最後の一粒
長らく間が空いてしまい、申し訳ありません。
「エルミヤの一粒」これにて完結です。
異種族シイと“神の使者”アイオン、その勝負の行方は。
後から思い返して顔から火が出るという経験をしたことがあるだろうか。
鏡を見るまでもなく、首から上が真っ赤になっているのが
自分でも分かる。
床に転がって、右に左にゴロゴロ…それから、手足をバタつかせ、
言葉にならない雄叫びをあげたりして。
はい、エルミヤ辺境女伯ですが、何か?
ええ、どうせ、田舎者です、貧乏人です。
マルモアの宮廷になんて出仕する身の上ではないんです!
(ああ、恥ずかしい。私ってば、私ってば、何てことを…!)
誰もいないのを確かめてから、宰相邸の自室で羞恥に身もだえする者
約一名。つい先日、正式に叙爵したサヤである。
帰郷を前にして、未来の旦那様との現実が急に圧し掛かってきたのだ。
「枢機卿辞めてエルミヤに婿にくればいいじゃない」
「私がバーンと養ってあげるわよ」
非常事態だったとはいえ、何様なんだ自分…っ!
と反省することしきりである。
確かに、イオの暴走を何としても止めなければならなかった。
彼が“神王”として聖俗の長となれば、マルモアは…危ういことになる。
当然、エルミヤだってただでは済まない。辺境女伯として見過ごせない
事態であった。
しかし、女伯としての責務よりも、心が叫んでいた。
彼を失いたくない、と。
(でもでも、婿とか、養ってあげるとか、何て偉そうなことを…!)
上半身を起こしたものの、まだ立ち上がることができず、
床をバシバシと叩く。
アイオンに告げたことは真実だ。彼と結婚したい。ずっと添い遂げたい。
しか~し、彼に第五枢機卿としの地位も“神の代理人”としての名誉も
全て捨てさせて、彼女が捧げられるものといえば…
何て小さくて、少ないものだけなのだろう。
それに、自分はそう長く生きられないかもしれない。
シイに約束したのだ。命の半分を彼が“特別な力”を使うために捧げると。
未だに、どうやったのか全く分からないが、シイは確かにサヤのために、
国軍や神兵の足止めをしてくれた。
お陰で、イオを旗印にした神殿による政権交代は未然に防げた。
女王も“命ばかりは”長らえ、副宰相も重傷を負ったものの生き延びた。
後悔はない。
けれど、自分に残された時間はあと何年あるだろう。
興奮した身体は急に冷めてゆき、サヤは王都での最後の夜を
眠れずに過ごしていた。
*** *** *** *** ***
扉が開き、音もなく滑り込んできた影にシイは冷ややかな視線を送った。
女主人には休むように言ったものの、彼自身は明日の帰郷に備えて
まだまだやる事が残っていた。
開花した異力の一つである鳥を使う術で、夜目のきく種類のものを
走らせ、王都での最後の情報収集にも余念がない。
荷物の仕分けもまだ終わっておらず、さしもの彼もいささか疲れていた。
そんな時に、やって来たのは、この世で最も排除したい人物で。
もちろん、相手にとって自分もそうであることは分かっていた。
「ふうん、てっきりサーヤの所に夜這いに行くかと思ったけれど、
僕の所に来るんだ」
「サヤとの濃密な情事を途中で邪魔されたくないからな。
先に片づけておきたい」
現われたのは、もちろん第五枢機卿…いや、元・第五枢機卿である。
イオはエルミヤ辺境女伯と共に行くため、全てを擲つ覚悟を固めた。
「主神殿で“大掃除”をしているみたいだね。
あんたに心酔していた神官や巫女が随分と“片付け”られているとか。
その手が血塗れなのをサヤが知ったら、どう思うかな」
「私の手が血塗れでも、私の心が暴れても、狂っても、
彼女は受け止めてくれる…そういう女だ」
イオの勝ち誇ったような笑みに、シイは心底嫌な顔をした。
「あんた」を「お前を」
「殺すことができたなら」
二人は同時に互いへの殺意を口にしていた。
サヤの大事な“場所”はエルミヤだ。それは仕方ない、認めるしかない。
けれども、サヤの大事な“人”は自分だけであるべきだ。
他の男は要らない。
シイもイオも同じことを思い、邪魔な相手を排除したいのに
…それができない。
「サヤに何をしたんだ?
“ディヴァン”としての絆は私が断ち切ったはずだが」
魂の片割れ
…異種族の血を色濃く引くシイに定められた“ディヴァン”という存在。
それがサヤであった。
しかし、サヤがイオを選び二人が結ばれた時、その絆は解消された
はずであった。
「なぜ、サヤの中にお前の気配がある?サヤに…一体何をした?」
自分で選んだことではないといえ、長年神職に身をおいていたイオの
ことである。サヤの身に何かが起こったことくらい感じ取っていた。
「切れた絆をせっせと補修したんだよ。サヤは僕のディヴァンだ。
生涯それは変わらない。
いくらあんたでも、もう二度と断ち切ることはできない」
「お前はまさか…っ!!!」
「何か勘違いしていない?
サヤの意志に反して、僕が彼女をどうこうするはずないだろう?
サヤの心も身体も傷つけたりしない。
ただし…彼女の“命”を半分いただいたよ」
それを聞いた途端、イオが殴りかかり、シイが間一髪で拳を逃れる。
「分かっているくせに、無駄なことをしないでくれる?
僕が死ねば、サヤも死ぬよ?
僕とサヤの命は今や一つに繋がっているからね」
別に僕はサヤと二人で逝けるなら文句ないけど、とシイは相手の怒りを
わざと煽った。
「サヤは自分の身にに何が起こっているのか分かっているのか?」
「さあ?たぶん、短命になったと思っているんじゃないかな。
残された時間を惜しんで、あんたとの結婚や子作りには積極的になる
だろう…僕に感謝してほしいね」
「つまりは、サヤに碌な説明もせずに、ディヴァンとしての絆を
回復させた訳か…卑怯な奴」
「あんたの為だよ。僕を信頼してくれているというのもあるだろうけど、
サヤが深く尋ねもせず、大事な命の半分を差し出してまで、
僕を動かしたのは、あんたの為だ。
あんたを神王なんていう孤独な存在にしない為に。
例え短い時間だとしても、あんたと生きる為に」
アイオンにとってこんな皮肉なことはなかった。
彼の為にと差し出した命が、結果的にサヤと他の男との絆を回復させる
ことになった。彼は、サヤの心を手に入れたし、彼女の夫としての
場所をもまもなく手に入れる。
けれど…
目の前の異種族の青年に対して、完全勝利を収めることはできなかった。
「せいぜい、長生きすれば良い。
80でも、90でも、100でも生きれば良い。
あんたが“生きている限り”、サヤはあんたのものだ。
いくらでも仲良し夫婦をやってくれ。
それでサヤが幸せなら僕は別に構わない」
「お前自身の寿命はどの位ある?」
「純血種なら千年くらい生きられただろうけど。
僕の場合、血が濃いといっても、何代かに渡って人間の血が
混じってしまったからね…普通に生きて300年位かな。
サヤと寿命を分けて、どこかで老化を止めるとして、そうだな…
150年位は保つだろう。
あんたがしぶとく百まで生きたとしても、あと50年、僕とサヤは
一緒に生きられる」
「本当に嫌な奴だな」
そう。サヤの命を半分もらう…シイがしたことは、サヤの命を半分もらう
ことによって彼女の寿命を縮めることではなく、それによって命と命を
繋げて、自分の長寿を彼女に流しこむことであった。
今や二人の命は“ディヴァン”の絆によって一つになり、
長命の者から短命の者へと寿命が流れ込み、均等になった後、
いつかは共に終わりを迎えることになる。
「最後にサヤを得るのは僕だ」
それは残酷な愛情かもしれない。
異種族のシイがした事は、愛する者を人の枠から外す行為であったから。
今はまだ告げるつもりはない。
しかし、いつかはサヤも気付く。
シイをの除いて、愛する者たちが少しずつ自分を置いて逝くことに。
親も夫も、もしかしたら自分の子どもさえ、自分を置いて
逝くかもしれないことに。
その時になってもサヤは、老いることなく、
人の世界では生きにくくなるであろう。
それは確かに、残酷な愛情かもしれなかった。
*** *** *** *** ***
マルモア王都の南に広がる森の中。人と自然の境界に建つ主神殿の中で、
聖界の長である法王と第二枢機卿サヴァイラが小さな丸卓を囲んで
対峙していた。
“神の使者”と呼ばれた第五枢機卿が引き起こした問題…還俗云々も
さることながら、ただ一人の女性と結ばれるためだけに全てを擲つ
という選択は、当然大きな波紋を投げかけた。
出生の秘密を知っていたごく一握りの者たちの中は、将来彼が“神王”に
立つという夢を抱いていた。また、秘密を知らない者でも、
最年少の枢機卿が、いずれは法王に立つと予想していた。
それが、よりによって、である。
まだしも王女が相手であれば良かった。
王女の伴侶であれば、聖界の高位を離れても、俗界の高位で
マルモアの民を導くことができる。
しかし、辺境の一領主が相手では。
イオ自身が「一抜けた!」と叫んだところで、本当は誰も納得しない。
普通ならば。
ところが、法王自身を始め、他の6人の枢機卿全員が誰も表立って
反対しなかった。
しかも、俗界の方で口出しして来そうな女王も王女も沈黙を保った。
何しろ女王は“病気療養”と言いながら現実に復職は不可能な状況
であったし、王女は王女で、崩壊しそうな政権をカレント少将の
助力を借りて辛うじて維持する有り様であった。
副宰相は重傷を負っている上に、この際、アイオンを中央から
追い払いたい意向であった。
そして何といっても、エルミヤ辺境女伯の父親である宰相は、この際、
自分の陣営にアイオンを引き込みたいと考えていた
…政治的な連携強化というよりも思いきり私的な事情、
早く孫が見たいという理由ゆえに。
「主神殿もだいぶ風通しが良くなったようだね」
丸卓の上には二人分、葡萄酒の入った玻璃杯が置かれていた。
本来、マルモアの聖職者は酒も煙草も、その他“嗜好品”と呼ばれるものを
口にしない。教義では清貧であることが尊ばれている。
もっとも、“尊ばれている”だけで“禁止されているわけではない”と解釈する
こともできる。
現に主神殿の倉庫には世界中から集められた贅沢な酒やら珍味やら貴重な
薬材やら香料やらが保管されていた。
別に法王や枢機卿や裏で私腹を肥やそうとしているのでない。
彼らが求めなくとも…勝手に送りつけてくる信者が後を絶たないのだ。
「第五枢機卿に心酔していた狂信者どもが一掃されたからな。
当面、神殿も静かになるだろう…満足か、サヴァイラ?
全てはそなたと望み通りだ」
「数百年ぶりに“神王”が誕生するかもしれないのを邪魔して悪かったね」
法王相手に第二枢機卿はぞんざいな口をきいた。
二人だけの時は自然とそうなる。
なにせ彼女が初めて主神殿に巫女姫として入ってから
…かれこれ半世紀以上の付き合いになるのだ。
「イオなら実に“面白い”神王になっただろうに。
王家も神殿も全てぶち壊して、破壊の中から新しい世界を
創ってくれただろうに…返す返すも残念だ」
法王が夢見ていたのは、“破壊”と“再生”だった。
彼が全てに飽いて全てを終わらせたがっていたことを
サヴァイラは知っていた。
彼女も同じことを考えていたのだ…人生の途中までは。
けれど自分の中に流れる王家の血を通して、
先王の、女王の、サヤの祖父の、サヤの母の、苦しみや哀しみを
知ってしまった。
知りながらも、王家から神殿に“売られた”身であるゆえに、
自分の苦しみや哀しみと闘うのが精いっぱいで、
誰も助けてやらなかったし…やれなかった。
そうやって歳をとって最後にイオや、ソメイやサヤという新しい世代に
触れて、少しだけ心が動いた。殺すのではなく、生かす方向へと。
「猊下はもう用済みだよ。とっとと引退しておくれ」
「全部の責任を私に負わせて、酷い人だな、貴女は」
「イオを引き留められなかったのは猊下の責任だろう?
約束は守ってもらうよ」
でなきゃ消すよ、とサヴァイラは言外に告げる。
法王と第二枢機卿の間にはもう何年も前から
ある約束が取り交わされていた。
現法王の跡を継ぐのは第五枢機卿であるアイオン
…しかしこれが実現しなかった場合、次の法王は。
「マルモア史上初の女法王が誕生するのか。
最後の一人を排除して、自分自身が至高の座に上る。
満足か、サヴァイラ?」
「ああ、満足だとも。
これで猊下が永眠してくれれば、目障りな奴らは一人残らず墓の中だ」
目障りな奴ら、それは主神殿の隠された場所で、“巫女姫”を道具として
扱った汚い連中のことだ。サヴァイラは長い時をかけて、一人また一人と
排除し、復讐を遂げてきた。
巫女姫と崇められながらも、その実、一人の人間として、女性として
扱われなかった。
その彼女が、聖界の長となる…それこそが彼女の願いの果てでもあった。
「女王も副宰相も何とか生き延びてくれたし、
幸せになれるかもしれない。最後に明るい希望が見せてくれたから、
私が思い残すことはもう何もないよ」
「へえ?猊下にしちゃ、珍しい。女王や副宰相の行く末を
心配しているようには思えなかったけどね」
「女王のことはともかく。
これでもカリウドのことはずっと見守っていたんだ。
………当然だろう?私の血を分けた“息子”だからね」
さらりと明かされた真実にサヴァイラは呼吸が止まりそうになった。
妻帯が禁じられている聖職者、もちろん裏事情は異なるが、そ
れでも高位の聖職者が交われる女性は限られている。
法王と副宰相の年齢を辿ってゆくと…。
「まさか、カリウドは…」
「確かに私と貴女の子どもだ。貴女が最後に生んだ子ども。
他ならぬ私自身が取り上げて、さる名家を里親をとして選び、預けた」
サヴァイラが最後に生んだ、40過ぎてからの子ども。
10代、20代の頃なら知らずその時の相手は現・法王だけであった。
とすれば、“父親”というのも間違いはない。
「私はね、サヴァイラ。貴女の子どもが現在何人生き残っていて、何処で
暮していて、そして孫まで何人いるか全部知っているよ。
巫女姫の産んだ子供たちを“処分する”のは私の役目だったからね」
ゆっくりと玻璃の杯をサヴァイラは卓に戻した。
そうしないと手が震えて葡萄酒を零してしまいそうだった。
あるいは思い余って、目の前の男にぶちまけてしまいそうだった。
「…どうする?サヴァイラ。
今なら貴女の知りたい情報を全部教えてあげられる」
私に服従するならね、と法王は言外に告げる。
自分が産んだ子どもたち、抱きしめることも乳を含ますことも、性別すら
碌に確かめることの許されなかった子どもたちの行方が分かる。
その誘惑がサヴァイラの胸を大きく揺さぶった。
けれども。
「だめだよ、猊下。その情報は墓の中に持って行きな。
もうあたしは…“わらわ”は誰にも負けぬ。
そなたの脅しにも誘惑にも負けぬ。
わらわがなるべきは、自分の子らの母ではない。
マルモアの全ての子らの母。
そなたを追い落としても、わらわは法王の座に就く。
そして神殿をわらわなりのやり方で変えて見せる
…二度と、もう二度と“巫女姫”になる者は現れぬ。
わらわで最後だ」
「…仰せの通りに、我が“巫女姫”。
貴女が創る新しい神殿をこの目で見られないことが残念だ」
この時、法王の齢80過ぎ。彼はサヴァイラの手にかかるまでもなく、
自身の寿命が尽きようとしていることを自覚していた。
けれどサヴァイラとて70過ぎだ。
女法王として宗教改革に乗り出せば、残りの命数など忽ち尽きよう。
二人が黄泉の国で再会するのも、
幸か不幸かそう遠い先でもなさそうであった。
*** *** *** *** ***
マルモアの王宮では感傷にひたる暇もなく、宰相が政務に追われていた。
ようやく娘と意思疎通ができるように…なったかどうか分からないが、
お互いに感情を爆発させずに会話が成立するようになったところで、
また暫しのお別れである。
「全部片付けたら一緒にエルミヤに帰りましょう」
そう娘は父に告げた。カヤの心が待つエルミヤへ帰る。
愛する妻が最後に何を遺したのか。
その言葉をアガイルは知りたいと思う。
しかしながら、現実問題として、全部どころか、何も“片付かない”。
どこかの愚かな青年のように何もかもを打ち捨てて、
アガイルが都を離れることなど到底できることではなかった。
まともに動ける人材が余りにも少なすぎるのだ。
女王はもともとお飾りに過ぎず、副宰相は重傷を負って動けず。
次期女王と目される王女も、レン少将にお尻を叩かれ猛勉強中とは
いうものの、実働部隊として数えるにはほど遠い。
国家鎮守を担うべき主神殿は、恋にとち狂った第五枢機卿がもたらした
波紋により、自分たちのことで手一杯という状況だ。
「カナイの様子は?」
女王付きの女官長であったクレアに宰相は短く尋ねた。
彼はもう女王を女王と呼ぶことを止めていた。
「相変わらずカリウド相手に看護師ごっこを楽しんでいらっしゃる
ようです。
先日は、寝具を取り替えようとして、病人を床の上に転がして
しまいましたし、本日は、花瓶の水を取り替えようとして、
絨毯に躓き、ご自分が転がってしまいました…
本当に侍女も侍従も付けなくてよろしいのですか?
あの様子では副宰相はいつまで経っても復帰できません」
治りかけた肋骨その他をカリウド副宰相は繰り返し繰り返し痛めることに
なった。
“カナ”が献身的に世話をすればするほど、なぜかリウの傷は増えてゆく。
王宮深く隔絶された離れの中で元女王と副宰相はほとんど二人きりの
生活を送っている。“外界”との連絡役はクレアだけで、彼女一人が
宰相と副宰相との間を取り持っていた。
「放っておけ。リウのことだ。
どうせあと一週間もすれば意地でも復帰してくる。
自分が守らなければ…正気を失った女など、簡単に“消される”と
分かっているだろうからな」
そう。
宰相にとってもはや女王は用済みの存在だ。
王位交代に反対する者が出てきたら早々に片づけてしまおうと
考えている。
それを阻むために、全てを忘れ去ってもなお愛しい女を守るために
カリウドは出てくるだろう。
(元女王の存命を餌に…せいぜい働いてもらおうか)
カリウドとて宰相が手塩にかけて育てた部下の一人だ。
女の趣味は最悪だと思うが
…“カナ”を得ることで彼がしっかり働いてくれるなら。
そして…それなりに幸せになってくれるなら別に言うことはない。
「王女さまが女王代理に立たれて、表立って不平不満を言う者は
いませんけれど…あれは相当下に見られていますわね」
次の報告は、王女付き侍女長のリイナからであった。
「それはそうだろう。あの王女では、な。
だが、最後の最後で根性だけは見せた。
到底認められる水準ではないが、他に人もいないことだし、仕方ない。
何とか冬を乗り切って、春には正式な譲位を進める。
それまでにカレントが腹を括って、
摂政公に立つ決心をしてくれればよいが…」
「サヤ様に惚れていらっしゃいましたからね。
半年で忘れて王女と結婚しろというのも酷な話ですわ」
新婚一カ月で夫を喪ったリイナはカレントに同情的であった。
「全く、一番まともな男だったのに、みすみす王女に奪われるとは、
娘も見る目がない」
(なぜ、アイオン?よりにもよって一番厄介な男を)
と、父親としては内心苦悩する。
しかも、もう一人の厄介な男…異種族の青年とも何やら切れていない。
サヤがイオと結ばれた後も、シイは側を離れるつもりはないらしい。
「宰相閣下としてはお嬢様を取られたようでお寂しいのでしょう?
わたくし“達”が慰めて差し上げましょうか?」
妖艶な笑みで小首を傾げたのは現財務大臣夫人カトレであった。
つまるところ、サヤが見たら目を剝くだろうが、(元)女王様付女官長に
王女様付侍女長、そして財務大臣夫人と3人の女性が宰相の周りを
取り囲むように一室に留まっていた。
3人とも、先王と女王の心ない命令により愛する伴侶を失った。
そしてまた、3人ともアガイルと深い関係にある者たちである
…かけがえのない者を失った寂しさゆえに。
「そうだな。
この凍てついた心と身体をお前たちで温めて欲しいものだな」
にやりと笑い、アガイルは触手を伸ばす。
要するに、彼は政治家としてのや軍人としての手腕は別として、
人としてはどこまでもダメな男であった。
まだ暫く…王都を離れられない。それは真実であるとともに口実でもある。
彼はまだ向き合えない。
エルミヤに帰って、愛する者の死を認めることができない。
愛する者が彼に対して何を最後に思ったのか知りたいのに、
知るのが怖い。
そうやって未だ、最後の悪あがきをするように、
同じ辛酸を舐めた女たちと共に仮初の時を過ごす。
彼にはもう少し、もう少しだけ時間が必要であった。
だらしない、と彼を叱りとばせる人間は側にいない。
彼に懇々と説教ができる唯一の女性はもはやこの世にいない。
そして、彼と舌戦を繰り広げられる娘にはまた暫く会えない。
来年の春、王女が正式に新たな女王として即位する際には、
当然サヤもエルミヤ辺境女伯として出席を求められる。
しかし、かなりの確率でナナツが代理に立つことになるだろうと
アガイルは踏んでいる。
あのアイオンのことだ。
身重の妻に長旅は無理ですなどと、いけしゃあしゃあと言って寄越すに
違いない。
そうしてみると、宰相がエルミヤに還るのは、孫の顔を見るという新たな
口実を作って後のことになる…そんな模様であった。
*** *** *** *** ***
マルモアの王都から北方辺境のエルミヤに還る。
それは鉄道とバスを乗り継いで2日半。
専用車?豪華客室?そんなもの、あるわけないでしょう。
エルミヤは、び ん ぼ う ですからね!
これから長い冬がやってくるのです。
一人の餓死者も遭難者も出さず、全員無事に春を迎えるのか、
目下の最重要課題。
正式な辺境女伯となった身としては、今まで以上に頑張らねば………!
「って、何なのよ、この客車は!ど、どうして、こんなことが」
サヤは出発を前にして焦っていた。
贅沢は敵だ!など言うつもりはないが、客「室」ではなく客「車」、
それも10車両の内、2車両がエルミヤ辺境女伯の名で
貸し切られていると事実を目の当りにして震撼した。
「こんなお金どこにあるのよ、何てもったいないことを!」
客室内に入ってまた唖然とする。
寝室も浴室も専用の食堂までもある豪華客車…通常、
王室が用いるような特別客車なのだ。
「いや、お金は有る所には有るから。
心配しなくてもウチの懐は傷んでいないし、
遠慮なく甘えさせてもらおうよ」
最後の荷物を運びこみながらシイが飄々として答える。
「ウチのお金じゃないって、どこから?」
「財務大臣夫人がエルミヤ女伯の叙爵祝いにってバーンと出してくれた
らしいよ。 お金や換金できる物でくれない所が、
サーヤの性格を読んでいるね」
「いや、これだって払い戻しできるんじゃない?
大した人数いないのに2両も必要ないでしょう。
もっと安い席に移るか、せめて1両は返しましょうよ」
どこまでも貧乏性な女伯爵様である。
「今、確認してきたんだが、座席の変更は不可だそうだ」
少し固い顔をしてナナツが現われた。
「ほらね、折角の夫人のご厚意なんだから、ここは素直に受け取って
おこうよ。それにこれからイオといちゃいちゃするのに、
僕たちと同じ車両は嫌でしょう?」
警護のことも考え、先頭車両は王都滞在中に随分増えてしまった荷物を
詰め込みつつ、ナナツとシイが使う。次の車両をイオとサヤが使う。
“いちゃいちゃ”という言葉に真っ赤になって固まった辺境女伯を余所に
優秀な部下二人はそんな取り決めをしてしまう。
「イオ、来られるかしら…」
「なに、サヤは来ないと思っているの?」
まもなく出発の時間だというのに、元・枢機卿はまだ現れなかった。
「イオがエルミヤに来てくれることは疑っていない。
でも、こんなに早く…枢機卿を辞めて主神殿を去るのは常識的に
無理だと思う」
「常識的に考えれば、そうだね。でも彼は“非常識の塊”だから」
“非常識の塊”…確かに。
神王になると言ったり、枢機卿を辞めると言ったり、常識では考えられない
行動を取る。この点、愛情はあれど、イオの弁護はできない。
「まぁ、僕としては永久に来てくれなくても良いのだけれど」
「シイ、私はシイにとても残酷なことをしているのではないかしら?
私は、私は…イオを選ぶ。イオを選んだのに、シイにも側に
居て欲しいと思っている。
とても欲張りで…我が儘だと自分で分かっている」
生涯の伴侶として望んだのはアイオンだ。
けれどもシイは、兄のような、弟のような、親友のような、
部下のような、その全部をひっくるめて大事な存在で…
離れたくないというのが正直な気持ちだ。
「サヤ、僕に負い目を感じることはない。
君が誰を選んでも、君は僕の“魂の片割れ”であることに変わりはない。
僕は君の命を半分受け取った。僕たちの間には確かな絆が存在している
…君の一番が僕でないとしても、僕は君から離れたりしないから」
それに最後の息を引き取る時に一緒にいるのは僕だからね…とまでシイは
明かさない。
アイオンを看取った後、永い時を二人で過ごすことになることも
今はまだ明かさない。
結局、サヤを真綿で優しく包みながら、シイは少しも諦めていないのだ。
“最後に彼女を得るのは僕だ”
警笛の音と共に列車がゆっくりを動き出す。
サヤは窓の桟に両肘をついてぼんやりと外を眺めていた。
そこに褐色の肌に銀の短髪をした男の姿がが視界に飛び込びこんでくる。
その姿がどんどん大きくなる。
慌てて立ち上がり、窓を大きく開けた。
涙が溢れて、彼の姿がよく見えない。
「サヤっ!」
イオが両の手の平でサヤの頬を包んだ。
琥珀の瞳がひたと彼女を見据える。
「来たよ」
「うん」
どちらも短い言葉しか出なかった。
思いが溢れて、言葉が上手く出てこないのだ。
シイが苦虫を噛んだ顔をして、黙ったままナナツのいる隣の車両に
移って行った。彼の本当の出番は半世紀以上後だ。
宝物を扱うようにイオはサヤをそうっと抱きしめ、
それから相手が頑丈なことを思い出して、今度はぎっちりと、
もう逃がさないとばかりに抱きしめ直す。
「どこも何ともない?怪我してない?」
「大丈夫だ」
真実は、主神殿にて、
「どうしても行くというなら私の屍を乗り越えて行きなさい」だの、
「見捨てられるくらいなら、貴方を殺めて、ここに聖人として
祀ってあげます」だの、
イカれた神官や巫女たちに身体を張って引き留められ、
死闘に近い状態になった。
そのため、粗末な長衣の下はあちこち負傷しているのだが、
それをサヤに告げるつもりはない。
長い抱擁を一先ず終えた後、イオは身を翻し、順々に窓布を
下ろして行った。それをサヤが怪訝そうに見守る。
まだ昼間なのに。それほど日差しは眩しくないのに。
「イオ?客室が暗くなっちゃうよ?」
「私は明るくても良いけど、サヤが恥ずかしいだろ?」
「?景色が楽しめないよ?」
「?景色を楽しむつもりか?」
………どうも会話がかみ合わない。
「ほら、サヤ、おいで」
おいでって言われましても。
何で長椅子を倒して簡易寝台作っているんですか。
「え~と、イオ、お疲れなんですか?これから昼寝ですか?」
もしかしてお邪魔ですか私、と言いかけたところで、問答無用で
腕を取られ、二人して簡易寝台に倒れ込むことになる。
琥珀の瞳が間近に迫って、自然とサヤの呼吸が早くなる。
「新婚旅行だろ、これ」
「ええっ?まだ結婚していませんよ!」
既に契りを交わしてはいても、正式な結婚はやはりエルミヤに帰還して
からだ。
「じゃあ、婚前旅行ということで」
「ちょ、ちょっと、まだ昼間ですよ!」
何やらやたらと積極的なアイオンである。聖職者をすぱっと辞めて、
今までの戒律もろもろがボロボロと剥がれ落ちたらしい。
「婿にしてくれるのだろう?バーンと養ってくれるとも言っていたな。
早くサヤを食べさせてくれ。サヤに飢えてどうにかなりそうなんだ」
いや、養うって、なんか意味が違うんですけど、
などと釈明する時間もなく。
自分のために全てを擲ってくれた、この人を幸せにしたいという気持ちで
一杯になる。
しかし、シイ曰く“いちゃいちゃする”前に話しておかなければならない
ことがある。
「イオ、あのね、私もしかしたら…」
長く生きられないかもしれない。
そう言おうとした唇はイオのそれで封じられた。
「シイから全部聞いているから、何も言わなくて良い。
責めるつもりはない」
サヤは自分が先に逝くと思っている。
事実はその逆で、先に逝くのはイオの方だ。
けれども、それを告げるつもりはない。誤解させたままで、構わない。
「だからこそ時間が惜しい。君と過ごす一瞬一一瞬を大切にしたい」
イオがそう言えば、サヤは抗えない。
シイの強かさに勝るとも劣らない。
イオもちゃっかりサヤの優しさにつけこんでいた。
いずれ奪われるかもしれない…けれども、イオが生きている限り、
サヤはイオのものだ。
(どこまでもしぶとく長生きして、奴の出番を少しでも減らしてやる!)
よぼよぼの年寄りになっても愛妻にしがみつく自分が、
イオには想像できるようであった。
そうして、辺境伯代理からめでたく正式な辺境伯となったサヤを乗せた
列車が、エルミヤ領に入った時、一行は割れんばかりの歓声で
迎えられることになる。
先の女伯であったサヤの母を知っていた者たちは感無量で自分たちの
新しい女伯を出迎えた。
凍てつく長い冬も彼女と一緒なら大丈夫だとエルミヤの民は信じている。
そして意外なことに、元・枢機卿のアイオンもエルミヤの民から
熱烈歓迎された。
もとよりエルミヤ教区の神殿管区長を務めていた第五枢機卿の存在は
広く知られていたし、“神の使者”としての名声は辺境でも健在であった。
しかし、今や(少なくとも表向きは)無職・無一文の男である。
その彼が女伯の婿になるとは…どんな反応が返ってくるかといえば、
結果的に大円団となった。
何となれば、全てを捨てて自分たちの主を選んだということで、
エルミヤの民からしっかり高得点を稼いだのである。
“神の使者”と呼ばれた青年はマルモア主神を模したような姿をしていた。
その出生は秘密とされたがマルモア王家の血を最も濃く引いた者である。
その彼が聖界に背を向け、辺境の一領主のために俗界へと降る。
彼はニ度と神職に就くこともなく、官職を得ることもなかった。
人間としては随分と長生きし、
ずっと妻である北方辺境女伯を支え続けた。
エルミヤ辺境伯家は母カヤと娘サヤの2代で終わりを告げる。
アイオンとサヤの間には3男2女が生まれたが、誰も家を継がなかった。
不思議なことに、
カヤとアガイルの墓は後世に遺され、エルミヤ名所の一つとなったが
サヤとアイオンの墓は何故か後世に伝えられなかった。
時が過ぎてしまえば、それはもはや歴史の一粒。
エルミヤの遠い過去の一粒である。
完結しました。
ここまでお読みくださった皆様、ありがとうございました!!!
いずれ、本篇で取り上げられなかった「宰相さまのエルミヤ帰還」と
「マルモアの新女王さま」という余話を投稿します…ええ、いずれ。
よ、良かった、GW中に完結できた(と、雪柳、自己満足)。




