天邪鬼と朱
出会った時から文字が読めて、平安京の内部事情を知っている、か。
どうしてだろう、何だかその言葉に違和感がある。
もやつく心の正体を必死に探ろうとしていると、遠くの方から良く知った声が聞こえてきた。
「源菖様、ただいま戻りました」
ちょっとしか離れていないのに、もうずいぶん長く会っていないようなそんな気がする。
その声を聞くと安心で満たされ、何を悩んでいたのかどうでもよくなってしまった。
「碧だっ!」
すっくと立ち上がり、源菖さんを置いて声の方に走っていく。
板張りの廊下は、一歩二歩と私の足が当たるたびに、とたとたと軽快な音を立てていった。
「なんだ、この音は。喧しい……って、犯人はお前か」
廊下の最後の角を曲がろうとすると、碧の声がクリアに聞こえてくる。
まだ姿も見えていないのに、私が走ってきたことがばれてしまったようだ。
ようやく玄関にたどり着くと、いつものように不機嫌そうな顔をした碧がいた。
見た感じ怪我もなさそうだし、なんともなさそうだ。
「碧! 無事でよかったぁ。夜なのに出ていったって聞いて、心配したんだよ。明かりもないし、危険なんだからそういうのやめてよね!」
座りながらわらじを脱いでいる碧の横に立ち、碧の頭上から咎めるようにそう言い放つ。
「今夜は月も出ていて明るかったし、俺の方は大事ない。それよりも、何故お前は起きている? 大人しく寝てろ、馬鹿」
「痛っ!」
わらじを脱ぎ終わって立ち上がった碧は、トンと私の額を小突いて、横を通り過ぎていった。
痛む額を押さえて、碧の背中を睨みつける。
人が心配しながら待っていたというのに、それを馬鹿……?
誰が馬鹿だと、このやろう!
後ろからタックルでもかましてやろうか、そんなことを画策しはじめていると柔らかな声が聞こえてきて、私の荒れた心を正常に引き戻してくれる。
「碧、そんな物言いでは貴方が損をしますよ。それに、気を抜くとすぐ言葉が悪くなるのは相変わらずなのですね」
声のした方を見やると、源菖さんが微笑みながらゆったりと立っていた。
そうだそうだ! 源菖さん、もっと言ってやって!
そう心の中で、源菖さんを応援していく。
碧は言葉も達者だし、並み大抵の人は口げんかでも負けてしまうだろうから。
さて、碧はどうでるか。ちらりと碧の背中を見ると、意外なことに戦闘態勢な様子は見られず、見ようによってはしょんぼりとしているようにも見える。
「源菖様……」
静かに住職さんの名前を呼ぶ碧。
反省しているのかな、なんか珍しい。
そんな碧の様子を見て、源菖さんはふわりと優しい表情になっていく。
「気を失った後なのにすぐ走ったりするのは心配だから、横になっていて欲しい。と素直にそう言えば良いのに貴方ときたら。ここに帰って来た時はあんなに奈都さんの身を案じていたのに、本当に貴方は天邪鬼ですね」
え……?
あの碧が私を心配?
それってどういうこと?
「源菖様!」
今度は苛立ちを含んだ声で、碧はまた住職さんの名を口にする。
「おお怖い。碧よ、そう睨むでない。嘘は言ってはいないでしょう? 彼女は夜には目を覚ますだろうとわたしが言うまで、貴方はおろおろと落ち着きなく動揺していましたよね。わたしは貴方のあんな姿を初めて見ましたよ。よっぽど貴方は奈都さんのことを……」
袖を口元にあてて、源菖さんは楽しそうに笑う。
「げ ん し ょ う さ ま!!」
からかうように話をしていく源菖さんに我慢ならなくなったのか、最上級にイラついた声を上げていた。
珍しい。あの碧が、言いくるめられている。
ちょっと、いやかなり貴重な光景だ。
「ふふふ。息子が可愛らしい娘さんを連れて久方ぶりに帰ってきたからか、嬉しくてついからかってしまいました。碧、奈都さん、お腹も減ったでしょう? そろそろ夕飯にいたしましょう」
幸せそうに笑う源菖さんは、くるりと踵を返して来た道を戻っていった。
「あはは、あの碧も源菖さんには勝てないんだね」
碧の背中に近寄りながら笑い声混じりでそう話していく。
「奈都、五月蠅いぞ」
碧は、私の方を見ようともせずにそう答えていった。
いつもの憎まれ口も今は子どもの言い訳みたいで、何だか可愛く思える。
「でもね、ありがとう。心配してくれてたのはすごく嬉しかったよ。わかりづらかったけど」
立ちつくした碧の横に位置取り、くすくすと笑いながら顔を覗き込んでいく。
「――っ!」
目が合った途端、碧はびくりと震え小さく息を飲んで視線を外していった。
「あれ? 碧、顔赤くない? 風邪でもひいた?」
帰って来た時は何ともなかったのに、今は顔だけじゃなく耳まで真っ赤に染まっている。
「……ひいてない。赤くもない!」
「赤くないって鏡も見てないのに何でわかるの! ゆでダコみたいに真っ赤だよ。風邪じゃないのに顔が赤くなるなんて、もしかして碧……」
私はいろんな可能性を考えて、一つの仮説を立てていった。
あくまで仮説。
だけど今日、一日一緒に過ごしてみて感じたことがあるんだ。
「違う、俺はお前のことなんて!」
「それってさ、日焼けじゃない? 今日はずっといい天気だったから焼けそうだなって思ってたんだ。女の私が平気なのに、男の子の碧だけが赤くなるって、何だかなぁって感じだよね。まぁ、悔しいことに碧って、色白だし仕方ないか」
きょとんとした顔で碧は私を見つめていった。
何て言うか、拍子抜け……って感じが全身から漂っている。
そして、だんだんと肩を震わせていく碧は、最後に楽しそうな大声で笑っていった。
「日焼け、か。ははは! 奈都、やっぱりお前みたいなのは初めてだ。鈍くて、馬鹿正直で、最高に面白いよ」
「何それ! バカにしてんの!?」
碧の言葉に突っかかっていく。
鈍いとか馬鹿とか、毎度本当に失礼な男だな!
「いや、馬鹿になんてしてない、むしろ褒めてるんだ。素直で裏がない、そんなお前だから俺はきっと……」
そう言ってふわりと優しく笑った碧は、ぐしゃぐしゃと私の頭を撫で回し、満足そうに去っていったのだった。




