次々と移り変わっていく。
慌ただしく変わるその景色の中で一つだけ変わらないものがあることに気づいた。
まだ小さく幼い……
「猫? 違う、あれはきっと碧だ」
険しい道を走り続ける亜麻色の毛に碧色の瞳の猫。
自分の知る彼の姿とは全く違うのに、不思議なほどすぐに彼だと分かった。
猫の姿の碧はその口に紙のようなものをくわえている。
自分の体よりも大きい鷹に襲われ、激しい雨に打たれ、寒い夜には震える体を小さく丸めて眠る。
「碧、何でそんなになってまで走り続けるの?」
土砂降りの雨の中、ぼろぼろになった猫に問いかける。
これは碧の夢の中で、私の声は彼には届かない。それはわかっているけれど、聞かずにはいられなかった。
きっと返事はないだろう、そう思っていたけれど猫の碧は静かに顔を上げ、碧く澄んだ瞳をきらきらと輝かせながら笑う。
「碧……?」
気づくと激しい雨は止んでおり、碧の視線の先には――――空と大地を結ぶような見事な虹がかけられていた。
虹を見つめた小さな猫はゆっくりと立ち上がり、また東にある京を目指し続ける。
恩人とこの国の未来に、同じような碧天があることを信じて。
――・――・――・――
それからも目の前の景色はめまぐるしく移り変わり、次第に碧に異変が見られ始めていった。
「碧、もう……やめようよ」
かすれた声で力なくそう呟いた。
目の前の碧の姿に涙が止まらない。
「このままじゃ、死んじゃうよ」
大宰府から京に向かって旅するなんて無茶だよ。人間だってこの距離は大変なのに、あなたはまだ幼い猫なんだよ。
見事だった美しい亜麻色の毛は、ぼそぼそに細って体中泥まみれになっていた。
目はうつろで、見えているのかもわからない。
痩せこけた体は立つ力さえも失くしてしまった。
それでも、碧は紙をくわえて立ちあがろうとし続けている。
何度も助けようとしたけれど、私の声は届かない。私の手は彼に触れられない。
これは過去のことで、碧の夢の中なのだから。
言いきかせていても、わかったつもりでも心の痛みは消えてはくれなくて何度も何度も声をかけて手を伸ばす。
「誰か、助けてあげて、お願い……」
どうすることも出来ずにうつむくと、かさりという布のすれる音が耳に入ってきて、私は顔を上げた。
「お前はまさか、右大臣のところの……碧、なのか?」




