記憶と追憶
すべての始まりは、そう。三年前の夏。
高校受験がきっかけだったんだ。
――・――・――・――
~菅原奈都。中学三年生の夏~
「先生先生! どうしようこれ。何とかしてよ、一生のお願いだよう」
一枚の紙を大きく広げ、担任の先生に突き付けた。
一学期の終業式を終え、生徒も帰路についた三年一組の教室にいるのは先生と私の二人だけ。
私のクラス担任は、お父さんと同い年の井口先生。井口先生は誰よりも厳しいけれど、そのぶん生徒思いで優しいってことを私はちゃんと知っている。
そんな先生なら、きっと今回も何とかしてくれるはず……と、そう思っていたのだけれど。
突き付けた紙の上に容赦なく並ぶ数字とアルファベットを見た先生は頭を抱えて、生徒の椅子に腰かけていった。
「菅原……こればかりはどうにもならん。諦めろ」
何で、そんな馬鹿な。
無理だなんて、信じたくないよ。
「どうにもならないことをどうにかしてくれるのが先生じゃん!」
声を荒げて、先生に詰め寄った。
「お前、俺を何だと思ってるんだ。そんなに俺が万能なら、こんな田舎の中学で教師なんかしてないだろうが。それに、敬語を使え! 敬語を!」
ミンミンとうるさいくらいに蝉の声がこだまする教室で、私は先生にすがりついていった。
気温が三十度を越すような夏日なのに、私の額からはひんやりとした冷たい汗が流れていく。
「海王高校以外なんて、絶対嫌です! 私、何としてでも海王高校に行きたいんです!」
村山中学三年生である私、菅原奈都は一目見た時から海王高校のトリコになっていた。
優しい先輩たち、可愛い制服、家からそう遠くない魅力的な距離。
それに何より部活と行事に熱心に取り組む生徒たちの姿が、きらきらと輝いていて。
『この高校との出会いはきっと運命なんだ。絶対にここに行くぞ!』
そう固く決めた私と海王高校の間には、一つだけ問題があった。
海王高校は……進学校なんだ。
そして、私は学年で下から数えた方が早いくらいのいわゆるおバカ。
さっき先生に突き付けたのは模試の結果だったんだけれど、その結果も散々なもので。
魔の志望校判定で堂々のEを叩きだしてしまっていた。
信用度の高い模試での判定はE。先生も諦めろと言う。
何か……私が海王高校に行く方法は何かないの?
悪あがきをしようとする私に対し、真剣な目で井口先生は私を見つめ、諭すように静かに語っていった。
「あのな、菅原。厳しい話になるが、この時期にE判定までしかない模試でEを出すようじゃ、海王高校に行くなんて夢のまた夢。神様がお前の頭の中を入れ替えるくらいのことがないと無理だ」
「勉強法とかいうレベルじゃないんですね。もはや神頼みするしか……私に出来ることはないんですか?」
うつむいて、震える声で尋ねていくと、先生が優しく肩を叩いてくれる。
「そうだ。すまない、教師としてこんなこと言いたくはなかったのに……。残念なことに、海王はそれほど倍率が高く、難関校なんだ。だから菅原、もっと違う高校に目を向け――――」
険しい顔をした先生と目があった。
私の様子を見て、先生は表情を変えていく。
「あははっ!」
そんな先生の姿を見た私は、声を上げて笑った。
先生の驚く顔が面白くて仕方がなかったから。
だって、普段糸みたいに細い目が、今はくりくりとまん丸になっているんだもの。
「お前、何だその嬉しそうな顔は……?」
「だって先生! 私にもまだ出来ることあったじゃないですか! 神頼み、ですね。イトコん家の近くに大きな神社があるんで、夏休みに勉強しつつお参りしまくります。相談乗ってくれて、ありがとうございました!」
ぱぁっと表情が明るくなり、視界が開けた。
海王高校への道は閉ざされてなんかいなかったんだ。
机の上に乗せた鞄を勢いよく取り、ボブの髪と紺の制服を揺らして軽やかに走る。
早速お母さんに相談しよう。
明日からユカリ姉ちゃん家に行っていいか、って。
ぽかんと口を開けたままの先生は、私の姿を黙って見ていて。
教室のドアを開けた音で、はっと我に返って何やら叫んでいたけれど、私の耳には聞こえない。
だって、やっと道が見つかったんだ。
先生に言われて、ようやく気付いた。
神様にお願いして、勉強したところが運良くたくさん出題されたら……E判定の私にも受かるチャンスはある、って!
階段を駆け下り、踊るように校舎を飛び出した。
太陽はまばゆいくらいに輝き、青々とした葉は風でしなやかに揺れていく。
耳に入ってくるのは、私を祝福するような蝉たちのファンファーレ。
待ってて、神様!
菅原奈都、いざ参りにいきまする!!
「菅原……そんな訳あるか、この馬鹿野郎! 戻ってこい―――――――!!」