七粒と三片
まさかの副宰相視点から始まります。
サヤが「可哀そうな子」でなくっています。どっちかと言うと「悪い子」?
それから王女さまが、王女さまがぁあああ。
薄闇に目覚めた時、目覚めない方が良かったと思うほどの激痛が全身を襲った。
呻き声を上げることもできず、呼吸が苦しくて音を紡ぐことすらままならない。
武官時代は随分危ない橋を渡ったものだが、これほど重傷を負うのは初めてだ。
だが…生きている。
死を覚悟した。あの方と共に逝けるなら、それも良いかと思っていた。
むしろ、あの方と共に逝けるなら、それこそ幸せと思っていたのだが。
「僕としては、女王と二人まとめて、地獄に叩きこんでやりたかったんだけどね」
声のする方向に顔を向けるも相手の姿がよく見えない。
どうやら頭と顔半分に包帯が巻かれているようで、視界が遮られる。
もっとも、確かめずとも声の主は認識できた。
忌々しい異種族。エルミヤ辺境女伯の腰巾着である男に違いない。
「…陛下はご無事か?」
気に喰わないが、他に人もいないのようでは、こいつに尋ねるしかない。
「あんたが、それだけ満身創痍で庇ったんだ。大した外傷もなく生きているよ」
その答えに安堵する。それどころか、感極まって泣きたくなった。
あの方が生きている。同じ世界に生きてくれている…それだけで十分だ。
「あんたの下僕根性も相当だな」
どこが良いんだ、あんな女と呟く声が聞こえる。
そっくり同じ台詞を返してやりたい。エルミヤ女伯の一体どこが良いんだ。
「なぜ、助けた?」
それが不思議で仕方ない。俺に獄中でどんな拷問を受けたか忘れた訳ではあるまい。
女王陛下に引き摺られるようにして空中に放り出された時、一瞬、ほんの一瞬だが、
下から吹き上げる強風に晒され、加速が止まった。
そんなに都合良く向かい風が吹くはずがなく、そうなると考えられるのは人外の力を
持つ男の仕業だ。
「個人的には死んでくれた方がせいせいするんだけどね。
マルモアが混乱してエルミヤに被害が及ぶのは困るんだよ」
どこまでも御主人様大事らしい。
「だがこの有り様では…」
即死は免れたものの、自分で寝返りを打つことすらできない状態だ。
重い障害が残れば、今までのように国政に携われるかどうか。
「自分で身の回りの事が出来るようになるまで約一ヶ月。完治まで三ヶ月。
だけど、感謝して欲しいな。きちんと治療すれば障害は残らないよ」
「全く、ありがたいことだ」
もちろん皮肉である。
シイが本気を出せば無傷…は難しくとも、もっと軽傷で助けることもできたに違いない。
それをしなかったのは、もちろんカリウドにとことん苦痛を与えたかったからであろう。
自分で確かめられるだけでも、肋骨が何本かと右の上腕骨と脛骨が折れている。
頭部も強打し、相当出血した様子だ。
どこもかしも痛むが、とりわけ右の眉から瞼にかけてが熱を持っていてズキズキする
…そういえば、地面に叩きつけられた直後、何かが瞼に突き刺さり、その苦痛を最後に
意識を失ったのだった。
「これは返してもらうよ」
視界の利きにくくなっているリウの鼻先に突き付けられたのは、虹白石と瑪瑙の髪飾り。
その意匠には見覚えがあった。
「音楽会の時の…」
まだ代理身分であったエルミヤ辺境女伯が女王陛下に捧げた品。
なぜ女王がよりにもよってその髪飾りを身に付けていたのか謎だが。
女王が無意識の内にエルミヤを屈服させようとしていたのかもしれないし、女
官長あたりの差し金だったのかもしれない。
「失明は免れたみたいで…残念だよ」
だが、完治しても瞼の傷は残るだろう。シイの尖った片耳の先が失われたように。
そうしてリウとシイは互いは互いの罪を知る。
「俺を生かしておけば後悔するぞ」
二人の、ほとんど殺意に近い憎悪は少しも薄らぐことはない。
「あんたがそのボロボロの身体で、女王と王国をどうやって守るのか、
せいぜい高みの見物を決め込ませてもらうよ」
「俺も哀れな負け犬の末路を見物させてもらう。知っているか?
お前の大事な大事な御主人様はアイオンを選んだぞ」
女王、宰相、副宰相と居並ぶ中、大胆不敵にも妻帯禁止の高位聖職者、
それも“神の使者”として次代の法王に最も近い地位にいた男に求婚。
その行為も信じがたいが、それを受諾して今まで築き上げた全てを擲った男は
もっと信じがたい。あの娘のどこにそうまでする価値があるのか…永遠の謎である。
その一方で、世の中の常識をものともせず、あらゆるしがらみを乗り越えて結ばれる
アイオンとサヤを見てカリウドは酷く羨ましくなった。
女王への愛と忠誠なら誰にも負けない。けれど彼は最初に間違ってしまった。
そう、宰相の身代わりとして夜に侍るなど…卑怯な行為で相手も自分も騙した。
「あんたと傷の舐め合いなんて真っ平だ。大体、僕は負け犬になったつもりはない。
サヤが誰を夫に据えようが関係ない。彼女は僕の魂の片割れ(ディヴァン)だ。
馬鹿な人間には分からないだろうが、最終的にサヤの全てを手に入れるのは僕だ」
それは全く負け惜しみではなく、確たる自信に裏打ちされているようであった。
これまたカリウドにとっては酷く羨ましい。妬ましい。憎らしい。
「さて、僕は行くよ。サヤが待っている」
「おい」
まだ尋ねたいことはあったが、シイは窓から部屋を出て行ってしまった。
ほとんど入れ違うように扉が開く音が聞こえる。
「お目覚めになったのですか?」
その声にカリウドは反射的に身を起こそうとし、激痛で寝台に沈む羽目になる。
「安静になさっていなければ」
慌てて近付く小さな足音。視界が利かないのがもどかしい。
顔の半分以上に掛かっている包帯を払いのけたかったが、腕が動かせない。
「こちらを召し上がって。痛み止めの入った薬湯です。
冷ましてありますが、一口ずつ、ゆっくりとどうぞ」
そう言いながら首筋に優しく手を添えられ、吸い口がひび割れた唇に当てられる。
その甘美なる声、しなやかな指先。彼が命を賭して愛する女性のものだ。
それは間違いないない。間違うはず、ない。それにもかかわらず、彼は戸惑った。
今まで昼となく夜となく女王に尽くしてきた。
その一方で、女王から何かをしてもらうということは…ほぼ皆無であった気がする。
「陛下…?」
薬湯を飲む合間に恐る恐る呼びかけてみる。
相手は応じない。ただ首に添えられた手だけがひんやりとして心地良い。
自分は何かの夢を見ているのだろうか。これは傷や熱が見せる幻なのか。
吸い口が空になると、ふっとその女性の気配が遠ざかった。
「待ってください!」
慌ててカリウドは叫ぶ。叫んだつもりだが、呼吸が苦しくて、思った半分も声が
出せない。おまけに胸の痛みでのたうつことになった。
「ごめんなさい」
愛しい気配が再び近付いて、包帯越しにカリウドの腕にそっと触れる。
手を伸ばしたいのに、抱きしめてその存在を確かめたいのに、動けないのがもどかしい。
「貴女が…よく見えない。どうかもっと側に」
おずおずという風にカリウドの限られた視界で影が揺れた。
それを追うだけで目眩がしてくる。
やがて、かろうじて捉えた姿はやはり彼が愛した女王のものであった。
彼を見つめる彼女の瞳は今にも零れ落ちそうなほどの涙を湛えている。
それに…どうしたことだろう。女王とも思えぬ質素な身なりだ。
「ごめんなさい」
もう一度彼女は謝って、震える唇で言葉を紡いだ。
「わたくしを庇って、こんな大怪我を負ったのでしょう?
本当に…お詫びのしようもないわ」
何かがおかしい。
リウはもちろん女王の異変に直ぐに気付いた。
彼の知る彼女は女王とし“"守られて当然”という御方だった。
女王さまが謝罪など、あってはならない。
「分からないの」
続く言葉は副宰相に衝撃を与えた。
「自分のことも、貴方のことも何一つ。
ここがどこなのかも、何が起こったのかも分からない」
そうして彼女に接する誰もが、丁寧ではあるけれど、彼女を遠巻きにするだけで
何一つ説明してくれないのだと言う。
カリウドは大きく息をのんだ。誰もが、説明しないのではなく、できないのだろう。
これまでの記憶を手放した彼女に「貴女は女王です。さあ、国を治めてください」とは
誰も言えまい。
「私のことも何一つ…?」
「ええ。わたくし達は恋…近しい間柄だったのかしら?」
恋人ではないけれど、数え切れないほど夜を共にした仲です、などと正直に
打ち明けられるはずもない。
その代わり。
「愛しています」
エルミヤ辺境女伯に少なからず感化されたか。
自分でも驚くほど直球の言葉が副宰相の口を付いて出てきた。
「えっ?それは…わたくしも貴方のことを?」
「その答えはご自分で探してください。何もかも忘れた貴女とはもう一度最初から
始めなくてはなりません。先ずは自己紹介です。私はカリウドと申します。
どうぞリウとお呼びください」
もう役職名で呼ばれるのも、別の男の名前で呼ばれるのも沢山だった。
「でも、わたくし、名乗っていただいても、お返しできる名前がありません」
「貴女の名はカナイです」
「カナイ…?では、カナとお呼びください」
「カナ…?」
「だって親しい者同士は名前を短くして呼び合うのが習わしでしょう?」
「親しい者同士…」
くしゃりとリウの顔が歪む。
次の瞬間、大粒の涙が彼の覆われていない方の眼から零れ落ちた。
「どうし…ど、どこか痛むのですか?」
「いえ、いえ、大丈夫です…」
そう答えながら、酷く咳き込む。折れた肋骨もさることながら、胸よりも心が痛い。
“優しい女王さま”を喪った哀しみと“カナ”を得ることができるかもしれないという喜び。
カリウドの涙は止まらない。
「わたくしに看病させてくださいね。必ずや、貴方を元通りに回復させて見せますわ」
カナイは何も分からぬ不安と孤独を抱えながらも、身の内に湧き上がる力を感じた。
この人のために何かしたい、と。その気持ちが不思議と彼女に生きる勇気を与えてくれる。
何も覚えてはいないが…たぶん、自分はたくさんのことを間違えた。
罪深い人間なのだろう。死をもって償うべき人間なのかもしれない。
けれども、何の因果か彼女は生き長らえた。
そうであるならば。
彼女を愛し、必要としてくれる、この人がいる限り、
生きることを捨てるまい、と決心する。
愚かな男と愚かな女の行く末はまだ定かではない。
ただ二人は互いに寄り添って生きることを決めた。
*** *** *** *** ***
後の事は全て、この国の実権を握る宰相閣下にお任せし、エルミヤ辺境女伯は
すたこらさっさと故郷への帰途に着いた、となれば良かったのでございますが!
愛する男と手に手をとってエルミヤへ帰還、となれば良かったのでございますが!
サヤはまだマルモア王都から動けずにいた。それも、王宮から動けずにいた。
「ちょっと身辺整理してくるから」
女王と副宰相が命を取り留めた直後、部屋の掃除をする位の軽い調子で、アイオンが
しばしサヤの元を離れ主神殿に戻っていった。実の母親である女王のことも半分は
血の繋がっているはずの王女のことも我関知せず、という、いっそ清々しいまでの
切り捨て方であった。その一方で、サヤには「直ぐに戻るから、一緒にエルミヤに帰ろう」
と囁き、かなり濃厚な口付けを残してゆくことも忘れない。
しからば私も荷造りをと、さくっと王宮から逃亡しようとしたサヤに、
宰相閣下が杖で足払いをかけ、見事床にすっ転ばした。
不意を食らって鼻の頭をぶつけたサヤはもちろん加害者たる父親を睨み付けた。
しかし、人生経験において辺境女伯たる娘はまだまだ宰相たる父親の足元にも及ばない。
「手伝え」
「何でよっ!」
「この手では筆が持てん。
大体、宰相である父親が大変な時に、愛人を連れてさっさと帰郷するとは何事だ」
「辺境伯は中央政治には関わらないんです」
「非常事態だ。宰相たる私が命ずる。きりきり働け」
「ご存知でしょうけど、エルミヤはび・ん・ぼ・う、ですので。
さっさと帰って、総出で冬支度しないと大変なんです!」
「俺が何年、エルミヤの都代理をやっていたと思っている。
エルミヤがド貧乏なのは知っている。それはもう領主自ら赤字財政補填のために
内職に勤しむほどにな」
「だったら…!」
「あんまり俺を舐めるなよ。エルミヤの状況はよく分かっていると言っただろう?
辺境女伯があと1週間かそこいら王都に滞在しても大事ないだろうが」
これにはサヤも黙らざるを得なかった。
一体どれだけ密偵を送り込んで情勢を把握しているのか定かではないが、
サヤが出立しなければならないギリギリの時機をしっかり見抜かれている。
「心配しなくとも、エルミヤで本格冬籠もりになれば、イオと子作りする時間は
たっぷりあるだろう?」
「そんな心配してませんっ!」
「何度も言ったが、俺は早く孫の顔たみたい。
ゆえにイオが神殿から足抜けするのに協力してやる。あ、最初にカヤ似の娘を希望。
孫は最低でも5人。できたら年子で10人位、ガンバレ」
「勝手なことばっかり、言ってんじゃないわよ!」
もうやだ、この親爺。前から毒舌家で傲慢な人物だったが…なんだか、性悪に
拍車がかかっている。しかも希望する孫の数が段々に増えているような。
しかし、逃亡に失敗したサヤはそれから数日泣く泣く父親の下働きをする羽目になる。
「あの、でも、ですね。このご時勢、辺境伯の世襲を続ける必要もないですし、
宰相位は元より世襲するものではありませんし…家の存続のために、それほど
躍起になる必要はないのでは?」
仕事の合間に一応の反撃は試みる。
サヤとて、イオの子どもは欲しい。
けれども寿命の半分をシイに差し出した今、自分がそれほど長生きできないとすると
…辺境伯として少しでもエルミヤの次代を安定させたいと考えてしまう。
「は?家の存続?そんなもんは建前だ、建前」
「は?」
サヤの悲壮な決意とは裏腹に宰相は無神経な要求を突き付けた。
「要は俺が孫たちと遊びたいんだ」
そうして、阿呆な父親は母親から聞いたという“ジジババ特権”なるものを
得意げに、滔々と娘に語りだす。
ちなみのその間、自分は両手を火傷しているということで動かず、サヤだけに膨大な通達を
筆写させている。
「…レン少将の所に届けものして来ます」
宰相の亡き妻への果てしない愛情をようやく認める気にはなったものの、親子の距離は
中々埋まらない。憮然とした顔でサヤは宰相の執務室を出た。
王宮に寝泊まりして早3日。
父親の思考回路を理解するのはまだまだ難しく…というか理解したくない。めんどい。
「サヤ」
手すりを乗り越えて、中庭から走り寄ったのは、シイであった。
再会した時は互いに相手を触りまくって…イオが外していて何よりだった…
無事を確かめたものだ。
異種族のシイが人外の力を振るうといっても、それが彼の身体にどれほどの負担を
強いるものなのか、サヤには想像できなかった。
彼女の命を半分投じたといってもそれで足りたのかどうか、シイの身に危険が
なかったのか…分からないから不安になる。
サヤの心配を余所に、少なくとも外見上はシイに変わったところは見当たらなかった。
一方でシイの方は、サヤを一目見た途端、盛大に怒り始めた。
腕の中に囲った辺境女伯に対してではない。散々迷惑をかけたくせにちゃっかり
エルミヤに婿入りしようとしているアイオンに対してだ。
「あの野郎、役立たずの大馬鹿野郎っ!僕の(丹精こめたサヤの)髪がっ!」
と、サヤの短く不揃いになった髪を嘆き、その全ての責任をイオに被せて糾弾する。
(いや、髪ぐらい気にしないし)
と、こっそり思うものの口には出せないサヤである。
彼女の従者として、毎朝毎晩丁寧に櫛削ってくれていたのがシイだったからだ。
そうして、綺麗に髪を切りそろえてくれたのもやっぱりシイだった。
「それで副宰相の容態は?」
周囲に人影がないことを確かめ、シイの少しだけ尖った片耳に囁くように尋ねる。
女王さまと副宰相は現在、王宮内の離れに「療養」と称しては、ほぼ軟禁状態に
置かれていた。宰相手下の先鋭部隊に警護、という名の監視をさせ、建物内の
使用人も女官長ほかごくごく少数に留められていた。
「副宰相が覚醒して、女王さまと仲良く“自己紹介”し合っていたよ」
「…そう」
女王さまが記憶を失ったと聞いた時、サヤはあまりにご都合主義な展開に腹が立った。
結局、あの人の優しさは誰に対しても見せかけだけのもので、王妃であった時も女
王であった時も誰も幸せにしなかった。挙げ句にあの女は全ての現実から逃げた。
一方で、“死ねば良いのに”とまでは思えなかった。それはたぶん…女王さまが心を
壊すほど焦がれて、焦がれて、手に入らなかったもの…宰相の心が、ずっとサヤの母に
あったことを知ってしまったかもしれない。
ゆえにベランダの手すりを超えて女王と副宰相の姿が闇に飲まれた時、心の中で
“もしかしたらどうにかできるかもしれない”唯一の存在…シイに願ってしまったのだ。
彼らを助けて、と。
「副宰相の看護を女王…元女王?がやるみたいだ」
「へえ…?」
副宰相からしてみると最高の待遇ではないだろうか。
シイがよく妨害もせずに許したな、と思う。
副宰相の、女王さまに対する報われない愛は同情の余地が“ちょっぴりは”あるにせよ、
シイもサヤも彼には非道い目にあっている。とてもではないが、副宰相と女王さまの
幸せな未来なぞ祈ってやる心境にはない。
「ふっ、半月もしない内に職場復帰してくると思うよ、副宰相」
シイが意地の悪い顔をした。
「さすがに副宰相もそこまで早くは…」
完治まで3ヵ月と聞いている。それに女王さまに看護されたなら、政務に戻りたくなくて、
ずるずる療養を続けそうではないか。
「自尊心強いからな、あいつ。骨の髄まで下僕体質で尽くすことに慣れていても、
尽くされることには慣れていない。看護なんてやった事のない、記憶喪失女なんて
危なっかしくて見ていられなくなるだろう」
シイの“遠目”には、水差しと薬包が乗ったお盆を副宰相の寝台の上で見事にひっくり
返す女の姿が映っていた。薬一つでこれでは、その後、食事の介護はどうなることやら。
熱いスープをそのまま口の中に押し付けたり、パンの塊をねじ込んだりするのがおちだ。
「シイ…?」
サヤが訝しむ。
シイは楽しみを独り占めせず、今後起こるであろう展開を予想してみせた。
曰わく、女王に対しては被虐的嗜好のあるカリウドのことだ。
下手くそな看護をやられても基本ニコニコ応じるだろう。
だが、例えば着替えや清拭となれば。
「じょ…カナっ!いいです、着替えは結構です、自分でやりますから」
激しく動揺するリウ。
抵抗するも、碌に動けないため、あっと言う間に夜着を剥ぎ取られる。
「ダメです!こんなに汗だくなのに。大の男が何を恥ずかしがっていらっしゃるの」
尚も抵抗するも、下履きまで奪われ、カリウドの忠臣としての誇りは粉砕される。
変な姿勢で身体を左右に捻ったせいで激痛が波のように押し寄せる。
せっかく接合しかけた肋骨がまたも乖離したかもしれない。
「じょお…カナ!あっつ、あ~!」
自分でも怪しいと思う声を上げてしまうのは、看護人がよく確認もしないで熱々の
タオルを副宰相に当ててしまったからだ。
「貴女がそんなことをする必要は!誰か侍女か女官を。いや、私の部下を…あ、あっ」
「貴方の看護は私に任されているのよ。さあ、包帯を避けて脚の方も拭くわよ」
想像だにしなかったことだろう。
元?女王さまの御手に翻弄されて、自分が喘ぐことになるなど。
羞恥で死ねる、と思えるほどに違いない。
そして、こんな生き地獄を用意した人物をリウは察するはずだ。
何しろ寝室の窓からは常に数羽の小鳥が彼の方を伺っているのだから。
シイの“実況中継”にサヤはお腹の皮を捩った。
あの女王さまが看護士の真似事というのも面白いが、副宰相が不自由な身体で慌て
ふためく様が思い浮かんで、実に笑える。
「身体拭いてもらう位で、あんなに取り乱すようなら、
お手洗いの時なんかどうなるんだろうね」
シイはどこまでもどこまでも意地が悪い。
「流石に女王さまの細腕で、副宰相を支えて厠まで運ぶのは無理よ」
「だから、ちゃんと寝台の下に尿瓶を用意しておいたよ。
貴人用の青磁でできたそれはそれは豪華な壺を」
「………」「………」
二人はしばし無言で見つめ合い、その後、同時に吹き出した。
「我慢し過ぎて別の病気にならないと良いけどね」
もちろん副宰相さまの大腸や泌尿器が損なわれてもシイは一向に構わなかった。
「随分と素敵な“精神修養場”を提供したものね」
せいぜい女王さまに泣かされればいい。サヤもにんまりと黒い笑みを浮かべた。
第二枢機卿あたりが見たら、「どっちが悪党だか分からないねぇ」と呆れそうだ。
ちなみに副宰相邸から訪れた家人も副宰相直属の部下も王宮の離れには立ち入りを
許されなかった。副宰相邸からは治療費名目でかなりまとまった金額が王宮に届けられた
のだが、宰相を味方に付けたサヤによって横流しされ…副宰相の密命によって破壊された
エルミヤ出張所の修繕に充てられたのだった。
「じょお…カナ、窓布を引いて下さいっ!」
「どうして?良いお天気なのに。それにここは3階よ。誰も覗いたりしないわ」
「小鳥たちが見ています!」
「まあ、リウ。今時、そんな乙女なこと、若い娘だって言わないわよ?」
おほほと鷹揚に笑う女性を前に副宰相の受難はまだ始まったばかりである。
*** *** *** *** ***
ふわふわと心地良い。
守られて愛されて、とっても幸せ。いつも側に居て助けてくれるから。
どんな困難も乗り越えられる。もう一人じゃないから。
「おいっ居眠りしてんじゃねぇ!」
パアンと音がして、頭に軽く痛みが走った。
誰かに叩かれたようだ…あり得ない。あり得なくない?わたくしを誰だと!
「俺だけ働かせて自分は昼寝とは良い根性しているな。何様のつもりだ?」
鬼だ。目の前に金髪の鬼がいる。その手には丸められた通達が。
あれで叩かれたのか。
「ああ?返事もしないつもりか?」
「……よ」
「聞こえねぇよ」
「何様って、わたくしは王女よっ!」
畏れ慄いてひれ伏しなさい。あんたなんかよりずううっと偉いのよ。
しかもお母様が長期の病気療養に入られたから、今や女王代理よ。
マルモアの実質頂点に立つのがこの私よ!
…と胸を張って言えればどんなに良いかしら。
「その吹けば飛ぶような王位を守ってやってんだろ。俺に感謝したらキリキリ働け」
バン。
大きな音と共に机には新たな書状が積み上がる。
首と肩が凝り固まって辛い。目も霞むし、脚は絶対浮腫んでいるに違いない。
なのに目の前の鬼はちっとも仕事の手を緩めてくれない。
それどころか、こちらが処理し終わる前に新しいものを寄越してくる。
優しくしてくれない。ちっとも誉めてくれない。ちっとも笑ってくれない。
目を血走らせて、怒鳴って…鬼だ。わたくしの執務室が鬼の棲家になった。
名家のご子息で、都でも5指に入る人気者だったはず、なのに!どうしてこうなった。
やっぱり宰相の腹心の部下というだけある…根っこの所ではよく似ていたのだ。
「お~い、おソメっ、手が止まってる。昼から謁見だぞ。飯食う時間なくなるぞ」
わたくしの名前はソメイだ。
確かに、名前で呼んでって頼んだけれど、おソメって、おソメって、どこのお婆ちゃんよ!
王印は純金製でやたらに重い。片手で持ち上げるのはまず無理で、両手でやっとだ。
所定の位置に綺麗に押すのも結構難しい。
御名御璽を急いで失敗すると料紙を何枚無駄にする気かと怒られ、丁寧にやってると遅いと
怒られる。
「失礼いたします」
侍女頭に案内され、しずしずと入室して来たのは、王女の天敵ともいえる人物だった。
「宰相さまからのお届け物に参りました」
「サーヤ」
レン少将が慌てて立ち上がり、エルミヤ女伯から重そうな荷物を受け取る。
彼の彼女を見つめる眼差しが甘い。彼の彼女の名を呼ぶ声が甘い。
…王女の胸が痛んだ。
「ごきげんよう」
貴女なんてお呼びでないわ、とっとと下がりなさい、と言えれば良いのに。
けれど今の王女の立場ではどうしたって無理であった。
女伯はともかく、その父親である宰相を敵に回したらひとたまりもない。
それに女伯を攻撃したら、レンを…唯一の“味方”を失ってしまうかもしれない。
「ごきげんよう、王女さま。お顔の腫れが引いて良かったですね」
「……っ!」
嫌みな女、嫌な女。なんでアイオンもカレントもこんな女が好きなのか。
そう、ちょっと前まで王女は左頬をぷっくりと腫らしていた。
王女だけではない、レンも同じく左頬をひどく腫らしていた。
「あの夜」何があったかなど、王女は誰にも話してない。
レンだって誰にも話してないだろう。
途中経過はどうであれ、王女は“一応”レンを“手に入れ”、その目的を達した。
暫くは女王代理、いずれは女王になる王女を少将は支えてくれるという。
王女と少将の二人だけが知る「あの夜」。
「この馬鹿っ!」
目覚めたレンは王女の顔をひっぱたいた。
歯も折れず、顎も砕けなかったから、武官としては随分と手加減したのだろうが、
痛みと哀しみで王女はボロボロと涙を零した。
怒りのこもった双眸でねめつけられ、恥ずかしさと情けなさとで、逃げたく思っても
自分でなった全裸の姿。解いた髪で顔を隠すことしかできなかった。
「詰めが甘いんだよ、お前は!」
てっきり卑劣な手段を使おうとしたことを詰られるかと覚悟していたのだが。
少将が怒ったのは別の理由だった。
「どんなことをしても欲しいというなら、躊躇うな。
女王になると決めたなら、俺をとことん利用し尽くすくらいの根性がなければ
務まらん。媚薬で毒薬も…“女”を使うことも覚悟しろ。
それができないくらいなら、王位継承なぞ端から無理だ。諦めろ」
裸身の王女と傍らに置かれた薬剤。レンは目覚めるや直ちに状況を察した。
その上で、王女の企てではなく、王女の弱気を諌める。
そう、結局王女はレンを誘惑することなどできやしなかったのだ。
なによ、なによ、なによっ…!
「なるわよ。どんな手段をとっても女王になってみせるわ。
誰にも王位は渡さない。お母様の後を継ぐのはこの私よ!」
レン少将の冷酷な態度に王女は大いに憤慨した。
「先王と女王の血を引く嫡流の王子がいるのに?
無実の罪に陥れられた正当な王位継承者の孫娘がいるのに?
お前が彼らを抑え込んで王位を主張できる根拠があるのか?」
アイオンにサヤ。二人の存在が王女の前に立ちふさがる。
アイオンの血統は秘されてきたが、ひとたび明るみに出てれば最強となる。
神殿勢力をも味方に付け、神王座すら狙うことが可能なほどに。
サヤはサヤで現王家に不満を持つ勢力の旗印になりうる。
何より父親である宰相が本気になれば国軍の大半を動かす力を持つ。
…また、アイオンのサヤへの恋情を思えば二勢力は結託するかもしれない。
その程度のことは王女にも推測できた。
だが、圧倒的劣勢に立たされたとしてもなお、譲れぬものはあるのだ。
「アイオンはダメよ。神王はもちろん、国王としても有り得ないわ。
彼は…サヤしか見ていない。平凡で幸せな家庭を夢見るだけの阿呆な男に国主が
務まるはず、ない。
サヤもダメだわ。彼女はエルミヤしか見ていないもの。エルミヤさえ守れれば
王国は別にどうなっても構わないと考えている。二人には任せられない。
マルモアの次代を守る責務は私が負う」
如何に重荷であろうとも。例え命を奪われることがあろうとも。
「お前」
絶句するレンに王女は…生まれて初めて殿方に対して拳骨を見舞った。
先ほど受けた平手への報復措置なのだが、少将が相当手加減したのに比べ、
こちらは全力を出した。か弱い姫君のはず、だが、衝撃をもろに受け止めたレンは
数刻視界が闇色に染まった。
「分かっているわ。綺麗事だけでは済まないくらい。
でも、貴方を…貴方だけは利用したくないと思ってしまったんだもの。
これからの困難に巻き込みたくないと思ってしまったんだものっ!」
女王として自分が立つためには、この男の力が必要だ。
なり振り構ってなどいられない。分かっている、分かってはいるけれど!
それは王女にとって初めての感情。愛だの恋だのというにはずっと未熟な想い。
自分がしてもらうのではなく相手にしてあげたいという想い。
ただただ大切で守りたいという想い。
呆れながら怒りながら、それでも自分の手を離さないで、これまでを共に歩んで
くれた、たった一人への。
止まっていた涙がまた溢れだし、ポタポタとシーツに染みを作り始めた。
「俺が愛しているのはサヤだ。お前の面倒を見るのは敬愛する義兄上の遺言だからだ」
「わ、分かっているわよ」
見捨てられる。今度こそ本当に。王女は最終通告を覚悟した。
「だが、王位への心意気は一応、認めてやる…もの凄く不本意だが、仕方ない」
「え…?」
言われた意味が分からない。
仕方ない…?
「イオは問題外だし、サヤにもその気がない。やはりお前しかいないのか」
義兄には女王と王女の治世を支えてくれとさんざん頼まれたしな、とレンは
不機嫌そうにブツブツと呟く。
残り物のような言われ方に引っかからないわけではないが。
「レン…?」
まだ希望はある…の?
「取りあえず、その胸と尻をしまえ。風邪を引くぞ」
「なっ…!」
酷い云われようだ。しかし、そこで王女はようやく己のはしたない有り様を自覚し、
恥いって夜着に袖を通した。
「気長に待ってやるから、いつか、この俺がたまには“仕えて良かった”と思える
ような女王になれよ」
「は、はいっ!」
気長に付き合ってくれるんだ。一緒に居てくれるんだ。王女の胸が熱くなった。
もっとも。
レンの「気長に」には「超絶厳格教育を施しながら」という条件が付随していた。
有り体に言うと、カレント少将はその時から王女の「鬼」教官になった。
我が儘で傲慢な王女を鍛え直す…そこに恋人に対するような甘さは微塵もない。
そうして女王の記憶喪失と副宰相の重傷を知った時、王女はさしたる動揺を見せず、
「女王代理として、わたくしが立つわ」
と宰相、第五枢機卿、エルミヤ女伯、カレント少将と居並ぶ中できっぱり宣言した。
その目はサヤを見据え、お前にだけは負けないと言外に告げる。
「異議なし」
「娘が承認するなら私も異議なし」
「妻が承認するなら私も異議なし」
サヤが頷くや、アガイルもアイオンも続いて承認した。
もっともイオは「旦那顔するのは早い」と宰相から軽く喝を入れられていた。
(あんたら…もうちょっと王国の未来に責任を持てよっ!)
カレントだけが沸々と怒りを内心で滾らせていた。
宰相も枢機卿も統治への関心をほとんど失っているのは確かで、前者は楽隠居、
後者は入り婿を狙って王都からの逃走を目論んでいるのであった。
(割に合わねぇえー!)
少将がやさぐれるのも無理からぬことであった。
不本意ながらも王女さまを補佐すると決心する一方、
宰相も枢機卿も職務放棄してサヤにベタベタしながらエルミヤで幸福な日々を
送るつもりなのだ。
(このままじゃ済まねえぞ)
レンは密かに誓った。
要は宰相の後釜として王女を後見しつつ、権力を握れば良いだけの話だ。
サヤを不幸にしたい訳ではないが、時々その父親と夫(絶対認めんが!)に嫌がらせ
くらいはしても罰は当たらんだろうと思う。
慌ただしい日々の中、サヤのエルミヤ帰還が少しずつ近づいて来ていた。
Q あのう、イオ、枢機卿辞める気満々ですけど、そう簡単に辞めれるんですか?
A そんな簡単に辞められません、普通は。神官や巫女の中にもイオ様・命!
みたいな熱狂的な崇拝者がいますから。でもイオは「身辺整理」してくる
って言ったんですよねぇ。つまり、邪魔な者は…ってことで。
Q あのう、女王さまの記憶喪失って一時的なものですか?それともずっと?
A さぁ? でも王位に復帰っていうのは無理、だと思います。
Q あのう、王女と少将、このままくっつけて良いんですか?
A 王女がどこまで頑張れるか、少将がどこまで絆されるかによります。
くっつく前にマルモアが滅んだりして。
さて、間もなくエピローグです。
最後の謎、サヤの「命の半分」がもたらす結末とは。




