王子様とチョコレート
綺麗に掃除されたリノリウムの床からは、ほんの少しだけ消毒液の匂いがします。
私はこのちょっとだけ鼻にツンと来る香りを嗅ぐと、なんだか懐かしいと思う気持ちと、わずかに惨めだなと思う気持ちの相反する感情を抱いてしまいます。
私は叔母さんと一緒にベッドとサイドボードとテレビが置いてあるだけの殺風景な部屋に持ってきた荷物を置いていきます。
ここは病室。
私はまたもやここに舞い戻ってしまいました。
生まれた時から極端に病弱な私は何度も入退院を繰り返し、この部屋にお世話になっています。
もう、ここが我が家じゃないかなと思うくらいです。
私がそう言うと、付き添いに来てくれた叔母さんも苦笑いしました。
お父さんは今日は仕事で来れません。
こうもしょっちゅう入院していては毎回付き添えないのです。
私は父を誇りに思うくらい、立派な仕事をしているのだから。
私にはお母さんがいません。
ずっと小さいころに亡くなったそうです。
でも、あまり記憶にないくらい私は小さかったので、逆に寂しくはないです。
私はお母さんに似て、とても病弱なので、入院するたびにお父さんはとても心配します。
そして、仕事で毎日付き添ってやれないことを本当に申し訳なさそうな顔をするのです。
私はその度に心が痛みます。お父さんは全然悪くないのだから。
叔母さんはとてもいい人なので、毎回入院するときは付き添いに来てくれて色々と世話を焼いてくれます。
本人は「いいよ、いいよ、それよりしっかり治そうね」と笑ってくれますが、迷惑ばかりかけていて私は何だかやるせない気分になってしまいます。
叔母さんが帰ると、私は一人ぼっちです。
なにもやることがないので、私はベッドにもぐりました。
そうして、窓から外の景色を眺めるのです。
何も考えずにボーっと。考え出すと、ネガティブな考えがどんどんと浮かんでくるのでなるべく無心になるように心がけます。
病室は一階でなので、あまり遠くの景色は見えません。
見えるのは街路樹と、その向こう側の道路だけ。
それでもすぐ側の道を行く人たちを眺めると心が落ち着いていきます。
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一日が過ぎ、二日が過ぎ、一週間が経ちました。
私はしょっちゅう入院しているので、そんなことは慣れっ子です。
入院生活はちょっとしたベテランものです。
お父さんは忙しい仕事の合間を縫って、毎日来てくれますから、寂しいことはありません。
そうやって、何も考えずに今日も窓から外の景色を眺めるのです。
凍えるほどに静謐な夜が明け、清冽なほど透き通った朝はやってきます。
柔らかな朝日を浴びて、鳥たちが美しい声で歌い出します。
私はそのさえずりを聞きながら、ゆっくりと覚醒していきました。
目が覚めた私は窓を開けます。
暖房の利いていた病室に、真冬の冷たい空気が入ってきて、鼻がツンとします。
思わず寒くなって、ベッドにもぐりながら、それでも私は窓を閉めません。
何故なら私はある人を待っているのだから。
私は向かいの通りを見つめます。
「あ、今日もあの人が走ってる。頑張ってるなぁ」
私の病室の前の道を決まった時間に走って通り過ぎる男の人がいるのです。
走り込みでしょうか。
生まれてこの方、まともに運動などしたことのない私にはその光景は眩しく見えます。
引き締まった身体は、とても鍛えこまれていることが遠目からもわかります。
しなやかな肉体は生粋のアスリートといった感じです。
ちょっと猫毛ぎみな黒髪が走るたびに揺れ、額からは滴る汗が陽光を反射してキラリと光ります。
スッと通った鼻筋に小さめの口からは絶えず白い息を吐いていて、時折歯並びのいい白い歯がちらりとのぞきます。
そして、整った細い眉に、誠実そうな瞳はどこまでも吸い込まれそうな綺麗な黒色です。
その顔はとても爽やかで、思慮深く、とにかくカッコいい素敵な男の人なのです。
私は彼が通るたびにドキッとしてしまうのです。
どうしてなのでしょうか、私にはわかりません。
その人はとても頑張り屋さんです。いつも一生懸命です。
眼にも止まらないほどの猛スピードで全力で駆け抜けます。
その人は毎日私の病室の前を全力疾走で駆け抜けているのです。
本当に一日の一瞬だけしか見えないので、私も初めは見間違いかなと思ったのですが、確実にその人は私の病室の前を全力で駆け抜けているのです。
彼はトレーニングの一環なのでしょうか。
この真冬の寒空の下、一糸まとわぬ姿で駆け抜けるのです。
つまり、全裸なのです。
凍えないのでしょうか。
こんな寒い中で防寒具も付けずに、走るなんてあの人はすごい人です。
私は彼のことを『全裸の王子様』と心の中で呼んでいます。
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「美幸ちゃん、なんだか表情が明るいわね」
久しぶりにやってきた叔母さんが、私の顔を見ると一番にそう言いました。
そうでしょうか。
「そうよ、いつも入院すると本当に落ち込んでいるのが伝わってくるもの。でも、今日は違ったから」
叔母さんに言われて初めて気づきました。
私は最近、あの人を見るのを楽しみにしていることに。
脳裏にあの人の姿が浮かびます。
もしかしたら、あの人に元気を貰ったのかもしれません。
叔母さんは耳打ちするように尋ねてきます。それは考えもしないことでした。
「もしかして、……好きな人でもできたのかしら?」
私は思わず返答に詰まりました。
「それは……。どうでしょうか。でも……」
「でも?」
「あの人を見ると、なんだか元気がでてくる。そんな人がいます」
それを聞いて叔母さんはにっこりと笑いました。
私は自分の顔が赤くなるのをはっきりと自覚します。
お父さんにもそんなことを話したことないのに、同性であるせいか、叔母さんにはなんだか気安さがあってつい打ち明けてしまいました。
「女は恋をすると綺麗になるの。最近の美幸ちゃんはなんだか可愛いよ。叔母さんも嬉しいわ」
「……はい」
喜んでくれている叔母さんの後ろ。
病室の窓の外から、今日も裸の王子様が全力で走っているのが見えました。
一瞬だったので、すぐにその姿は見えなくなりました。
まるで風のようです。
もしも、あの人をお父さんや叔母さんに紹介できたらと思うと……。
「あら、顔が真っ赤よ?」
叔母さんは今日はずっとからかってきました。
でも、それはとっても幸せだと思いました。
それにしても、最近パトカーをよく見かけます。
何かあったのでしょうか。
********
体調を崩しました。
私は点滴を受けながら、ずっとナイーブな気持ちになっています。
窓の近くにおいてある花瓶には一輪の花がさされていました。
その花びらが一枚、はらりと落ちました。
この弱弱しい花に私は自分自身を投影してしまいます。
もしも、この花びらが全て落ちたその時に、私も死んでしまうのではないか。
きっとそうだと思うと私はさらに落ち込んでしまいました。
窓があいているので、外から冷たい北風が入ります。
風に揺れて、花びらがどんどんと落ちていきます。
私の命ももうわずかなのでしょう。
ついに最後の一枚もひらりと舞い落ちました。
私はそれを見て、思わず泣いてしまいました。頬を伝う涙も冷たいです。
そんな時、あの人が現れたのです。
全裸の王子様です。
彼は今日も変わらず、全力疾走です。
でも、いつもその姿を見ている私はその違和感に気付いてしまいました。
その顔はいつもの爽やかイケメンではなく、苦痛に顔を歪めています。
一体どうしたのでしょう。
私は彼の走りを見ていると、足元がどうにもぎこちないように感じました。
そして、気付きました。
お尻に何か刺さっています。
目を凝らすとそれが何かわかりました。
薔薇です。
一輪の薔薇がお尻の穴に突き刺さっているのです。
王子様が一歩駆けるたびに、薔薇が揺れます。
私の目は釘付けになりました。
そして、プッという不思議な音と共に、その薔薇は勢いよく飛びました。
ふわりと空中を飛んだ薔薇は、私の病室の花瓶に刺さったのです。
それは、目も覚めるような深紅の薔薇でした。
彼は落ち込んだ私を励ますために、薔薇をくれたのです。
私の中に沸騰したように熱いものがこみ上げてきました。
私は彼がくれた薔薇をまじまじと見ます。
すると、茎の棘に、もう一つの赤が滴っているのを見つけました。
一滴の血です。
そこでようやく気付きました。
この棘が彼を走るたびに、直腸を傷つけ、苦悶の表情をさせていたのだと。
それを見た瞬間に私の視界は曇り、何も見えなくなりました。
とめどなく涙は溢れました。拭っても拭っても涙は止まりませんでした。
彼は走るのを止めなかった。
走るたびに、苛烈な痛みが彼を襲っても。
彼が私に伝えたかったもの。
それは戦うことの勇気。
私は彼の声を聞いたことはありません。でも、聞こえてくるような気がします。
病気に負けるな、痛みに負けるな、というメッセージを。
深紅の薔薇の様なワインレッドの血は、この冬にも負けないくらい熱い思いが込められていたのです。
「ありがとう、……本当にありがとう」
私の呟きは彼には聞こえません。
もう彼は走り去った後なのだから。
それでも、私は呟きます。
彼にこの感謝の言葉が届くようにと。
私は彼の走り去った道をいつまでもいつまでも見つめていました。
今日もその道をパトカーが走っています。
********
「まさか、あんたがチョコをあげるなんてねぇ」
入院している私を見舞いに来た紗江子ちゃんは、私の数少ない友人です。
彼女は右手に大きな包みを抱えています。
私が買ってくるように頼んだ特製チョコです。
入院先なので手作りチョコも作れないし、外出許可も下りない私は友人に買って来てもらわなければならなかったのです。
当然、私の意図はこの友人に悟られることとなります。
その友人がニヤニヤした笑いを浮かべています。
「あんたから珍しくお見舞いの品がリクエストされたからなにかと思えば……。だれよ? お相手は?」
私は顔が真っ赤になるのを感じながら、ぼそりと呟くようにしか喋れませんでした。
「……名前も知らない人なの」
「ええっ!? どーいうこと?」
そこから小一時間詮索が始まりました。
私は王子様がどれだけカッコいいか語りました。
でも、話したことはないから、彼の人となりは実はそれほど知りません。
「ふーん、じゃあ、そのいつも道を走ってるイケメン君に一目ぼれしちゃったってこと?」
「一目ぼれ、なのかなぁ?」
「煮え切らないわね。じゃあ、お互い面識もないようなものじゃない。いきなりチョコ渡されたらびっくりするわよね」
「……でも、私、彼から薔薇を貰いました」
「え!? ホント? どういうこと? でも、それなら完全に脈ありじゃん! 頑張らないと」
「うん、頑張るよ」
紗江子ちゃんが帰った後で、私はあの人がこんなに寒い中でも裸で鍛錬している頑張り屋さんという彼の一番凄いところを言うのを忘れたなと気付きました。
でも、もしもあんまりにも褒めすぎて紗江子ちゃんが彼に興味を持つといけないので言わなくて正解だったかもしれません。
私は早速チョコの加工に取り掛かりました。
もちろん、病室では料理は出来ないけど、削って形を変えることくらいはできます。
そのために、大きめの特製チョコを買ってきてもらったのです。
果物ナイフで私は彼のことを思いながら、一心不乱に削ります。
彼は私に勇気をくれました。
私もそのお礼にバレンタインチョコをあげたい。
彼のくれた勇気に比べればほんの僅かな勇気だけど、それでも私も勇気を振り絞ってチョコを渡したい。
私は心を込めてチョコを削ります。
まるで私の気持ちに呼応するかのようにチョコの先端は固く、そして何物も貫けるかのように鋭くなっていきます。
このチョコレート。
受け取ってくれたらいいなぁ。
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そして、バレンタイン当日。
まだまだ、寒さは厳しいけれど、少しずつ春の息吹を感じます。
そして、私の中に何かが目覚めようとしている気がします。
私はパジャマを脱ぐと、ランニングシャツにホットパンツ姿になりました。
入念なストレッチをしながら、身体をほぐしています。
そして、得物の最終点検をします。
私は大きな槍の先端に、思いを込めて削り上げたチョコを括り付けました。
この槍はかつて、お父さんが学生時代に槍投げの選手だったころに使っていた槍です。
お父さんが国体でハンマー投げで有名なあの人に負けて三位になった時に使っていた槍です。
私はその槍を握りしめます。
大丈夫。私はお父さんの子だから。
きっとできるはず。
槍を投げれるはず。
時計を見ます。
いつもの時間。
全裸の王子様が通り過ぎる時間です。
私は病室から廊下へと出ていきました。
この部屋だけでは助走には足らな過ぎるから。
廊下まででると、私は槍を肩に掲げます。
ずっしりとした重みが肩にのしかかります。金属部分がひんやりと冷たくて、手が強張ります。
そして、重圧に私の心臓はドクンドクンと跳ねます。
身体中まで強張りが広がってきて、不安で押しつぶされそうです。
その時、私の瞳には病室の花瓶に添えられた薔薇が映りました。
そして、思い出しました。
彼がくれたもの。彼がくれた勇気を。
その瞬間にじわじわと暖かいものが心の中に広がっていくのを感じました。
時間です。
シンと静寂に包まれた廊下を私は駆け出し、助走をつけます。
槍を握りしめ、一歩一歩踏みしめながら腿を上げ、全身をバネの様にしならせながら、極限にまで速度を高めていきます。
見慣れた景色が一変します。
私は今、一陣の風となりました。
腕が軋みます。腿とふくらはぎが攣りそうで悲鳴を上げています。
酸素が足らなくなって目もかすみそうですが、歯を食いしばってさらに加速します。
あと、ちょっと。もう少しだけ耐えてください、私の身体!
そして、廊下を通り過ぎ、私の病室に突入しました。
投擲動作に入った私の視野に見覚えのある人影が映りました。
見えました。
あの人です。全裸の王子様です。
彼は今日も、眼にも止まらぬスピードで疾走しています。
私は力強く踏み切ると、大きく振りかぶり、渾身の力を込めて槍を投擲しました。
放れた槍は、放物線を描きながら、あの人の元へ飛んでいきます。
その放物線はまるで栄光への架け橋のようです。
私は目を瞑り、祈りをささげるように両手を握りしめました。
――――お願い。届いて、私のチョコレート。
――――そして、届け、この思い。
――――大切なあの人へ届け。
私の放った槍はまるで思いが乗ったかのように加速していったように見えました。
そして、……。
グサッ。
そんな音が聞こえました。
私は目を開き、その光景を見つめました。
そして、それを認識した瞬間に涙が溢れてきました。込み上げてくるものを止めることは出来ませんでした。
全裸の王子様のお尻の穴には、確かに私のチョコレートが突き刺さっていたのです。
カランと音を立てて、槍は落ちましたが、その先端にはチョコレートはありませんでした。
チョコは彼の中にあるのです。
―――君(直腸)に届いた。
嬉しかった。
私が丹精込めて作ったチョコを受け取ってくれたこと。
そして、それまでの苦労が全部報われたこと。
つらかった。苦しかった。
病室で一人、槍を投げる日々。
思うように投げられずに、悪戦苦闘した。
指のマメが破れ、肩には激痛が走った。
それも全部、今、この瞬間に報われたのです。
私はようやく自分が成し遂げたことを自覚しました。
涙がようやく止まり、視界が開けました。
道には転々と血痕が残っていました。
あまりにも鮮やかな、薔薇の花びらのように美しい赤でした。
多分、彼は切れ痔だったのだと思いました。
王子様は翌日逮捕されました。
お尻が痛くてパトカーを振りきれなかったそうです。