身を慎め
青々とした草木の匂いを運ぶ風と、繋いだ手から滲むじっとりとした汗。
遠くから聞こえる蛙たちの大合唱に、優しく道を照らす月の光。
知っているようで、まるで知らない。懐かしいようで、はじめて感じる新鮮な風景だった。
平安時代の夜って、こんなに暗くて静かなんだ……
日暮れからそう時間はたっていないはずなのに、歩む砂利道は薄暗く、人どころか動物の気配すらない。
電気がないとは、こういうことなのかと実感する。
右隣を歩む碧は無言のまま、夜空を見上げ歩いていた。
ポニーテールみたいにくくられた、亜麻色の長い髪も、青緑色をした瞳も、滑らかな肌も、月明かりにふんわりと照らされ、人とは思えないほど、それはそれは綺麗で。
言葉をなくし、思わず見とれてしまう。
「おい、俺に言いたいことがあるなら、はっきり言え。帰り道どころか、話す言葉すら忘れたか?」
見つめていたのがバレてしまったようで、睨むように目線だけ私の方に向けた碧は、不機嫌さを交えてそう話していった。
あぁ、綺麗な花にはトゲがあるって、本当によく出来た言葉だな。
「うわぁ、感じ悪~い」
碧の態度と言葉に思わず、心の声が漏れてしまう。
「感じ悪いだと? ここに置き去りにしたっていいんだぞ」
「うわ、ごめんごめん! 碧、ごめんって」
睨みつけてくる彼に慌てて謝罪の言葉を重ねていった。
ここで置き去りにされるなんて、考えただけでも恐ろしい。
「フン、俺だから許してやるが……お前、言葉は慎めよ。それから態度も改めろ。命がいくつあっても足りなくなるぞ」
言葉は慎め・態度を改めろ・命がいくつあっても足りなくなる、ってつまり……
『俺に逆らったら死ぬぜ』ってこと?
それって、ドS以外の何者でもないじゃないか。
私は、想像以上に面倒な人に出会ってしまったのかもしれない。
「あのさ、それってまさか、様付けで呼んで、敬語で話して俺を敬え! そうじゃなきゃお前は死ぬぜ、的な感じなの?」
恐る恐る様子をうかがう。
下手に出るのは嫌だけど、碧からドSを全開にされるのはもっと嫌だ。
「この阿呆。違う! 俺に、ではない」
苛立って、呆れた様子で睨まれた。
「じゃあ、どういうことなのさ」
まったくもって、わけがわからない。
口をとがらせてそう聞くと、碧は大きくため息をついて話していった。
「お前は何もかもが軽率すぎる。言動も、態度もだ。俺はこれでも郡司の下で働いているし、かつては在庁官人としての役目を果たしていたこともある。本来は、身内でもない平民が気安く話すことは許されぬ。そのような立場にいるんだぞ」
難しい単語が並び過ぎていて、頭の中が考えるのを拒絶し始めた。
途中から碧の声をシャットアウトする自分がいるのがわかる。
そんな私に構わず、碧はイライラした様子で話を続けていった。
「普通、衣装の質で平民ではないと気づくものだろうが。俺だからよかったものの、他の官吏に同じようななめた口聞いたら、どうなると思っている」
はっ、しまった。
途中からわけわからなくて、ぼうっとしてた。
何か、何か言わなければ。
「へぇえーすごいねぇ、その歳で働いているの? ぐんし? とか、ざいちょうなんとか? とか、凄そうだもんね。碧、すごいよ、本当に頭いいんだね。あ、それとも……強いね、かなぁ?」
どんな仕事をしているのかさっぱりわからないけれど、とにかく褒めておけば、きっとなんとかなるだろう。
「おい……なぜそうなる。お前、適当に答えてるだろう」
やっぱり、なんともならなかった。
褒め倒す作戦は見事に玉砕してしまった。
ごまかし笑いをする私を見て、呆れたようにため息をついた碧は急に、真剣な鋭い目で私を見つめていった。
威圧感のようなものを感じた私は、笑いも消えて碧のことをじっと見つめていた……というよりあまりの圧力に、視線を逸らすことすら出来なくて。
「わからないようだから、はっきり言うぞ。己の立場をわきまえ、決して目上や貴族に逆らうな。俺は貴族だの平民だのと分けるのは好かないが、俺のような考えの者はごく少数。平民は貴族の暮らしのために働き、死んでいく。馬鹿げたことだが、これが変えられぬ世の流れというものだ。お前も死にたくなければ、身を慎め。平和ボケした貴族どもにとっては――――」
はっきり言われて、ようやく碧の言いたいことがわかった。
ここは平成の世の中じゃない。
絶対的な身分の差があって、逆らってはいけない人がいる。
警察も裁判所もないし、守ってくれる人や法律なんてない。
自分の考えなしの行動が命の危険につながるんだ。
さっきの碧の言葉がよみがえる。
平和ボケした貴族どもにとっては――――
――――自らの手を汚さずにお前の命を奪うことなど、宮中で歌を詠むよりもずっと簡単なことなのだから。
家に着くまでの間じゅうずっと、この言葉が呪いのように頭にこびりついて、いつまでも離れてはくれなかったのだった。




