三粒と二片
サヤによるシイ救出劇。
ある意味…体張っています。
王女さまがちょっと…です。
音楽会の礼装を脱ぎ捨てると、サヤは平服に着替えて書類仕事のために
机に向かった。夜も更けてきて、心配したエリゼが夕食を持ってきてくれ
たが、スープに多少口を付けるのが精一杯だった。食欲が全く湧かない。
昼間無理やり口にした菓子の余韻か、未だ胸のつかえが取れない。
音楽会での暗闘にシイの投獄、イオの暴走と疲労困憊なのに、
少しも眠気が訪れない。
むしろ夜が更けるにつれ、頭の中が冴えてくるようだ。
(シイ…)
いつも側にいてくれる彼女の優秀なる秘書官、彼女の弟分が今はいない。
2、3日の辛抱というけれど、出会ってから…ズダボロでババッちく
山中に倒れていた8歳の彼を10歳の彼女が拾って以来、1日だって離れ
たことなんかない。
ピイピイ泣く子どもだったくせに、いつの間にやらサヤの背を追い越し、
ある時は前に立ってサヤの手を引き、またある時は後ろに立ってサヤを
守ってくれる。そのシイが側にいない。
大丈夫、少しの辛抱。
そう自分に言い聞かすも不安は消えない。
レン少将が付いている。宮廷の地下牢は王国軍の管轄だ。
名家出身の高官が口添えすれば酷い扱いはされないだろう。
第一、マルモア国法では囚人への虐待や拷問が厳禁されている。
(サーヤ)
あんまりシイのことばかり考えているせいか、幻聴まで聞こえてきた。
彼女の名を呼ぶ声が聞こえる。
(サーヤ)
けれどもその声は、彼女の名を呼びながら、彼女に向けられてはいない。
魂の底から湧き上るような、心の悲鳴。
悲鳴…?
サヤは弾かれように立ち上がった。
少将殿がいるから大丈夫?
マルモア国法で守られる?
それらが信頼できるものではないくらい分かっていたことだ。
「ナナツっ!」
廊下に出るや、隣室で寝酒を楽しみ始めていた爺やに向かって叫ぶ。
「勅印を持って、車の支度をして。王宮に行く」
「こんな夜中に、か?」
そう言いながらも、サヤのただならぬ様子を察して、ナツも身仕度を
始める。
「勅印で王宮に入れても、地下牢までは無理だぞ。どうする?」
最速でシイを救い出すには誰を訪ねるべきか。
この際、恥も外聞も矜持も脇に置いておく。
一刻も早くシイを助けなければ。
(可愛いお姫さまを脅すのもどうかと思うけど、こんなものでも
何かの役に立つ時があるかな)
つい先日居間(兼食堂兼…以下、略)で一緒に作業をしていた時に
シイに言われたことが頭に閃く。
サヤは全速力で屋根裏に走るとシイの部屋の扉を開けた。
屋根裏といっても少し天井が低いだけで、ほとんど3階と言っても良い。
広い空間をシイがほぼ独り占めしているのだが、半分は彼が都で買い
集めた書籍の類、半分は彼がサヤに“貸す”ために集めた宝飾品や服飾品
の類で埋まっているので随分と手狭に見える。
もっともシイはサヤと“違い”、整理整頓がきちんとできる人だった。
お陰で二つ三つ書類入れの箱をひっくり返すだけで、サヤは望みのものに
辿り着いた。
「ナナツ、全速力でお願い!王宮で王女さまに会うわ!」
*** *** *** *** ***
王室御用達商人のごく一握りに授けられる勅許印章…略して勅印。
掌に収まるほど小さな印だが、これを示せば昼夜を問わず王宮の
一番小さな通用門を潜ることができる。
もともとは王室の覚えめでたい商人が各地を渡り歩く中で、重大情報を
入手した際に最速で直接王族に伝達できるよう設けられた制度だ。
サヤ自身が王室の覚えめでたいかというと全くそんなことはない
けれど、エルミヤ商業組合としては近年王都でも活躍しており、
何といっても北方の要であるため、以前から勅印を授けられていた。
ちなみにエルミヤ商業組合の長はナナツである。
地元ではいろいろ略して「組長」と呼ばれている。
ナナツが時に組長と呼ばれるのも元ヤクザの親分…げふん、げふん、
だからでは決してない。
勅印は組長だけではなく、彼の認めた者でも構わないため、サヤが
それを使って夜中に王女を訪問するのも合法ではある…まあ、一応。
「それで一体、こんな夜中に何のようなの?」
王女は不機嫌な様子を隠さなかった。
多くの侍女に傅かれ就寝前に髪と肌と爪の手入れをさせていたところ、
火急の用件だという知らせが飛び込んで来たのだ。
慌てて客間に出向いて見れば、王女がこの世で最も憎んでいる娘が
平伏しているではないか。
「北方辺境伯代理はいつから商人になったのかしら?」
「領主は商業組合の役員でもありますゆえ」
「卑しい者にはお似合いの肩書きだこと」
特権階級の中には未だ商業=金儲け、は卑しいものという思想があった。
「それで?勅印まで持ち出して何を言いに来たの?
北方異民族が攻めてくるの?エルミヤ貧民の暴動でも起こったの?」
侍女や衛士に命じて無礼な小娘を叩き出すことも可能だったが、
王女はそうしないことに決めた。
理由は何であれ、サヤが自分に頭を下げ続けている。それが愉悦を誘った。
「恐れ多くも王宮内において、王法を曲げ、拷問と虐待が行われて
おります。王女さまの深き慈悲をもって速やかに救済していただき
たく…」
「何ですって?」
音楽会が終わった後の出来事は王女の耳にも入っていた。
サヤの従者が副宰相に暴力を振るったと…賤民の分際で名家出身の
副宰相を殴打し、負傷させたと聞いている。
一昔前ならその場で首が飛んでもおかしくない蛮行であった。
「お前まさか…従者一人を釈放するために、私の所に来たの?
勅印まで持ち出して」
「はい」
サヤの答えに王女さまは目を見開いた。
犯罪者を即時解放してほしいとは無茶な願い事だ。
確かに王法は囚人への虐待や拷問を禁止しているが、先に法を破った方に
落ち度がある。多少痛めつけられたとしても文句は言えないはずであった。
そんなくだらないことのために自分は呼び出されたのか、と
王女の中で沸々と怒りが沸く。
「到底聞き入れることはできないわ。明日にも出直しなさい」
まだ髪の手入れも爪の艶出しも途中なのだ。
田舎娘はどんなに薄汚い格好でも構わないだろうが、自分は王女だ。
臣下の前では何時如何なる時も美しくあらねばならない。
「"聡明なる王女さま"」
北方辺境伯代理が懇願を続ける。
「お膝元で行われる非道をどうかお見逃しくださいませぬよう」
何と言われても承服するつもりはなかった。
もっとも…くだらない用件で貴重な時間を無駄にされたのだ。
その償いはしてもらわねばならない。
「お前たち…呼ぶまで下がっていなさい」
王女は古参の侍女一人を残して他の者たちを退室させた。
彼女の中に目の前の娘を弄る昏い悦びが湧き上がる。
「それが貴人にものを頼む態度なの?跪きなさい、サヤ」
既にこれ以上ないくらいに平伏していたサヤであったが、
王女の言葉に両肘をつく。
「田舎娘が宮廷作法を知らないのも無理はないわね。教えて差し上げるわ。
…四つん這いになって私の靴に口付けなさい」
それは最下層の賤民が貴人に拝謁する名誉を授かった時に行う作法。
身分制度が撤廃されたマルモアでは既に過去のものとなっている。
「王女さま」
まだしも良識のある古参の侍女が声を上げた。
サヤは宰相さまの実の娘で、まもなく辺境伯となる身の上だ。
夜中の訪問が非常識なものとはいえ、ここまで貶められる云われはない。
しかし、王女は「お黙り」と短く命じ、一睨みで侍女を黙らせる。
大嫌いな娘を屈服させる快感。
王女はサヤの表情が苦痛で歪むのを期待した。さんざん苛めてから
囚人の釈放は認めないと告げてやろう。
その時にサヤが浮かべるであろう絶望の表情。そして泣き叫ぶ声。
ゾクゾクするほど楽しみだ。
ところが。
唇を噛みしめることも、羞恥で顔を赤くすることも、怒りで身体を
震わすこともなく、実に淡々とサヤは命じられたことをやって見せた。
王女の靴に唇を付けたまま、足蹴にしてくれとばかりに動かない。
サヤにしてみれば、王女が相手だ。この程度のことは想定内で、
シイを助けるためなら何でもなかった。
一方、王女は期待を裏切られて面白くない。
彼女が見たいのは柔順なサヤではなく、苦悶するサヤなのだ。
「…全く。カレントもアイオンもどうしてこんな娘を気にかけるのかしら。
いくら宰相の娘だからって二人とも気を遣い過ぎだわ」
四つん這いになったまま、内心カレントって誰だ?と疑問符を浮かべる
サヤである。
「知っていて?カレントは都で一、二を争う名家出身なのよ。
次男だから慣例に従い王軍に入ったけれど…長男である兄君は
もう何年も病に伏せってらして、家督を継ぐのは難しいと言われて
いるわ。そんな状況でカレントのお相手が貴女だなんて…
どれだけ宰相に強請ったのか知らないけれど、随分と図々しいのでは
なくて?」
話の流れで、王女がレン少将のことを言っているのだと漸く理解する。
レンって、カレントって言うのか。家督継ぐ線が濃厚なのか。
サヤにとって初耳である。
2年前に宰相から婚約の話があった時、もしかしたら説明されたのかも
しれないが、ろくすっぽ聞いていなかったし、送られてきた手紙類は
封も切らずにゴミ箱行きにしてしまった。
「王女さまの仰せの通りでございます。少将殿はわたくしめには誠
もったいない御方。縁組など恐れ多いことでございます」
サヤはスラスラと言い募った。
本音でお断りである。名家を継ぐかもしれない男など、面倒くさい。
「アイオンも幾ら自分の神殿管区にいる娘だからって思いやりが過ぎる
というものよ。彼が優しいからって調子にのって纏わりつくのは
止めなさい」
イオが優しい…?
先刻、車の中で襲われかけたんですけど…などと暴露するわけにはゆかず、
「申し訳ありませぬ」と謝るしかない。
「ねえ、サヤ。カレントは王女の婿こそ相応しいと思わない?
アイオンも捨て難いけれど、枢機卿との婚姻は許されていないし。
そうだわ、彼には"恋人"になってもらうわ。お母さまの宰相みたいに。
私は次代の女王ですもの。夫以外に“恋人”を持つのも許されるわ」
いや、それ違うでしょ、と抗議するよりも先に嫌悪感が込み上げる。
少将殿はいい。何度も言うが、熨斗つけてくれてやる。
けれども、イオを"恋人”に?
女王さま“の”宰相のように?
怒鳴りつけたくなってサヤは必死で自分を抑えた。
今はまだ喧嘩を売る時ではない…今はまだ。
「確かに…王女さまがお生みになる御子さまが将来お世継ぎに
なるのですもの。例え、父親が誰であろうとも」
「何ですって?」
おべんちゃらを並べようとして、サヤは失敗した。
イオを"恋人"にすると言った王女さまに揺さぶられて、口を滑らせたのだ。
王女の靴先がサヤの唇を蹴り、ぶわりと血の味が広がる。
「お前のような者に何が分かるの!」
続いて王女は手にしていた扇でサヤの頭や身体を激しく殴打し始めた。
「何て目障りな女!存在自体が疎ましいっ!」
バシ、バシッ、バン、バン、バン
上着が剥がれ、肩が露わになる。
肌の上にも直に打擲が続き、赤い痣が幾つも重なるように浮かんでゆく。
扇の金具に引っ掛けられたのか、こめかみが傷つき、赤い血が細い糸を
作る。後ろで一つに留めていた髪がバラバラになる。
それでも王女さまはまだ手を休めようとしませんでした。
「何で、そんな姿で私の前に現れたの?政略結婚で生まれた娘のくせに!
宰相によく似た姿で自己主張して…」
いえ、生まれついての外見に文句言われても困ります。
「お前さえいなければ…お母さまも私もこんなに苦しまなくてすんだのに」
ええ、私も生まれる場所を選びたかったですよ。あんな男の娘ではなく。
「王宮にお前の場所はないわ。宰相もカレントもアイオンも私のものよ。
お前になぞ、おこぼれだってやらないわ。
誰にも愛されない、みじめな女、それがお前よ。
分かったら、とっとと王宮から出ておいき!」
バシッ
一際大きな音が響き、遂に王女の手にした扇がバラバラになって
床に散らばった。
「私が王宮を出る時はシイも一緒です」
に、と不敵に笑うとサヤは顔を上げた。
次いで口元の血を拭いながら、両足で立つ。
自然、小柄な王女さまの前に立つと、相手を見下ろすようになる。
毛嫌いされているのは元より承知。
けれどそれは単なる嫌悪を軽く超えていて、憎悪の段階に入っている。
その昏く重く醜い感情がどこからくるのか。
"政略結婚で生まれた娘"。
王女の瞳を覗いて、サヤは悟る。
ああ、そうか。貴女もだ。
"優しい女王さま"と宰相が永きにわたる恋人同士だとしたら。
先の国王さまと女王さまとの間に生まれた王女さまは愛の結晶ではなくて。
だから王女さまはサヤを見下し、自分の絶対的優位を確かめずには
おれないのか。
…貴女の心の葛藤なんて私にはどうでもいい。
「地下牢までご足労願えますか?"聡明なる王女さま"」
バラバラになった扇の欠けらを床から掬い取り、サヤはここぞとばかり
声に力を込めた。
「でなければ、この姿のまま王宮を歩き回りますよ?」
乱れた髪。破れた上着。剥き出しの肩に散らばる痣。
切れたこめかみ。腫れた唇。
「真夜中といえども王宮内。衛士の目も女官の目もありましょう。
問われたら勿論、嘘は申せません。王女さまの美容の邪魔をして
お叱りを受けたと“正直に”お話しいたします」
サヤの手には王女が愛用していた扇の残骸。何よりの証拠だ。
「わ、わたくしを脅すつもりなの?そんなことをしても無駄よ。
誰もお前の言うことなど信じないわ」
王女の声が上擦っている。
「別に信じてくださらなくても良いです。王宮の地下牢で囚人虐待が
行われ、王女さまが勅印携帯商人に暴行を加えたという“噂”が
流れればそれだけで」
「王女さま…」
古参の侍女が今更ながら咎めるように主を見る。
噂でも王女の名誉に傷が付くのは確かだ。
「ああ、もう一つ。来訪の目的がありました。
こんなものを市中で偶然手に入れましたので
…持ち主にお返しするのが宜しいかと持参した次第です」
サヤは胸元からクシャクシャになった書簡を取り出し、王女さまに
差し出した。
「これは…」
中身を改めて、王女の顔が赤らみ、ついで青くなった。
「とある官能…いえ、恋愛小説家に宛てた手紙とお見受けします。
見る人が見たら、王女さまの直筆だと分かるでしょうね」
「こんな手紙知りません!ぎ、偽造されたものです」
「王室御用達商人を打ち据えたのですから、その主張は苦しいですねぇ」
「………っ!」
今や形勢逆転。
もちろん全部計算していましたが、何か?
ろくすっぽ鍛えていない王女の細腕で打たれたくらいで堪えたり
しませんわ。
冬眠前のヒグマや春先のオオカミに遭遇した時の生存競争に比べれば、
楽勝、楽勝。
サヤはちゃちゃっと身繕いすると王女を追い立てて地下牢に向かった。
マルモア国法は因習を払拭しきれておらず、いろいろおかしなところが
あるが、今回サヤはそれを利用するつもりだった。
女王もしくは世継ぎ王女の“大権”を揮えば、囚人を即時釈放できる。
「虐待だの拷問だの、お前の考えすぎじゃないの?」
地下牢に続く階段の手前で王女は小さく身震いした。
必死に虚勢を張っているが、地下牢に入るのはこれが初めてなのだ。
眼下の薄闇と冷気に、知らずサヤの破れていない方の袖を握りしめていた。
愚かな王女は己の悪事が露顕することを恐れ、古参の侍女には自分の
不在を隠すように命じ、衛士の一人も付けずにサヤを地下牢へと案内した。
…このあたりは、考えなしと言うべきか、意外と大胆と言うべきか。
「血が繋がっているだけの他人もいれば、血が繋がっていなくても
身内に思う者もいるのです…シイに何かあれば分かります」
王女が反論しようと口を開きかけた時、サヤの耳はいち早く階下から
響いてくる複数の足音を捕らえた。鉢合わせしないよう王女の手を引いて
物陰に身を潜める。
「さぞ…はお待ちかねであろう。急いで身を清めなければならないな。」
副宰相の声であった。
「随分とお楽しみのようでしたね。
時が経つのも忘れるほど…良かったですか?」
もう一人の声にもサヤは聞き覚えがある。
(“あの男”の側近だったっけ?)
「お前も遊びたいのかなら構わないぞ?何人か一緒に連れて行って交代で
愉しめば良い。せいぜい可愛がってやることだ…正気に帰れぬほどに」
サヤと王女が隠れている直前を二人の男が足早に通り過ぎる。
余程急いでいるのか物陰の存在に全く気付かない。
「シイっ」
副宰相らが消えるやいなや、サヤは地下牢に駆け込んだ。
即時釈放の大権を有する王女を引きずるようにして連れて行く。
二人が狭い階段から足を踏み外さなかったのは奇跡といえる。
「王女殿下のおなりである。この者をただちに釈放せよ」
サヤは恐れ慄く牢番をどやしつけ独房の鍵を開けさせた。
「シイっ!」
離れて半日も経っていない。
床の上に崩れおちるように倒れている彼を見て、サヤは息が止まり
そうになった。
「早く鎖を外しなさい」
そう牢番に命じたのは王女だった。
親切心からではない。彼女は一刻も早くこの場から逃れたかったのだ。
無礼な異民族など少々痛めつけられればよいと思っていた。
しかし、これは明らかにやり過ぎだ。
虐待を、それもおぞましいやり方で加えていたのは副宰相。
女王の崇拝者であり、王女の擁護者である男だった。
その副宰相があんな酷い…あんな汚いことを。
王女は衝撃で打ちのめされた。
「う…サ、サーヤ?」
暖かい手の感触に、シイの意識が浮上する。
彼の乞い求めていたものが直ぐ近くにある。
「迎えに来たよ。遅くなって、ごめん」
サヤはシイの脇腹に手をやると、彼を助けて立ち上がろうとした。
「いけない、サーヤ。君が汚れる」
ところがシイは身を離すと、自分で立ち上がろうとして失敗し、
その場に膝を付いた。
「僕は汚れているから…触れないで」
距離をとろうとするも、そこは狭い独房のこと。
互いの息づかいまで感じられそうだ。
「なに馬鹿なこと言っているの!あなたが汚れているなら、私も汚れるわ」
「サーヤ…」
「とっととこんな所出るわよ」
これ以上、聞く耳持たんとサヤは問答無用でシイを支えると、独房を出た。
ちなみに一人で猪狩りができるサヤである。
いざとなればシイを担いで運ぶことも可能であった。
独房の前で王女がうずくまっていた。お姫さまには刺激が強すぎたらしい。
狭い通路なのでシイの破れた服の切れ端が王女に触れそうになる。
バッ
とっさに王女は身を引いた。
本能的に穢れた囚人に触れるのを拒否したのだ。
…けれども自分のそんな行動をどうしてか後ろめたく思ってしまう。
薄闇の中、サヤが自分を睨みつけているのが、どうしてか分かってしまう。
「なによ、わ、わたくしは悪くないわ!
副宰相が勝手にやったことでしょう」
自己弁護に努めるも、もはや半泣き状態だ。
「"聡明な王女さま"」
そんな彼女をサヤは冷たく嘲笑った。
「感情に任せて地方領主を打ち据える王女に、囚人虐待を楽しむ副宰相。
それがこの国の現状です。次の…貴女の治世はさぞ素晴らしいものに
なるでしょうね」
その言葉に、王女は初めて、今まで当然のことと考えていた王位継承に
恐怖を感じた。
両足の力が抜け…彼女は一人、その場から動くことができなかった。
*** *** *** *** ***
レン少将はその時、いささか浮かれていた。
仕事が長引き、すっかり遅くなってしまったが、
シイを訪ねるつもりだった。
彼のために暖かいスープと追加の毛布を用意した。飲料水に果物もある。
将を射んと欲せば…ではないが、地下牢で心細い思いをしているで
あろうシイに親身になってやり、好感度向上を狙うつもりだ。
枢機卿のイオは婚姻が許されないし、異民族のシイが辺境女伯と
婚姻することは難しい。
サヤを手に入れるのは自分だ。自分こそサーヤに一番近い場所にいる。
既に父親である宰相さまの了解も得ている。
ただ、"政略結婚は嫌だ"とダダをこねるサヤのために、彼は寛大な
婚約者になろうと決めていた。
取りあえずは婚約、それから婚姻。
宰相さま待望の息子が生まれる頃には、それなりに愛情も育まれて
いることだろう。
…などと、幸せな未来予想図を脳内に描いていたのだが。
「サーヤっ!」
手にしていた物を全て投げ出すことになった。
未来の妻(レンの中では決定事項)に支えられ、ズタボロになったシイが
地下牢から姿を現したのだ。
坊ちゃんといえど軍人のレンである。
シイの様子から何があったか察する。
大失態だった。好感度向上どころか、絶対零度まで急降下だ。
「サヤ、どうやって地下牢に?」
辺境伯代理の人脈で夜中でも王宮に入れるのは分かる。
しかし、地下牢までは…何か無茶なことをやったに違いなかった。
「地下で王女さまが腰を抜かしているわ。行って、部屋まで送ってやって」
「でも君の方が…」
「私は大丈夫…早く行け」
その命令口調に、レンは渋々ながらも従った。
確かに、王女を地下牢に放置してはおけない。
「シイ、もう少しだから頑張って。外でナナツが待っている」
シイの身体が熱い。高熱が襲ってきそうな気配がした。
そこに息を切らしてイオ枢機卿が現われた。
銀の短髪が乱れ、あちこちハネている。
「なせ私を呼ばないっ!」
サヤを見るなり怒鳴ってしまったイオだが、直ぐに沈痛な面持ちになる。
「君が夜の王宮に向かったと聞いて…」
シイほどではないが、それでもかなりボロボロになっているサヤを
目の当りにして、イオはもはや怒るべきか嘆くべきか分からなくなった。
「イオを信頼していない訳じゃないよ。
私はただ、考えられる最速の方法を取っただけ」
そうかもしれない。
けれども、イオはやはり自分を頼って欲しかった。
目の前で「私は大丈夫」と鮮やかに微笑む娘。
その真っ直ぐな強さが愛おしくも憎らしい。
彼女が甘えた声で自分にすがりついて来るのはいつの日か。
…何だか一生来ない気がして、イオは酷く落ち込んだ。
その頃になると流石に異変を察知したのか、衛士の一団が此方に
向かって走ってくる。
「…連中は私が引き受ける。シイを連れて行け」
反対側からナナツが駆け寄るのを目の端で捕らえるや、イオは歩み去った。
枢機卿が追手を引き受けてくれたため、サヤたちは無事、
王宮を脱出することができた。
*** *** *** *** ***
地下牢と同じような薄闇。
その場所はしかし、マルモアで最も高貴な御方がお休みになられる
場所であった。
日の光の下であれば肌も露わな…つまり肌も透け透けの薄物一枚を
身に付けただけで"優しい女王さま"は何度となく寝台の上で寝返りを
打っていた。
頭が重い。そして身体が熱い。
彼女の不調を癒すことができるのは唯一人だけ。
微やかに隠し扉が開く音がする。
今夜も彼は来てくれた。
「遅かったじゃないの、アガイル」
どうせ暗くて見えないのだが、女王は"恋人"に向かって頬を膨らませる。
「お許しください…陛下」
「嫌よ。名前で呼んでくれなきゃ許さないわ」
「…カナイ」
「あ、あ、アガイル」
彼女の“恋人”はいつも欲しいものを与えてくれる。
熱い抱擁と口付けに女王の身体が蕩けてゆく。
「アガイル、怪我をしたの?」
目で確認することはできないが、触れてみて気付く。
相手の片頬が腫れているようで…絡まる舌の感触もいつもと違う。
「王家に仇なす者と少々やり合いあした」
身を離そうとする男に女王はすがりついた。
「離れてはいやっ」
「カナイ…」
再び女王は暖かな抱擁を与えられた。自らも相手の背中に腕を回す。
彼女より幾つか年上だというのに、彼の肌はいつまでも若々しい。
「わたくし…今日、貴方の娘を見て心が騒いだわ。
てっきりカヤ似かと思っていたら、貴方にそっくりなのだもの。
わたくし…きっと嫉妬したのだわ。
貴方の亡くなった妻と貴女の娘に」
「私の心はとうの昔から貴女だけに捧げておりますのに。
先の陛下に命じられて迎えた女に露ほどの情もありあせん。
その女と作った子も取るに足りない存在です。
貴女が嫉妬してくださるのは嬉しいですが、無用の心配ですよ」
それを証明するかのように、甘く熱く彼は女王を求めてくる。
「アガイ…ル」
「何ですか、カナイ?」
「わた…くしを愛して…る?」
「もちろんです」
荒い息づかいの女王を揺らしながら、男はどこまでも甘い返事をする。
「わたくし…だけを、あ、愛し…てる?」
「貴女だけを。私の女王」
「あ…」
若獅子のように荒々しい男の腕の中で、深窓育ちの女王は長く保たない。
「アガイル、アガイル、ア…ガイル…」
何度となく愛する男の名を呼びながら、女王の意識が深い眠りに
落ちてゆく。
「お休みなさいませ、"優しい女王さま"」
優しく額に口付けて、"宰相"はその日最後の仕事を終えた。
ということで、王女さま、こんな感じです。
この方、これからどんどん皆様に嫌われてゆくのでしょうか。
あるいはちょっと同情票も付きますでしょうか。
”優しい女王”も、あんな感じになっています。
もう皆様はお気づきになられましたよね?
次回、宰相さまとサヤの親子ガチンコ対決です。
叙爵が近いので喧嘩している場合ではないのですが、
宰相さまのシイに対する仕打ちがどうにも腹に据えかねたサヤが
宰相邸に殴り込みをかけます。