数学と猫
「ん……ふわぁぁぁー。はぁ」
あくびをしながら目をこすり、大きく伸びをして、ため息をひとつ。
やっぱり夢じゃなかった。
朝日が照らしだす目の前の風景は昨日と同じだし、身体中がぎしぎしと痛い。
そう思いながら、今まで自分が横になっていた場所を見つめていった。
……まぁ痛いのも当然、だよね。こんなござの上で寝てたんだから。
ござの存在は昔から知っていたけど、実際に寝たことなんてなかったし、寝心地が良かったのは最初だけ。
とにかく布団の上に横になりたくてしょうがなかった。
布団、と言えば驚いたことに、この時代には布団自体が存在しないらしい。
庶民より少し階級が上だと思われる碧も、寝るときはござの上に横になり、自分の着物を上からかけて寝ている、と言っていた。
貴族でも敷布団は使わず、ござよりももっと寝心地のいい畳の上で眠るそうだ。
さらに上級貴族になると、絹や毛皮の薄布を畳の上に敷いたりもしているらしいけど、敷布団の快適さにはきっと叶わないだろうなとひっそり思う。
さらには、あの有名な十二単も布団代わりになっていたらしい。
きらびやかな十二単は、布団の役割も兼ねていたなんて知らなかった。
あの重そうな着物にも意外と実用的な面があったなんて、碧に教えてもらわなければ一生わからなかっただろうな。
ちらりと目線を碧の方を向けていった。
碧はすぅすぅと静かに寝息をたてて眠っていた。
彼の周りには、私が持ってきた……というより偶然カバンに入っていた天神様についての本や、教科書が散らばっている。
嘘っ、まさかこれ一晩で全部読んだんじゃないよね?
碧のそばに近寄って、天神様の本を手に取りぱらぱらとめくりながら、昨晩のことを考える。
碧って、モテそうな見た目とは反対に、真面目っぽい性格してて頭固そうだけど、案外すんなり受け入れてくれたなぁ。
もっと『あり得ない』とか『俺をバカにするな』とか言うと思ってたけど。
……そう。昨夜私は碧に『未来からタイムスリップしてここに来てしまった』ことを伝えたのだ。
自分でもずいぶん思い切ったことをしたと思う。
もちろん最初から信じてくれるわけもなくて、疑いに満ちた冷たい目で見られてしまったけど、天神様について書いてある本や、参考書を見せてから碧の様子は一変していったんだ。
それにしたって、本にあんなに夢中になる人、初めて見たかも。
昨晩のことを思い出し、苦笑いをするのと同時に、碧のことが少し羨ましくなった。
アホな私は参考書もあの本も、あんなに夢中になって読んだりは出来ないから。
そんなわけで結局詳しい話は何も出来ないまま、碧は私が未来から来たことを信じてくれて、そのまま本の虫と化してしまった。
彼の集中力はそれはもう凄まじくて、どんなに私が話しかけても上の空。
話しかけるのを諦めた私は碧から借りた着物を、掛け布団代わりに羽織って先に眠ることにし、ついさっき目が覚めた、というわけだ。
昨日のことを一通り振り返って本を床に置き、碧の寝顔を覗き込んでいく。
長いまつげに、すっと通った鼻すじ、きめ細かい色白の肌が本当に綺麗。
それに一番気になるのは、このさらさらとした猫みたいな髪の毛。
なんだこの毛は! さ……さわってみたい!
眠っていることをいいことに、碧の髪にゆっくりと手を伸ばしていく。
あと少し、もう少しで、サラふわの毛がこの手に!!
「……おい」
「ひぃ!」
突然まぶたが開き、青緑がかった瞳と目があった。
「奈都、お前……寝込みを襲おうだなんて、いい度胸してるな」
「ち、ち、ち、ちがうよ! 猫みたいで気持ち良さそうだったんだもん」
そもそも碧なしでは生きてすらいけない状態なのに、襲ったりするわけないじゃないか。
碧は眉をひそめて、聞き返してくる。
「俺が猫みたい、だと?」
いかにも不機嫌そうだ。
「髪の毛のことだよ。あぁでも気まぐれで、偉そうなところはボス猫っぽいかもねぇ」
「お前……今日は玄関で寝るか?」
「ごめんって!」
まったく。冗談が通用しないんだから!
――・――・――・――
私が作った朝ごはんを食べ終わり、昨晩出来なかった話の続きをしていく。
「お前が未来から来たというのはわかった。だが、何のために来たんだろうな?」
あごに手をあてて、目線を伏せ、碧は必死にそれを考えているようだ。
何のために、か。考えたこともなかった。
そもそも……
「理由なんてあるのかな? 偶然来ただけなんじゃないの?」
ここに来た意味なんかないと思う。
私がここに来たところで何も変わらない。
まぁ、それは千年以上後の現代でも一緒のような気がするけれど。
だって、自分に何かが出来るから平成の世に生きてるってわけじゃないし。
そもそも何かを成し遂げる人や、頭のいい人は身体の作りからして違うんだよ。
天才と呼ばれる人たちと、行きたい高校に運だけで入ろうとするアホな私とではきっと、生まれた時から何かが違っているはずだもん。
あぁ、もう……。これが受験のストレスってやつかな?
こんなふうに弱気になるなんて、私らしくない。
そんなへこたれて落ち込み始めた私とは正反対の、自信に満ちた声がかかる。
「偶然だとしても、奈都がここにやって来た意味は、必ずある」
まったく。どうして、なんでもかんでも自信満々に言うのかな、この人は。
「何の根拠があってそんなこと言うのさ?」
根拠なんかないくせに、よくもまぁそんなにはっきり言えるもんだ。
そう思っていたのだけれど、彼の返答は想像とは全く違ったものだった。
「根拠はある。お前が今ここに存在している、それが理由だ。奈都にしか出来ぬことがあるから、この時代にいるんだろう。それは、俺も同じこと。それが何かはわからないが、きっと俺にしか出来ぬことがあるからこうやって存在しているのだと、そう思う」
真っすぐな目で碧は私を見つめていった。
たかだか十五そこそこで、こんなことを考えている碧に驚き、同世代の男の子とは全く違う不思議な雰囲気になぜか鼓動が跳ねていく。
もしかしたら、ちょっと顔も赤くなっているかもしれない。
「すごいね、碧は。私みたいな物覚えの悪い、何も出来ないおバカとは大違い」
照れ隠しヘラっと笑い、頭をかいていった。
碧は眉間にしわを寄せ、不機嫌な顔の不機嫌度をさらに強くさせていった。
「は? 奈都は考えなしで阿呆なことをするやつだとは思うが、何も出来ぬやつと思ったことは一度もない。それに、お前のそれは『覚えが悪い』というより『興味がない』だけだろう。奈都は、漁師が機織りを、貴族が米の作り方を習おうとすると思うか? つまりはそういうことだ」
な……なんだそれ!
碧の言葉はすごく意外だった。
だってさ。それって、海外に行かないから英語覚えなくていいわー、っていう小中学生の言い訳と同レベルだよ!
やらなくていいなら私だってやらないけど、そういうわけじゃなくて。
「とにかく頭が悪いと困るんだよ。使う使わないに関係なく、受験で覚えなきゃいけないんだもん。それなのに、勉強に興味だって持てないしさ」
ふむ、と碧は頷いていく。
「なるほど、官人を目指しているってことか。試験のためにどうしても覚えたいと言うのなら、得た知識の活かし方を知ることだ。必要にかられれば、興味も持つし自然と頭に入ってくる」
なるほど。役に立たないって思うから、やる気もしないってわけか。
「それに、何も出来ぬとお前は言うが……出来ることはあるだろう? 文字を読み書き出来ることに俺は驚いたし、飯だって旨かった。読み書きや飯の作り方だって初めから、今と同じように出来たわけではあるまいに。奈都の言う『私に出来ない』は、やらぬというだけで無謀なわけではない、と俺は思うのだが。どうだ?」
一人じゃ何も出来ないアホ呼ばわりされてばかりの私。
女友達やカズキからも年下扱いされて、一生懸命私が何かをやっている途中で『奈都には難しくて出来ないから』と取り上げられて、私の気付かぬうちに終えられていたことは数え切れないくらいある。
いろいろと先回りして助けてくれるのは嬉しかったけど『何もできない』ことを突き付けられているようで、それが少し悲しくて。
でも、目の前の人は何て言った?
『やらぬというだけで出来ぬわけではない』
『初めから、今と同じように出来たわけではあるまい』
確かに、そうかもしれない。
出来ないって決めつけて、やろうとしなかった。
やってくれる皆に甘えていたんだ。
何でもてきぱき出来ている人が眩しくて、出来ない自分との差が悲しくて。
出来る人は自分と人種が違う、ってそう思いこんで、自分の力で何かを成し遂げるっていうのを諦めようとしてたのかもしれない。
出来ないわけじゃない。
きっと、やろうとしなかったツケが今、まとめてやってきただけなんだ。
まだ間に合うかな?
もし、今まで逃げてきたことから、ちゃんと向き合えるようになったら。
自分の力で出来ることが増えていったら。
私も、自分に自信を持てるようになれるかな?
きらきら眩しい貴方みたいに。
「あぁそう言えば、お前に聞きたいことがあるんだ。この数学という書に書かれた、円の大きさの求め方。これは一体どうするのだ? 見慣れぬ記号が並んで読めぬ」
楽しそうに教科書を広げて円の面積の求め方を尋ねる碧。
いつもの不機嫌そうな表情とは違って、無邪気で可愛い笑顔がそこにはあった。
碧……貴方が言った何気ない言葉たちに、私がどれだけ救われたか。
この様子じゃ、きっとわからないんだろうな。
感謝をこめて「ありがとう」と小さく呟いた。
その声がよく聞こえなかったのか、碧は耳を寄せてきたけれど、二度は言わずに私はにこりと笑っていった。
「えっと、円の大きさの求め方はね」
そこから、壱や弐など、漢数字しか知らない碧に、一から洋数字を教えていくことになり……数学の授業は日が暮れるまで続いていったのだった。




