月と夢
「なぁ奈都。お前、これを読む気か?」
碧は静かに天神様についての本を指差していった。
「うん、今なら少しは読めるかなって思って。知りたいんだ。この時代のことと、過去のこと、それにこれからのこと」
立ち上がっている碧を見上げてそう答える。
どうやら私は平安時代という時代を思いっきり誤解していたようだったし、今度こそちゃんと本を読んで、この時代について理解したい、そう思ったのだ。
私を見下ろし、じっと碧はこちらを見つめてくる。
陰になり光の映らない瞳は何を考えているのかさっぱりわからない。
「そうか。それなら、これは俺が預かっておく」
そう言って、すっと手を伸ばし机の上の本を手に取っていき……私が気づいた頃には、その本は碧の手の中にあった。
私はただただ、その信じがたい様子を呆然とした様子で見つめていた。
勉強しようとしたことを褒めてくれるかもと少し期待していたくらいだったのに、どうして碧はこんなことするのだろう?
「ひどいよ! せっかく勉強しようと思ったのに」
久しぶりに自分から勉強してみようと思い立ったのに、それを取り上げるなんてひどすぎる。
こんなにやる気のある私は珍しいんだぞ!
目を潤ませ、碧を見上げて睨み付けると、彼は一瞬言葉に詰まり、しばしの間考え込むようなしぐさを見せていった。
そのまま斜め上を見上げながら、ぽつぽつと歯切れ悪く語っていく。
「……伊助に言われただろう? 奈都の仕事は、京のありのままを見ること。そして、奈都に先に知識を入れさせないのが俺の仕事、だからこれは預かっておく」
うわぁ、うさんくさい。
「絶対、今言い訳考えたでしょ」
じとっと見つめても、碧はもう怯んではくれない。
いつもと同じように、焦る様子も見せずに余裕たっぷりに語っていった。
「まぁどう思おうと奈都の勝手だが、とにかくこれは預かっておくぞ。捨てたり、無くしたりは絶対にしない。全ての旅が終わる時、ちゃんと返すから」
全ての旅が終わる時……って、大阪に帰るまで返す気ないってことなの!?
それはかなり困るけど、伊助さんについてのことは一理ある。
京の様子を見てこいって言われているのに、先に知識をつけてしまうのは契約違反になるのかもしれない。
「うーん。よくわかんないけど、とりあえずわかった。大事な本なんだから無くさないでよね」
「俺がそんなヘマするわけないだろ、奈都じゃあるまいし」
私じゃあるまいしって……
「なんだとう! 碧はいつも一言多いんだよ」
その場で勢いよく立ち上がり、碧を睨み付けていった。
いつものようにその効果は一切なくて、毎度のように面倒そうにかわされる。
「はいはい。言葉には気を付けるようにするよ。あ、そうだ」
部屋を出ようとする碧は、出入り口付近で何かを思い出したように振り向いて、じっと私の顔を見つめていった。
急に真剣になられると、こっちも少し戸惑ってしまう。
「何?」
少し緊張しながらそう尋ねていった。
返ってきた言葉は……
「明日は寝坊するなよ」
……寝坊するなよ、だと!?
「もーいちいちうるさい! 全然言葉に気を付けようとしてないじゃん!」
どこまで私を子ども扱いする気なんだ。
緊張して損したよ、もう。
拗ねる私を置いて、くすくすと笑いなら碧は部屋を出ていった。
くそう、あいつ絶対私のことからかって遊んでるな。
しばらくイラつきながら、本が消えた机をぼんやりながめていたけれど、ふと外から来る風が心地よく感じて、私はゆっくりと廊下へと出ていった。
雲ひとつない真っ暗な夜空。
そこにぽっかりと一つだけ浮かんでいるのは金色の月。
「うわぁ、綺麗……」
今夜の月は本当に見事な満月だ。
こっちの時代に来た日の月よりも、もっと丸くて光輝いている。
そういえばこんな月、この間夢で見た気がする。
あんまりはっきりしないけど、雪と月と貴族の夢。
寒いけど不思議と温かい夢。
すごく気になるのにどうして思い出せないんだろう……
強い風が吹いて、私の髪と羽織りの袖を静かに揺らしていった。
「うぅっ、寒っ」
どうやら平安時代は冷夏だったらしく、昼間も現代ほど暑くはないし、夜は少し肌寒い。
まだ月を見ていたかったけれど寒さには勝てず、羽織を胸元まで引き寄せて部屋へと戻り、そのまま布団代わりの着物にくるまり横になった。
じっと天井を見て、さっきの月を思い浮かべながら雪と月の夢を思い返してみる。
目を閉じて静かに呼吸を繰り返すと、私はそのまま深い眠りへと落ちていった。
――・――・――・――
その頃、廊下でもう一人満月を見上げる者の姿があった。
白と薄い水色の着物、水干を着た青緑色の瞳が美しい少年。
彼は未来から来た少女を想い、一人小さく呟いた。
「これからのことを知りたい、か。残された時はあと少し、もう少しだけ……」
そんな少年の言葉は誰の耳にも届くことはなく、月夜の風に紛れ、静かに消えていったのだった。




