藤七と畜生と
時は江戸。
徳川綱吉公の御時である。
江戸の町に変わり者の男がおった。
男は魚屋の小倅で、名を藤七と言った。
藤七は幼少の頃から魚の捌き方を仕込まれた。
そのためか、いつしか藤七は命を軽んずるようになっておった。
目障りだと虫を叩き殺し、
五月蠅いと鴉を絞め殺し、
鬱陶しいと犬を蹴り殺した。
生類憐みの令が出され、久しい。
いつか御上の目に触れるのは火を見るよりも明らかである。
あるいはそんな時勢に逆らう事をも喜びとしておるのか。
藤七の父は息子の身を案じ、旧来の親友に相談した。
「何とかならないものだろうか」
その親友は快く承諾し、その小さな体をゆすってどこかに消えていった。
ある日の午後、藤七は縁側におった。
今日も今日とて、柱に止まった羽虫を意味もなく殺しておった。
そんな藤七を、偶然通りかかった近くの寺の和尚が見とがめた。
「これ、これ」
和尚は常々、藤七が無益な殺生をする事を悪う思っておった。
「虫にも五分の魂があるという。命をそまつにするでない」
和尚は続けて、仏の教えを説いた。
「それに、前世ではお前のご先祖様であったやも知れんのだぞ?」
対する藤七は、それに臆するどころか大笑いして答えよる。
「はっはっは、虫に五分の魂があるのなら、人間様には千丈万丈あらぁ」
「命に大小はあれど、軽重はない。いずれ罰が当たるであろう」
和尚はそう言うと、溜息を残して去っていった。
さて、そんな藤七にも、一匹、可愛がっている畜生がおった。
祖父の代からこの家に厄介になっておる老猫で、名を佐助といった。
賢い猫で、幾許か人語を解しているようでもある。
藤七は膝の上で丸くなっている佐助をなでてやっていた。
「人が人を殺すのが浮き世だ。犬畜生を憐れんでも、仕方あるめぇ」
佐助はあくびをしながらも、困ったように鳴いておった。
そんなある日の晩。
草木も眠るという丑三つ時。
藤七は小用をもよおし起きた。
行燈片手に厠へのみちすがら。
藤七は奇妙な音を聞いた。
ぶーん、という何かが小さく振動するような音であった。
「はて、幽霊でも出よるか」
藤七は少しだけ怖くなりおったが、すぐに思い直した。
「はっ、俺様人間様にゃあ千丈万丈の魂があらぁ」
小用を足した藤七は厠から出て気付く。
ぶーん、ぶーん、という低い音が辺りに満ちておったのだ。
そしてそれはだんだんと大きくなっていき、ついには肌に波風を感じるほどにもなった。
それは小さな小さな羽虫だった。
「なんでぇ、驚かしやがって」
藤七は急に気が大きくなったと見えて、ふんぞり返りよった。
「人間様には千丈万丈」
そう鼻で笑った藤七は、ようやく気付いた。
羽虫の割には音が大きすぎやしないか、と。
「確かに、我々の命は小さい。しかし、それが億兆集まれば千丈万丈をも超えよう」
行燈が照らす闇の一部が急に落ちくぼんで来よった。
いや、そう見えるほどに大量の羽虫が、藤七の周りに現れたのだ。
「貴様に潰された命の恨み、ここで晴らさでおくべきか!」
その声が合図になって、羽虫がいっせいに藤七に襲いかかった。
一匹一匹が小さく弱い羽虫だが、目に口に耳に鼻に入られてはたまらない。
藤七は口と耳に入った羽虫のせいでうまく息が出来ず、涙を流した。
もはや目は見えず、音も聞こえん。
「誰か……誰か助けてくれぇ!」
藤七は必死で叫びよったが、こんな夜中には人っ子一人おらん。
ついに、藤七は自分は死ぬのだとすら思うた。
「ああ、殺生なんぞするんじゃあなかった」
その時だった。
何か黒い陰が躍り出て、藤七の落とした行燈を蹴りよった。
その火が周りに燃え移って、周囲が昼のように明るうなった。
炎におびえたのか、あんなにおったはずの羽虫たちは一匹たりといなくなっておった。
「ああ、ああ……」
炎を背景にちょこんと、黒い猫が座って藤七を見ておる。
「佐助か……おめぇ……」
返事をするでもなく、その黒い猫は長い尻尾を二三度、ゆらりと振った。
藤七は安心して、気を失いよった
藤七は夜明けに目を覚ました。
「あれぁ、夢だったのか?」
そう思って藤七はがしがしと頭をかいた。
その手に、髪の毛に混ざって幾匹かの羽虫がついていた。
「……面妖な事もあるもんでぇ」
藤七はそう言って鼻を鳴らしたが、いつものように笑ってはいなかった。
その日から、藤七は無駄な殺生をせんようになった。
それどころか捨て猫や捨て犬を拾っては、飼い主を探してやる始末。
藤七に変なものでも憑いたのではと、和尚が疑おたほどだった。
一方、その様子を見た藤七の父は満足げにうなずいておった。
「あんさんに頼んでよかった。よかった」
そう言って友人に、先日上がった初ガツオを出してやった。
「どうだ、うまいか」
返事もせず友人は、小さな体を揺らしながら、それを嬉しそうに食べておる。
その尻尾の影は、確かに二股に分かれて見えた。