謎の男
「ここが京の町……」
そこは私の知る京都とは似ても似つかない姿をしていた。
朱色に塗られ、立派だったと思われる大きな門の色ははげたまま修繕されることもなく寂れ、カラスや家を失った人の住処になっている。
所々木が腐り、不気味さだけを放つ門を横目に、私たちは大通りを歩いていった。
すれ違う女性は京都特有の艶やかな舞妓さんなどではなく、ぼろの着物をまとった痩せこけた娘。
遠くのほうには、地面に座り込んでうつ向きながら薪を売るおじいさんがいる。
そのおじいさんを見つめながら、碧は私にこう尋ねてきた。
「奈都、あのじいさんが売る薪はどこからとってきたのかわかるか?」
「薪ってことは、山からとってきたんじゃないの?」
「あんな老人が山になど行けると思うのか?」
言われてみれば、確かにそうだ。
やせ細っていて、座り込んだまま動く気力もなさそうなおじいさんが、そんなこと出来るはずがない。
「じゃあ、家の柱を削った……とか?」
普通に考えたら、大切な家を削るなんてこと出来るはずがないけれど、ここはもうすでに普通の町じゃない。
生活費を手に入れるためにはそれくらいする人がいたっておかしくない気がする。
私の答えを聞いた碧は、合っているとも間違っているとも言わないまま。
「碧?」
「……恐らくあのじいさんに家はない。結局売れるものもなくなって、仏像か仏具を砕いたんだろう」
仏像を砕いて薪にするなんて、そんな罰あたりな。
ここに来たばかりの頃なら、迷わずそう答えたと思う。
だけど、もう私は知ってしまったんだ。この時代の姿を。
見てしまったんだ。貧しさというものがどんなものなのかを。
「そうしなきゃ生きていけないくらいに、ここは荒れてるってこと……?」
祈ることを忘れるほど、人の心を失うほど、日本の中心である京の町は荒れ果てているの?
私の問いに、碧は静かにうなずいていく。
「本当に神仏の助けが必要な者たちが祈ることをやめ、良い暮らしをしている貴族のほうが必死に経を唱えているなんて、皮肉なことだ。この大通りはまだ綺麗なもんだが、一歩通りに入れば、そこらじゅうに死体が転がっているし、治安もさらに悪くなる。本当にひどい有様なんだ」
「し……死体って」
亡骸を町中に放置しておく神経がわからないけれど、もしかしたらこの町の人たちにはもう、それを運ぶ体力や気力すら残っていないのかもしれない。
そこかしこにある死体を見ながら、いずれは自分の番と恐れながら暮らす毎日。
想像するだけで狂ってしまいそうだ。
薄暗い裏通りをちらりと目の端に入れ、ぶるりと身体を震わせた。
ここがかつての日本だなんて信じられないし、信じたくもない。
本当にとんでもない時代に来ちゃったんだ。
「奈都、平安宮にはこの通りをまっすぐ行けば着く。行くぞ」
碧は遠くの方をじっと見つめながら、私を置いて黙々と歩いていく。
少しの間ぼんやりしていただけなのに、碧との距離がかなり離れてしまっていた。
不思議と碧の後ろ姿が霞んで見える。
「ねえ、碧! ちょっと待っ……え?」
駆けだそうとしたのに、左手を後ろの方から引っ張られて前に進めなくなった。
びくりと身体を震わせて振り向くと、そこにはしわが寄り、腰の曲がったおばあさんが立っていて。
髪はぼさぼさで、着ている着物も砂まみれで穴だらけ。
ものすごく失礼だけど私が思い描いていた山姥の姿にぴったりで、ぞわりと悪寒が走り、思わず身体が強張ってしまう。
「おお、可愛らしや可愛らしや。娘さんは貴族の子かえ? この哀れな老いぼれに何かお恵みくだされ」
おばあさんは私のことをじっと見つめてそう話してくる。
「う……あの、私、貴族じゃなくて普通の中学生なんです。あげられるものなんて、何もないんです」
急いで手を振りほどこうとするけれど、ピクリとも動かない。このお婆さんのどこに一体こんな力があるのだろう。
「おやおや、何もないなんてことはないだろう? それなら少し短いけれどその綺麗な髪はどうだい。その着物だって高く売れそうだしねぇ」
にたりと口角を上げて老婆は気味悪く笑い、私に向かって手を伸ばしてきて。
何なの、このおばあさん。
普通じゃない。
「や、やだ! やめ……っ」
嫌だと私が言った途端、老婆はそのまま私の首を掴んできた。
「あぁ嫌かい、そうかい。それなら無理やり頂戴するしかないかねぇ。可哀そうかもしれないけれど、死人に口なし、ってね」
首を掴んでくる手をひっかいてみたり、叩いてみたりと必死に抵抗してみるけれど、何の効果もなくて。
その代わりにどんどん締め付けが強くなって、息が出来なくなっていった。
あ、お……助けて。
だんだんと意識が遠ざかり、視界が薄れていく。
もう駄目だと思った瞬間、ぼんやりとした世界に真っ白な服を着た人が現れていった。
あの人、だれ?
静かな世界に、低めの声が響き渡る。
「去ね、妖怪風情が。ここで消されたいのですか」
その声がした途端、老婆の手は私の首から離れ、力を失った私は地面へと崩れ落ちていく。
意識を保つことだけで精いっぱいの私は横になったまま、薄い景色をただ眺めるしかできなかった。
よく見えないけれど、白い人は何らかの力を持つ人なのだろう。
睨みつけられた老婆はがたがたと震えだし、震えが止まらないまま、深々と頭を下げて路地裏の闇へと消えていったのだから。
老婆が去っていくのを確認したその人は小さくため息をついて、倒れている私の側へと歩み、ゆっくりとしゃがみこんでいった。
「昼間からあのような者に捕まるなんて災難でしたね。大丈夫ですか?」
白い服を着て、さらりとした純和風の顔をした男の人は、にこりと笑うことで細い目をさらに糸のようにさせている。
頭の中がまだぼんやりとした中で、私はこくりと頷いていった。
助かった……助けられたんだ。この人に。
この人が来なかったら、恐らく私は死んでいた。
お礼、ちゃんと言わなくちゃ……
少しずつだけど意識も戻ってきているし、もうちょっとしたら起き上がれそうだ。
早く、早く起き上がって、言わなきゃ。
「おやおや、礼なんて良いのですよ。こちらも貴女を利用させていただきますから」
そう穏やかに話すその人は、私の額にそっと手を当てていき、優しく笑っていく。
そしてその刹那、戻りつつあったはずの視界はぐにゃりと歪み、私の意識はまるで奪われるかのようにどこかへ飛ばされてしまったのだった。




