夏鶯
碧の家を出発してから、どのくらいの時間がたったのだろう。
砂利道が一本続いているだけで、周りは木と草ばかり。
夏だし、歩き通しだし暑いのは当たり前だけれど、コンクリートの照り返しもなく風もよく通る分、思っていたよりは全然辛くない。
顔を上げると、既に日は真上の高さまで昇ってきており、徐々にお腹も減ってきたような。
――ぎゅるるるる……
「っ!」
お腹が減ってきたと自覚した途端これだ。
人前で鳴るなんて、かなり恥ずかしい……
空気の読めないお腹を急いで押さえてみるけれど、鳴ってしまった音をかき消すことは不可能で。
恐る恐る顔を上げて、碧の様子をうかがってみる。
「……聞こえた?」
「ああ。口だけじゃなく、腹までもが正直で自己主張が激しいんだな」
そう言って碧はくすくすと笑いだすけれど、こっちとしては笑い事じゃないくらいに恥ずかしい。
それに、こいつ私のことそんな風に思っていたのか!
「奈都の腹も限界のようだし、昼飯にしよう。俺も腹減ったし」
大きく伸びをして、碧は木陰の方を指差していった。
『デリカシーがない!』と文句の一つも言いたかったけれど、ここでまた何か言ったら昼ごはん抜きにされそうな気がするし、むくれて睨むだけにとどめておく。
そんな私の顔を見て碧は楽しそうに笑っていた。
――・――・――・――
大きな木の下に腰を下ろし、梅干しの入ったおにぎりを頬張りながら、耳を澄ます。
近くからは木々のそよぐ音、遠くからは鳥の歌う声がかすかに聞こえてくる。
排気ガスがないからだろうか、空気も澄んでいて、空も高く綺麗に見えた。
マイナスイオンに癒される、ってこういうことを言うんだろう。
ぼんやりと空を見上げていると静かな世界をかき消して、まるで歌うかのように高らかな音が響いていった。
――ホーホケキョ
ん? 今のって……
「もしかして、うぐいす?」
隣で水を飲む碧に声をかけてみる。
「ああ。老鶯、だな」
鳴き声のする方を見つめて碧はそう答えるけれど、ろうおうなんてうぐいす、私はしらない。
「ろうおうって?」
身を乗り出してそう尋ねると、碧は少し驚いたような顔をしていたけれど、すぐにふわりと微笑んでいった。
「老鶯は夏に鳴くうぐいすのことを言うんだ。夏鶯ってやつ」
「夏に鳴くうぐいす? 春じゃなくて?」
「そ。春を越え、都を離れて山に帰り夏に鳴いているのが老鶯。呼び方は違えど全て同じうぐいすだ」
そう答えた碧は考え込むような仕草をした後に、視線を合わせてきて。
「奈都は……今のうぐいすの鳴き声のこと、どう思った」
碧の様子がいつもと違う。何だか妙に真剣と言うか、イラついているというか。
まぁ、イラついてるのはいつものことなんだけど、なんかそれも普段と性質が違うような。
「鳴き声? 別に普通だと思うけど。あ、でも私が知ってるのより綺麗で大きい声だったかなぁ。でも何でそんなこと聞くの?」
「いや、大したことじゃないんだが昔、京にいた頃のことを思い出してな」
うつむいた碧は、独り言のようにぽつぽつと語り始めていった。
その様子からして、楽しい昔話ってわけじゃなさそうだ。
「俺の友人が数年前……平安京で老鶯についての歌を読んだんだ。とても、素晴らしい歌だと俺は思った。細かいところまでは覚えていないが、内容は、老いてもなお人々を魅了する声で鳴く老鶯のように、己も強く生き抜きたい。そんなような内容だったか。だがそれは、都の貴族には理解されず、受け入れられることはなかった」
理解されなかった?
どうしてだろう、別に何にもおかしなところはない。
「どうして? さっきの夏鶯……老鶯は、すごく綺麗で大きな声で鳴いていたのに」
そう尋ねると、碧は光を失った暗い瞳でこう話す。
「友人の詠んだ歌に対して、貴族は一人残らずこう言った。老鶯とは、その名の通り、老いたように声に張りのなくなったような夏のうぐいすのことを言うのだ。主は老いると言う字もわからぬか。これだから田舎出身の者は無知でいけない。由緒ある歌会でこのような歌を詠むなど、恥ずべきことだと思わないのか、と」
碧の手を見ると、ぎりぎりと強く握られ、小刻みに震えていた。
怒って、いるの?
「俺の友は一瞬にして嘲笑の的。だが真実はどうだ。老鶯の鳴声は春に比べて劣るのか? あんなに高らかに歌っているのに何が張りがない、だ。都という世間知らずの箱の中で、安穏と過ごす奴らは本当の夏の鶯を知らぬくせに」
貴族と平民。
箱の中と外。
いったい何が無知で、何が本当の理解なんだろう。
静かに目を閉じて、まぶたを開くと同時に表情を変えて碧は笑う。
「くだらぬ話をした。忘れてくれ」




